歌詞に描かれた仙台とは? わかりやすく解説

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歌詞に描かれた仙台

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 20:08 UTC 版)

ミス仙台」の記事における「歌詞に描かれた仙台」の解説

森の都 / 杜の都 2008年平成20年時点で見つかっている文献によれば仙台を「森の都」と初め記したのが1909年明治42年)、「杜の都」と初め記したのが1916年大正5年)であり、当初はどちらで表記しても良かった。 『ミス仙台』の歌詞カードでは、1936年昭和11年発売二葉あき子シングル1962年昭和37年発売の(二代目コロムビア・ローズシングル1974年昭和49年発売島倉千代子シングルにおいて「森の都」の方を使用している。 「杜の都」は、1970年昭和45年)に仙台市公文書において表記統一し1978年昭和53年)にさとう宗幸歌ったヒット曲青葉城恋唄」の歌詞カード用いられたことで広く普及した。そのため現在では、『ミス仙台』の歌詞も「杜の都」と表記される場合がある。 人口上位都市(※:都道府県庁所在地1935年昭和10年国勢調査人口最新推計人口全国東北地方全国東北地方1東京市 ※ 5,875,667仙台市219,547東京23区 ※ 9,702,947人 仙台市 ※ 1,092,525人 2大阪市 ※ 2,989,874青森市93,414横浜市 ※ 3,776,179いわき市 329,742人 3名古屋市 ※ 1,082,816人 山形市 ※ 69,931人 大阪市 ※ 2,753,165郡山市 326,301人 4京都市 ※ 1,080,593人 盛岡市69,130人 名古屋※ 2,327,146秋田市301,793人 5神戸市912,179八戸市 62,210札幌市 ※ 1,961,244盛岡市288,384人 6横浜市704,290秋田市60,646福岡市 ※ 1,620,554人 福島市280,764人 7広島市310,118郡山市 54,709人 神戸市 ※ 1,518,943人 青森市269,868人 8福岡市291,158米沢市 50,448川崎市 1,541,159人 山形市 ※ 246,259人 9呉市 231,333福島市48,484京都市 ※ 1,455,123八戸市 218,96310仙台市219,547若松市 46,119さいたま市 ※ 1,332,762人 弘前市 166,869人 11長崎市211,702弘前市 46,014人 広島市 ※ 1,194,643石巻市 137,38212八幡市 208,629人 鶴岡市 37,224仙台市 ※ 1,092,525人 大崎市 126,39813函館市 207,480釜石町 36,230千葉市 ※ 978,021鶴岡市 120,68514静岡市200,737石巻市 33,530北九州市 932,144会津若松市 116,057人 15札幌市196,541酒田市 31,866人 堺市 821,884人 一関市 110,110人 16熊本市187,382内郷村 29,917人 新潟市784,691人 奥州市 111,598人 17横須賀市 182,871塩竈町 29,364浜松市 786,822人 酒田市 98,90818鹿児島市 ※ 181,736人 能代港町 25,756熊本市737,887人 花巻市 92,30019和歌山市179,732人 平25,741人 相原市 725,733北上市 93,29320佐世保市 173,283白河町 22,831岡山市 ※ 722,339横手市 83,480人 月棹さす廣瀬川 穏やかな水面に映る月に、船頭が棹を差して小船(あるいは筏)を操る姿を表現している。 名取川水系広瀬川では上流域切り出した燃料用木材流して仙台市中心部に近い中流域陸揚げする流木を、江戸時代には仙台藩管轄下で、明治維新後は民間企業が行っており、広瀬川上流域からの流木大橋東詰付近現・西公園)で、名取川上流域からのそれは木流堀を経由して広瀬川宮沢橋西詰付近陸揚げしていたが、大正期より大口需要先である公的機関第2師団役所学校など)がから石炭亜炭仙台亜炭)へとエネルギー革命実施したため、『ミス仙台』が創作され昭和10年代終焉迎えている。また渡し船当時名取川中下流域鈎取中田閖上などでは見られたが、仙台市中心部周辺では架橋進んだため既に廃れていた。 一方牛越橋から広瀬橋までの両岸には当時、旧・仙台藩家臣屋敷跡等を利用した料亭偕行社公園学校多数あったため、その客らが舟遊びをした様子表現した可能性がある。奥山無門の「第二師団遠望の図」(1917年大正6年)頃)には、大橋付近にて、船頭が棹を差して進めている船(6人程度乗船)が2艘描かれている。 なお、新拾遺和歌集藤原隆信和歌明けぬとや 釣する舟も 出ぬらん 月に棹さす しほがまのうら」がある。 夏の祭は七夕に 江戸時代仙台七夕は、(旧暦7月6日夕方七夕飾り、翌(旧暦7月7日朝に広瀬川などでその飾りを流す(七夕流し)という形で定着していた。 