他動力形式の模索と開発の停滞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 02:55 UTC 版)
「日本の蒸気機関車史」の記事における「他動力形式の模索と開発の停滞」の解説
他種動力方式への注目は早く、1903年には島安次郎が高速電気鉄道研究協会の運転を見て鉄道電化の必要性と高速化の可能性を報告している。翌1904年(明治37年)8月に甲武鉄道が電車運転を開始すると、機関車の動力に電気を応用することが考えられた。水力発電により石炭の節約ができる、蒸気機関車と比べ電車や電気機関車の引き出しの速いこと、性能に勝る電気機関車を作り線路の輸送力を増加させられるなど利点が多く、蒸気機関車から電化への考えに至った。さらに、電化によって煙がなくなることは乗客や住民の望む所であり、トンネルの多い区間においては乗務員の労働環境改善につながった。これに加えて、民間レベルでは蒸気運転は20世紀の乗り物とは思えない時代遅れとの意見もあり、1909年(明治42年)に電化調査委員会が設立された。こうして、明治から大正にかけ電化計画が調査され、鉄道電化の方針が1919年(大正8年)に決定される。これは、無煙化による近隣住民と乗員乗客の環境改善と構造上非効率な蒸気機関車の淘汰による石炭節約と発電所開発による国力増強が目的であり、一部区間は経済効果を無視してでも電化すべきとされ当時としては画期的な計画であった。1922年(大正11年)には「大正17年(1928年)までに東海道本線の全線電化」が決定され、まず東京 - 国府津間および大船 - 横須賀間が電化されることになった。だが、1923年(大正12年)に起きた関東大震災で工事が中断してしまい、既に着工されていた上記区間の電化が完了したところで計画は停滞状態となる。さらに東京 - 国府津間の電化のために一括してイギリスに注文した電気機関車の品質が悪く安全運転さえできない有様で、高価であることばかりが目立つ結果となり電化の実施を遅らせた大きな原因となっている。 1929年度に一部計画を見直しの上で予算計上がされたが、世界恐慌の影響を受けた緊縮財政により再び工事は中断してしまう。自家発電の川崎火力発電所や信濃川発電所の建設を進め、電力の確保に努めるなどの進展もあったが、戦時下に入りこれらの計画は下火となっていった 電化計画は遅れる一方であったが、蒸気機関車に追い風は吹かず気動車開発に重点が置かれるようになり、早くも1933年(昭和8年)には高速気動車の研究が開始されている。軸量の大きな蒸気機関車では、保線当局の反対から高速運転が不可能であり、鉄道の将来を考えるとディーゼルカーの開発は不可欠と考えられたためである。石油は船のために使用すべきで、鉄道は水力発電により電気運転を行なうべきという意見もあったものの、一連の開発研究はキハ42000形やキハ43000形気動車の開発を経て、「超特急気動車」の構想も具体化しつつあったが、こちらも戦時体制に入り計画中止となった。 こうして、日本の蒸気機関車技術の発展は、狭軌のハンデキャップ(軌間の狭さだけでなく、軌道の弱さによる軸重制限の厳しさが、車両性能向上には非常な障害となった)を差し引いても、同時期の欧米の水準からは、一貫して遅れた状態であった。諸外国での技術革新の導入は、蒸気機関車の分野においては「国産化」が達成されたとする大正期以降、ほとんど行なわれなくなっていた。 これは当時、日本の基礎工業力が低かったことによる。加えて、鉄道省で1920年代から30年代にかけて動力車設計を主導した朝倉希一や島秀雄ら主流派技術陣は、電化やディーゼル化による近代化を考えていたこともあり、蒸気機関車の根本的な技術面での冒険を恐れ、ドイツ系、それも大径動輪をゆっくり駆動する、プロイセン流のやや旧式化した手法を踏襲した。もっとも、英国などを中心に見られた動輪を高速で駆動する手法は、軸焼けやクランクの熔解に悩まされ続けたLNER A4形蒸気機関車、高速運行で良好な成績を残しながら走行装置の摩耗損傷からそれを禁止されたイギリス国鉄9F形蒸気機関車などの例もあり、現場の労力や国家の工業力から見て正しかったかどうかは不明である。さらに、大径動輪をゆっくり駆動する手法は戦後の各国にも見られ、例えば1750㎜動輪で100㎞/hを想定した機関車はポーランドOl49やチェコ475.1などが存在し、客観的に見て本当に旧式化した手法であったかも不明である。1930年頃からディーゼルや電化技術が必須となる兆しがあったにも拘らず、蒸気機関車の開発を続けたナイジェル・グレズリーをはじめとする技術者たちは先見の明の無さを酷評されている。 米英をはじめとする諸外国における蒸気機関車の技術革新導入に及び腰で、採用した場合も本来のメリットを損なう独自改変を加えることが多かった。