歌詞に描かれた仙台
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森の都 / 杜の都 2008年(平成20年)時点で見つかっている文献によれば、仙台を「森の都」と初めて記したのが1909年(明治42年)、「杜の都」と初めて記したのが1916年(大正5年)であり、当初はどちらで表記しても良かった。 『ミス仙台』の歌詞カードでは、1936年(昭和11年)発売の二葉あき子のシングル、1962年(昭和37年)発売の(二代目)コロムビア・ローズのシングル、1974年(昭和49年)発売の島倉千代子のシングルにおいて「森の都」の方を使用している。 「杜の都」は、1970年(昭和45年)に仙台市が公文書において表記統一し、1978年(昭和53年)にさとう宗幸が歌ったヒット曲「青葉城恋唄」の歌詞カードで用いられたことで広く普及した。そのため現在では、『ミス仙台』の歌詞も「杜の都」と表記される場合がある。 人口上位都市(※:都道府県庁所在地)1935年(昭和10年)国勢調査人口最新推計人口全国東北地方全国東北地方1東京市 ※ 5,875,667人 仙台市 ※ 219,547人 東京23区 ※ 9,702,947人 仙台市 ※ 1,092,525人 2大阪市 ※ 2,989,874人 青森市 ※ 93,414人 横浜市 ※ 3,776,179人 いわき市 329,742人 3名古屋市 ※ 1,082,816人 山形市 ※ 69,931人 大阪市 ※ 2,753,165人 郡山市 326,301人 4京都市 ※ 1,080,593人 盛岡市 ※ 69,130人 名古屋市 ※ 2,327,146人 秋田市 ※ 301,793人 5神戸市 ※ 912,179人 八戸市 62,210人 札幌市 ※ 1,961,244人 盛岡市 ※ 288,384人 6横浜市 ※ 704,290人 秋田市 ※ 60,646人 福岡市 ※ 1,620,554人 福島市 ※ 280,764人 7広島市 ※ 310,118人 郡山市 54,709人 神戸市 ※ 1,518,943人 青森市 ※ 269,868人 8福岡市 ※ 291,158人 米沢市 50,448人 川崎市 1,541,159人 山形市 ※ 246,259人 9呉市 231,333人 福島市 ※ 48,484人 京都市 ※ 1,455,123人 八戸市 218,963人 10仙台市 ※ 219,547人 若松市 46,119人 さいたま市 ※ 1,332,762人 弘前市 166,869人 11長崎市 ※ 211,702人 弘前市 46,014人 広島市 ※ 1,194,643人 石巻市 137,382人 12八幡市 208,629人 鶴岡市 37,224人 仙台市 ※ 1,092,525人 大崎市 126,398人 13函館市 207,480人 釜石町 36,230人 千葉市 ※ 978,021人 鶴岡市 120,685人 14静岡市 ※ 200,737人 石巻市 33,530人 北九州市 932,144人 会津若松市 116,057人 15札幌市 ※ 196,541人 酒田市 31,866人 堺市 821,884人 一関市 110,110人 16熊本市 ※ 187,382人 内郷村 29,917人 新潟市 ※ 784,691人 奥州市 111,598人 17横須賀市 182,871人 塩竈町 29,364人 浜松市 786,822人 酒田市 98,908人 18鹿児島市 ※ 181,736人 能代港町 25,756人 熊本市 ※ 737,887人 花巻市 92,300人 19和歌山市 ※ 179,732人 平町 25,741人 相模原市 725,733人 北上市 93,293人 20佐世保市 173,283人 白河町 22,831人 岡山市 ※ 722,339人 横手市 83,480人 月に棹さす廣瀬川 穏やかな水面に映る月に、船頭が棹を差して小船(あるいは筏)を操る姿を表現している。 名取川水系の広瀬川では上流域で切り出した燃料用の木材を流して、仙台市中心部に近い中流域で陸揚げする流木を、江戸時代には仙台藩の管轄下で、明治維新後は民間企業が行っており、広瀬川上流域からの流木は大橋東詰付近(現・西公園)で、名取川上流域からのそれは木流堀を経由して広瀬川の宮沢橋西詰付近で陸揚げしていたが、大正期より大口需要先である公的機関(第2師団・役所・学校など)が薪から石炭や亜炭(仙台亜炭)へとエネルギー革命を実施したため、『ミス仙台』が創作された昭和10年代に終焉を迎えている。また渡し船も当時、名取川中下流域の鈎取・中田・閖上などでは見られたが、仙台市中心部周辺では架橋が進んだため既に廃れていた。 一方、牛越橋から広瀬橋までの両岸には当時、旧・仙台藩家臣の屋敷跡等を利用した料亭・偕行社・公園・学校が多数あったため、その客らが舟遊びをした様子を表現した可能性がある。奥山無門の「第二師団遠望の図」(1917年(大正6年)頃)には、大橋付近にて、船頭が棹を差して進めている船(6人程度乗船)が2艘描かれている。 なお、新拾遺和歌集に藤原隆信の和歌「明けぬとや 釣する舟も 出ぬらん 月に棹さす しほがまのうら」がある。 夏の祭は七夕に 江戸時代の仙台の七夕は、(旧暦)7月6日夕方に七夕を飾り、翌(旧暦)7月7日朝に広瀬川などでその飾りを流す(七夕流し)という形で定着していた。 明治改暦後も旧暦で行われたが、七夕流しの風習は廃れ、その一方で肴町(魚問屋の集積地)や遊廓で仕掛け物や豪華な七夕飾りが生まれた。1910年(明治43年)以降は、新暦の月遅れ(8月6日・7日)で行われるようになった。 