明治改暦後も旧暦行われたが、七夕流し風習廃れ、その一方で肴町魚問屋集積地)や遊廓仕掛け物豪華な七夕飾り生まれた1910年明治43年以降は、新暦月遅れ8月6日7日)で行われるようになった1926年大正15年8月6日市中心部位置する商店街協力して不景気払拭しようと「七夕祭連合大売出し」を開催したところ、道を埋め尽くすほどの人出見られ大盛況となった。これが「商店街七夕」の端緒であり、翌年同様な形で開催された。そして1928年昭和3年)、東北産業博覧会関連行事として「第1回全市七夕飾りコンクールが行われると七夕飾りはさらに豪華絢爛となった仙台代表する祭は、江戸時代には仙台東照宮祭礼仙台祭」、明治・大正期には青葉神社祭礼青葉祭」や年末年始の「歳の市」等だったが、飾り付け豪華さ人出年々上昇していった「仙台七夕」が『ミス仙台』が創作され1936年昭和11年)頃までにはその地位上り詰めていた。 しかし、1937年昭和12年7月7日盧溝橋事件発端として支那事変日中戦争)が進行すると、同年最後に仙台七夕行われなくなった終戦翌年1946年昭和21年8月6日7日小規模ながら仙台七夕復活開催された。翌1947年昭和22年)、昭和天皇東北巡幸合わせて8月5日から3日間の日程開催された。このとき市内には5000本の竹飾り飾られ戦前には見られなかった大きな薬玉登場するなど、量と質で大きな変化見せた1954年昭和29年以降現在のように8月6日7日8日3日間の日程開催され全国から観光客が集まる「観光七夕」として発展している。 ネオン色めく一番町 三味の音いろも泣きぬれて 仙台市内ネオン・ライト1933年昭和8年1月時点業種軒数逓昇変圧器カフェー喫茶店 34111製菓会社広告用ビール会社広告用 10021楽器05007菓子店パン店 05006食堂料理店 04007呉服店 03024薬局 03007洋品店 03 軒 003 台 食料品店 02 軒 003 台 ラヂオ電気02 軒 003 台 金物01002活動常設館 01002 台 その他 江戸時代仙台城下町中心地は、仙台城青葉城大手門から城下町通って塩竈松島石巻三陸海岸へと続く東西道(塩竈街道/石巻街道/金華山街道/気仙道)と、江戸(現・東京)から蝦夷地(現・北海道)までを結ぶ南北道(奥州街道)とが交差する芭蕉の辻である。芭蕉の辻構成する町丁は、東と西が大町4丁目、北が国分町、南が南町である。 1887年明治20年)、日本鉄道(現・JR東日本東北本線)が仙台区(現・仙台市)まで開通すると、芭蕉の辻仙台駅との間にある大町5丁目(現・マーブルロードおおまち)、新伝馬町(現・クリスロード)、名掛丁(現・ハピナ名掛丁)が繁華街商店街化していった(3町丁合わせて現・中央通り)。 奥州街道国分町および南町)の東側並走する東一番丁(現・一番町)は、明治期侍町から商業地へと変化し始め勧工場活動写真館劇場飲食店など集積進んで歓楽街盛り場となった。しかし、大正末期開業した仙台市電電停東一番丁付近に設置されたことや、東一番丁南部藤崎百貨店1932年昭和7年)に、北部三越百貨店仙台支店がその翌年開業したことにより、国分町および南町に取って代わって市内随一繁華街商店街)へと成長していった。すなわち、『ミス仙台』が創作され1936年昭和11年当時東一番丁(現・一番町)は、歓楽街盛り場)から繁華街商店街)への転換期にあたる。当時東一番丁は、1930年代一般商店等でも使われるようになったとは言え、元々カフェー装飾用だったネオンサイン彩られ西から接続する虎屋横丁には料亭芸者置き場もあって三味線音色ありふれていた。 「月最深積雪」(仙台)順積雪量観測1 41 cm 1936年2月9日 2 37 cm 1932年2月26日 3 35 cm 2014年2月9日 4 34 cm 1935年1月1日 1974年1月22日 1976年12月25日 5 33 cm 1936年1月26日 1977年1月1日 6 32 cm 1974年2月8日 7 30 cm 1980年12月14日 埋もる北の國 仙台管区気象台における「月最深積雪」を見ると、1936年昭和11年1月26日に33cm、2月9日に41cmを観測しており、その年の6月に『ミス仙台』が創作されている。因みに4年前の1932年昭和7年2月26日に37cm、前年1935年昭和10年1月1日に34cmと、『ミス仙台』が創作される前の1930年代上位がきている。 なお、現在の仙台管区気象台の「積雪の深さ最大」の平年値1981年2010年30年平均値)は、10日分を積算した旬ごとの値でも2月上旬8cm最大である。 枝垂櫻の春ミス仙台』が創作され1936年昭和11年当時宮城県内名勝日本三景の「松島」、仙台市内唯一指定された「榴ヶ岡の」、紅葉有名な鳴子峡」の計3つのみだった。 「榴ヶ岡の」は、仙台藩4代藩主伊達綱村枝垂桜などを1000余り植えた桜の馬場」(現・榴岡公園)に由来するが、1924年大正13年)の名勝指定当時彼岸桜枝垂桜の両種により占められており、特に遠藤庸治初代仙台市長明治期広めた八重紅枝垂は現在も榴岡公園を彩っている。すなわち、染井吉野が現在ほど広まっていなかった当時は、榴ヶ岡の「枝垂桜」が仙台春の訪れ告げていた。

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