蒸気機関車技術の発展
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「鉄道車両の歴史」の記事における「蒸気機関車技術の発展」の解説
ジョージ・スチーブンソンは、馬車鉄道の延長で4 フィート 8.5 インチ (1,435 mm) の標準軌を定めた。しかし満足な機関車を造るためにはこれでは不足であるとの主張もあった。イザムバード・キングダム・ブルネルは、グレート・ウェスタン鉄道の建設に際して7 フィート 0.25 インチ (2,140 mm) の広軌を採用した。これにより、当時の工作精度でも余裕を持って機関車を製造することができ、安定して高速走行をすることも可能になった。こうして標準軌対広軌の「軌間戦争」が勃発した。 広軌の機関車は確かに技術的に優れており、高速性能でも牽引性能でも優秀であった。しかし、既に標準軌の鉄道網は大きく延びており、標準軌と広軌が接続する地点で乗り換えをしなければならず、貨物の積み替えをしなければならない手間に対する苦情は、常に少数派の広軌の側に持ち込まれた。技術的には優れていても、経済的・現実的な問題により広軌は軌間戦争に敗北することになり、ブルネル亡き後のグレート・ウェスタン鉄道でも標準軌への改軌が進められていった。最終的には1892年5月20日、広軌の蒸気機関車「グレート・ブリテン号」が牽引する、ロンドンパディントン駅を10時15分に出発するペンザンス行き急行「コーニッシュマン号」を最後に、わずか2日間という速度で改軌工事が行われて最後の広軌の線路はイギリスから消滅した。 一方この頃、逆に狭軌の鉄道技術の開発も行われていた。蒸気機関車を実用的に動かすためには標準軌が最小であると当初は考えられていたが、やがて建設費を抑えたいという要求から狭軌が開発された。世界で最初の実用狭軌鉄道は、ベルギーのアントウェルペンとセントニコルスの間に1844年11月に開通した。軌間は3 フィート9 インチをメートル法に丸めた1,100 mmであった。またノルウェーでは3 フィート 6 インチ (1,067 mm) の狭軌鉄道が開通し、これは日本やオーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなどに影響することになった。ただしベルギーやノルウェーではその後標準軌に改軌されている。狭軌は建設費を安く抑えられるため、山がちな国や発展途上国、植民地などで広く採用されることになった。 工作精度の低い時代には、ピストンや車輪を高速回転させることができず、低い回転数で高い速度を出すためには大きな動輪を必要とした。このため、1軸の動輪を極端に大きく作った「シングルドライバー型」 (single driver) が発展していった。しかし動輪の大型化には限界があり、また1軸のみの動輪では牽引力が不足するため、やがて新しい形式の機関車が開発されていった。 新形式は、主に車軸の数を増やしていく方向で発展した。そしてその発展は主にアメリカが牽引していた。初期には貧弱な線路に対応するために機関車技術を発展させていたが、やがてアメリカの線路は世界でも最高レベルの規格のものへ改良されていき、その中で世界最大クラスの蒸気機関車が用いられるようになっていった。その過程で新しい車軸配置の機関車が次々に投入され、4-6-0「テンホイラー」(Ten-Wheeler、1854年)、2-6-0「モーガル」(Mogul、1860年)、2-8-0「コンソリデーション」(Consolidation、1866年)、2-10-0「デカポッド」(Decapod、1867年)、2-8-2「ミカド」(Mikado、1883年)、4-6-2「パシフィック」(Pacific、1889年)、4-4-2「アトランティック」(Atlantic、1894年)と発展していった。 ボイラーでの蒸気発生量を増やすためには、火室を広げて石炭を燃やす面積を増やす必要がある。このために動輪の後ろに従輪を取り付けて火室を後ろに広げた形式が考えられた。これが車軸配置2-8-2の「ミカド」である。ミカド型の最初の機関車は1883年に造られていたが、これは火室を広げるための従輪ではなかった。火室を広げるために従輪を取り付けるという本来のミカド型の発想によって造られた最初の機関車は、日本鉄道向けにボールドウィンが1897年に製作した9700形で、日本向けであることから天皇の別称から「ミカド」の名前がボールドウィンによって付けられた。また4-6-2の「パシフィック型」でも、同様にニュージーランド向けの1902年製造の機関車で火室の増大が図られ、こうした狭軌鉄道向けの機関車から広火室が本格的に始められた。 弁装置は、蒸気機関のシリンダーに蒸気を供給し排出するタイミングを制御し、前進と後進を切り替えたりカットオフを制御して蒸気を節約したりするための装置である。初期の機関車にはスチーブンソンが考案したスチーブンソン式弁装置が用いられていた。1844年にベルギー国鉄の技師ワルシャート (Egide Walschaerts) はワルシャート式弁装置を考案した。