1926年(大正15年)8月6日、市中心部に位置する各商店街が協力して、不景気を払拭しようと「七夕祭連合大売出し」を開催したところ、道を埋め尽くすほどの人出が見られ大盛況となった。これが「商店街七夕」の端緒であり、翌年も同様な形で開催された。そして1928年(昭和3年)、東北産業博覧会の関連行事として「第1回全市七夕飾りコンクール」が行われると七夕飾りはさらに豪華絢爛となった。仙台を代表する祭は、江戸時代には仙台東照宮の祭礼「仙台祭」、明治・大正期には青葉神社の祭礼「青葉祭」や年末年始の「歳の市」等だったが、飾り付けの豪華さも人出も年々上昇していった「仙台七夕」が『ミス仙台』が創作された1936年(昭和11年)頃までにはその地位に上り詰めていた。 しかし、1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端として支那事変(日中戦争)が進行すると、同年を最後に仙台七夕は行われなくなった。終戦翌年の1946年(昭和21年)8月6日・7日、小規模ながら仙台七夕は復活開催された。翌1947年(昭和22年)、昭和天皇の東北巡幸に合わせて8月5日から3日間の日程で開催された。このとき市内には5000本の竹飾りが飾られ、戦前には見られなかった大きな薬玉も登場するなど、量と質で大きな変化を見せた。1954年(昭和29年)以降は現在のように8月6日・7日・8日の3日間の日程で開催され、全国から観光客が集まる「観光七夕」として発展している。 ネオン色めく一番町 三味の音いろも泣きぬれて 仙台市内のネオン・ライト(1933年(昭和8年)1月時点)業種軒数逓昇変圧器数カフェー・喫茶店 34 軒 111 台 製菓会社広告用ビール会社広告用 10 軒 021 台 楽器店 05 軒 007 台 菓子店・パン店 05 軒 006 台 食堂・料理店 04 軒 007 台 呉服店 03 軒 024 台 薬局 03 軒 007 台 洋品店 03 軒 003 台 食料品店 02 軒 003 台 ラヂオ電気商 02 軒 003 台 金物店 01 軒 002 台 活動常設館 01 軒 002 台 その他 江戸時代の仙台城下町の中心地は、仙台城(青葉城)大手門から城下町を通って塩竈・松島・石巻・三陸海岸へと続く東西道(塩竈街道/石巻街道/金華山街道/気仙道)と、江戸(現・東京)から蝦夷地(現・北海道)までを結ぶ南北道(奥州街道)とが交差する芭蕉の辻である。芭蕉の辻を構成する町丁は、東と西が大町4丁目、北が国分町、南が南町である。 1887年(明治20年)、日本鉄道(現・JR東日本東北本線)が仙台区(現・仙台市)まで開通すると、芭蕉の辻と仙台駅との間にある大町5丁目(現・マーブルロードおおまち)、新伝馬町(現・クリスロード)、名掛丁(現・ハピナ名掛丁)が繁華街(商店街)化していった(3町丁を合わせて現・中央通り)。 奥州街道(国分町および南町)の東側を並走する東一番丁(現・一番町)は、明治期に侍町から商業地へと変化し始め、勧工場・活動写真館・劇場・飲食店などの集積が進んで歓楽街(盛り場)となった。しかし、大正末期に開業した仙台市電の電停が東一番丁付近に設置されたことや、東一番丁の南部に藤崎百貨店が1932年(昭和7年)に、北部に三越百貨店仙台支店がその翌年に開業したことにより、国分町および南町に取って代わって市内随一の繁華街(商店街)へと成長していった。すなわち、『ミス仙台』が創作された1936年(昭和11年)当時の東一番丁(現・一番町)は、歓楽街(盛り場)から繁華街(商店街)への転換期にあたる。当時の東一番丁は、1930年代に一般商店等でも使われるようになったとは言え、元々カフェーの装飾用だったネオンサインに彩られ、西から接続する虎屋横丁には料亭や芸者置き場もあって三味線の音色もありふれていた。 「月最深積雪」(仙台)順積雪量観測日1 41 cm 1936年2月9日 2 37 cm 1932年2月26日 3 35 cm 2014年2月9日 4 34 cm 1935年1月1日 1974年1月22日 1976年12月25日 5 33 cm 1936年1月26日 1977年1月1日 6 32 cm 1974年2月8日 7 30 cm 1980年12月14日 雪に埋もるる北の國 仙台管区気象台における「月最深積雪」を見ると、1936年(昭和11年)1月26日に33cm、2月9日に41cmを観測しており、その年の6月に『ミス仙台』が創作されている。因みに、4年前の1932年(昭和7年)2月26日に37cm、前年の1935年(昭和10年)1月1日に34cmと、『ミス仙台』が創作される前の1930年代に上位がきている。 なお、現在の仙台管区気象台の「積雪の深さ最大」の平年値(1981年〜2010年の30年平均値)は、10日分を積算した旬ごとの値でも2月上旬の8cmが最大である。 枝垂櫻の春 『ミス仙台』が創作された1936年(昭和11年)当時、宮城県内の名勝は日本三景の「松島」、仙台市内で唯一指定された「榴ヶ岡の桜」、紅葉で有名な「鳴子峡」の計3つのみだった。 「榴ヶ岡の桜」は、仙台藩第4代藩主・伊達綱村が枝垂桜などを1000本余り植えた「桜の馬場」(現・榴岡公園)に由来するが、1924年(大正13年)の名勝指定当時は彼岸桜と枝垂桜の両種により占められており、特に遠藤庸治・初代仙台市長が明治期に広めた八重紅枝垂は現在も榴岡公園を彩っている。すなわち、染井吉野が現在ほど広まっていなかった当時は、榴ヶ岡の「枝垂桜」が仙台に春の訪れを告げていた。
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