技術導入に積極的な技術者は省内部で冷遇されがちで、早期に民間に下野、あるいは日本資本で先進技術導入に寛容であった南満州鉄道に転じる事例もあった。 結果として、鉄道省・日本国有鉄道の蒸気機関車の技術水準はC51形・D50形の段階で停滞し、以後はボイラー圧力のある程度の向上や電気溶接採用などの部分改良が成功した程度で、本格的な新技術の導入はうまくいかないことが多かった。幹線用蒸気機関車の実用最高運転速度は、保線側の反対もあり戦後まで100km/h未満にとどまった。なお、例外的に重油併燃焼装置の独自開発に成功しており、改造が容易ながら燃焼率 550kg/km³h以下の場合で30%以上の石炭節約、消煙効果と投炭量の減少による労働環境やサービスの改善、引張定数または速度を10%向上と言った絶大な効果を発揮している。 C62形は、1954年(昭和29年)に東海道本線木曽川橋梁上で、129km/hという「狭軌鉄道における蒸気機関車の速度記録」を樹立した。これはピン結合トラスという古い型のトラス橋が、将来的な高速運転に耐え得るかを確認するための、一連の速度試験で得られたもので、さまざまな制約からC62形単機での走行という、特殊な状況下で成立したものであった。鉄橋までは10‰の勾配とわずかにカーブがあり、スピードを出す条件としては最悪であったことに加え、鉄橋上の通過後にブレーキをかけることになっていたため、まだC62形に余力が残された状態での記録であった。10‰勾配と曲線を超え木曽川橋梁から岐阜へ向かえば140km/hは出せていた。C62の営業列車で120㎞/h以上(速度計の数値は120㎞/hまでしか書かれていない)の速度を出す機関士もおり、他の機種でも戦時中の若い機関士を中心に客車を引っ張って129km/h以上を出すこともあった。同時期の国鉄では、電車や電気機関車でも120km/h超過の速度試験が行なわれていたが、こちらは営業運転とほぼ同等の条件で実施され、また欧米の最新技術を採用した阪和電気鉄道や新京阪鉄道といった関西私鉄では、戦前の段階で既に120km/hを超える高速運転が営業列車で恒常的に実施されており、蒸気機関車の設計技術は立ち遅れていた。ただし、蒸気機関車が電車などと比較して劣っていることは日本に限ったことではない。一例として1938年(昭和13年)に蒸気機関車最高速度203kmを記録したマラード号であるが、この速度は1903年(明治36年)にドイツの高速電気鉄道研究協会で既に樹立されていた速度であり、気動車ではフリーゲンダー・ハンブルガーが1936年(昭和11年)に205km/hを記録している。 鉄道車両の高速運転実現に必要な理論解析、特に機関車の振動への考察に欠け、この問題は第二次世界大戦後、鉄道総合技術研究所へ空技廠で航空機のフラッター対策を研究していたスタッフが加入するまで、ほとんど等閑に付された。 日本の蒸気機関車技術は、その開発の終末期(1950年代)に至るまで国際水準に到達しなかった。本土は元より、日本の技術で運営される標準軌鉄道であった朝鮮総督府鉄道および南満州鉄道ほか中国大陸の鉄道も、機関車技術で欧米を凌駕するものではなかった(鉄道省の機関車に比べれば高性能であった南満州鉄道の流線形機関車「パシナ形」も同様であった)。一方で運用効率や保守修繕では国際水準を凌駕しており昭和14年には機関車と乗務員の運行は全面的に別個のものとした。例としてフランスは特に運転が難しい自国の機関車では効率の良い運転が出来ず戦後に国産機を廃車する一方でフランス国鉄141R形蒸気機関車の輸入を進めたことで効率的な運用を達成している。部品の統一も行われ修繕の合理化が出来、修繕日数の短いことでは世界一の折紙が付けられ、修繕サイクルの効率性は1930年代にソビエト連邦から招聘を受けて現地指導を行なったほどであった。これは稼働率低下に悩むソ連が各国の車両修繕状況の調査を行ない、日本の修繕体制が世界一と結論を出し、要望したものであった。全般検査に関しては先進国からも高く評価され、1930年代には6日で修繕が完了、その直後に仕業へつけるほどの最高水準を誇った。特にD51は部分ごとの標準化やユニット化が重視され、このシステマチックな視点は国鉄80系電車から新幹線の開発でも大きく反映され鉄道システム工学の先駆けともいえる存在であった。日本の汽車は世界で最も安全で正確と言われるようになる。過剰とも言える整備への配慮は、戦中の酷使と戦後混乱期に効果を発揮している。蒸気機関車の稼働率は終戦時に70パーセントほどであり、D51形に至っては95パーセントの数値を記録した。
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