ドイツのホイジンガー (Heusinger) が改良したため、ホイジンガー式とも呼ばれる。この弁装置はその優秀性から広まり、その後蒸気機関車の時代の終焉まで用いられ続ける装置となった。一方でアメリカにおいては広大な大地を長距離に渡って走行し、その間満足な整備ができないという事情から、摺動部分がなく整備の手間が少ないベーカー式弁装置が開発されて普及した。 蒸気機関車ではボイラーで蒸気を作ってシリンダーへ供給している。蒸気は、液体の水から沸騰させて作った段階ではまだ多量の水分を含んでおり、飽和蒸気と呼ばれる。これをさらに加熱して水分を完全に蒸気に変換して温度を上げたものは過熱蒸気と呼ばれる。過熱蒸気を使った方がより効率がよくなるということから、蒸気機関車でも過熱蒸気を使う取り組みは行われてきた。最初に取り組んだのは1852年のロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道の技師マッコーネルであり、さらに欧米各国で様々な実験が試みられたがうまくいかなかった。初めて成功したのはドイツのヴィルヘルム・シュミット (Wilhelm Schmidt) で1891年のことであった。さらにベルギー国鉄の技師長J.B.フラムの助言で、煙管内に過熱管を引き回す構成を1901年に完成させ、シュミット式過熱蒸気のシステムはたちまち全世界の蒸気機関車に広まることになった。 ボイラーで作った蒸気を、高圧シリンダーに先に通し、まだ圧力の残っている高圧シリンダーからの排気を低圧シリンダーに通すという2段階に分けて利用する方式を複式機関車(コンパウンド)という。複式に対して従来の方式は単式(シンプル)という。複式では、蒸気の持つ熱エネルギーを有効に引き出して熱効率を向上することができる。複式の発想も蒸気機関車の歴史の比較的初期からあり、1850年にイギリスのイースタン・カウンティー鉄道のジョン・ニコルソンとジェームス・サムエルソンによって特許が取られている。しかし実用に足る機関車が実際に造られたのは1876年のことで、スイスのアナトール・マレーの設計によるフランスの機関車であった。マレーはさらに工夫を進め、蒸気機関車を2車体連結にし、高圧シリンダーで使った後の蒸気を低圧シリンダーの搭載されている車体に送って使うマレー式機関車を発明した。マレー式を含む複式機関車はしばらく各国で用いられたが、過熱蒸気のシステムが普及するとメリットが薄くなり、操作や保守の不便さからフランスを除いてあまり見られなくなった。フランスでは、精緻な機関車で性能を最大限に引き出そうとする発想から最後まで複式が用いられ続け、小型の機関車でも世界最大のアメリカの機関車に匹敵する出力を実現できるほどに発展した。 世界最大の出力を持つ蒸気機関車として知られるアメリカのビッグボーイもマレー式と呼ばれることがあるが、これは2車体連結ではあるものの複式ではない。 蒸気機関車のシリンダーの数は、通常左右それぞれに1つずつの2つで、複式の場合高圧と低圧が組み合わせられるため4つになる。イギリスでは4気筒でも単式で燃費向上ではなく同じ車両限界内での出力増大と内外シリンダーの駆動を逆にすることで振動を抑える目的の機関車が開発され、フランスの複式4気筒と共に使われていたが、両者とも大型化が進むにつれクランク車軸がゆがみやすくなる(車軸にクランクが2つあり強度が落ちる)という問題が発生し、中央のクランクを1つにした3シリンダー機の方がクランクウェブの厚みが取れ大馬力化に有利で、トルク変動も2・4気筒が1回転に4回なのに対し3気筒は6回に分散するためトルクのむらが少なく振動が減少するという計算がされたが、てこで外側シリンダーの動きをすぐ内側のシリンダー(位相が逆なので複雑な機構もいらない)で動かせばいい4シリンダーに対し、専用のバルブをつけて中央シリンダーを動かさなければいけないため整備しにくいという欠点があり、改良案としてイギリスのロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道の技師長ナイジェル・グレズリーは、2つの弁装置から延びるてこで3気筒を駆動するグレズリー式連動弁装置を開発して自社の機関車に使用したが、こちらは前方からすぐに保守ができる代わりにこまめに整備しないと中央シリンダーの動きにずれが生じてクランクの損傷につながるので一長一短で、イギリスなど内側シリンダーの整備に慣れていたところでは撤去(専用のバルブをつける)されるなどの改造を受けたものもあった。 こうして発展してきた蒸気機関車は、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道のA4形蒸気機関車の1両、4468号機「マラード」 (Mallard) により、1938年7月3日に203 km/hという世界最高速度記録を達成した。これは2008年現在まで破られていない、蒸気機関車の世界最高速度である。この機関車は国立ヨーク鉄道博物館に保存されている。
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