蒸気機関車牽引による鉄道
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「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「蒸気機関車牽引による鉄道」の解説
ニュージャージー州ホーボーケンに住んでいた元陸軍大佐で弁護士・技術者・発明家であったジョン・スティーブンスは、蒸気鉄道の導入を提唱し、1815年にはニュージャージー州の州議会から鉄道建設の許可を取り付けた。1823年にはペンシルベニア州の州議会からも鉄道建設の許可を取り付けたが、反対も強く、また鉄道建設に必要な資金を集めることができなかった。そこで、スティーブンスは1825年に自宅の庭に円形の線路を敷いて、自力で開発した蒸気機関車を走らせた。これは線路に設けた突起に機関車の歯車を噛み合わせて前進するラック式鉄道で、最高速度は19 km/hほど出した。これがアメリカにおいて最初に走った機関車である。 イギリスでは次第に蒸気機関車とそれによる鉄道が発達しつつあり、この時期にイギリスに視察に行ったアメリカ人の報告により次第にアメリカでも蒸気鉄道への理解が深まりつつあった。重力式鉄道を建設したデラウェア・アンド・ハドソン鉄道でも、インクラインの間にある平坦な区間において牽引に馬ではなく蒸気機関車を用いることを計画した。このためにジョン・ジャービスは部下の技術者であるホレイショ・アレンをイギリスへ送った。アレンはイギリスで、蒸気機関車の実用化をしたジョージ・スチーブンソンと面会し、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道を見学した。そしてロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニーに1両、フォスター・ラストリック・アンド・カンパニーに3両の蒸気機関車を発注してアメリカに持ち帰った。ロバート・スチーブンソン製の機関車は「プライド・オブ・ニューカッスル」(Pride of Newcastle)、フォスター・ラストリック製の機関車は「デラウェア」(Delaware)、「ハドソン」(Hudson)、「スタウアブリッジ・ライオン」と名づけられたが、デラウェアとハドソンについてはその後の記録が残っておらずはっきりしない。またプライド・オブ・ニューカッスルも、解体されて部品取りに使われたものと考えられている。実際にデラウェア・アンド・ハドソン鉄道で走ったのはスタウアブリッジ・ライオンで、1829年8月8日のことであった。機関車の性能は良好であったが、木製のレールや橋梁は機関車の重量に耐えられず、とても実用には耐えないと判断されて、デラウェア・アンド・ハドソン鉄道での蒸気機関車の使用はこの時点では見送られてしまった。 一方ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道では、曲線がきついことから蒸気機関車の利用は不可能であるというジョージ・スチーブンソンの意見により馬の牽引で開業していた。しかし実業家で政治家でもあるピーター・クーパーは、購入した蒸気機関を搭載した機関車を試作してみた。この機関車は「トム・サム」という名で、1830年8月に試運転を行った。これは、アメリカで一般営業をする路線において初めて走行した機関車となったが、まだ試作・試運転に留まり、営業運行には用いられなかった。馬が牽引する列車との競走を1830年8月25日に行い、トム・サムは故障のために馬に敗れはしたが、蒸気機関車が実用に足ることを示し、またスチーブンソンの意見に反して急曲線でも走行可能であることが分かった。このためボルチモア・アンド・オハイオ鉄道では翌年実用機関車を選定するコンテストを開催し、7月から蒸気機関車による定期旅客営業を開始した。 サウスカロライナ州においてサウスカロライナ運河鉄道(英語版)でも蒸気機関車の運転を開始した。技師長はデラウェア・アンド・ハドソン鉄道から移ってきたホレイショ・アレンで、ニューヨークのウェスト・ポイント・ファウンドリー(英語版)に発注して蒸気機関車を製造させた。完成したのは「ベスト・フレンド・オブ・チャールストン(英語版)」で、1830年12月25日に運転が開始された。この鉄道の軌間は5フィートで、これ以降南部の標準的な軌間としてしばらく使用された。これがアメリカで最初に営業運転に使用された実用蒸気機関車となった。 こうして蒸気機関車が実用に用いられるようになると、アメリカ各地でその使用は広がっていった。1832年にペンシルベニア州・バージニア州、1833年にノースカロライナ州、1834年にケンタッキー州、1835年にワシントンD.C.・ロードアイランド州、1836年にフロリダ州・メイン州・ミシガン州・ウェストバージニア州、1837年にミシシッピ州・ジョージア州、1838年にコネティカット州・イリノイ州・ニューハンプシャー州といった州で蒸気鉄道の運行が開始され、1840年には鉄道の総延長が4,500 kmに達した。これは当時のヨーロッパのすべての鉄道を合計した距離の2倍にもなった。 鉄道の運行に必ずしも皆が好意的というわけではなく、特に鉄道の進出によって影響を受けることになる運河の所有会社からは激烈な反対を受けた。巨大な資本を投じて建設され、長年をかけて償還される運河は、建設に際してその地域の輸送を独占する免許を与えられて公共事業として保護されることが常であったため、鉄道の建設に対して訴訟を起こすなどして抵抗した。しかし実際には、特にかさばるばら積み貨物などに関しては長く鉄道より運河の輸送の方が運賃が低廉で、1854年時点で1トンを1マイル (1.6 km) 輸送するためにかかる費用は運河では1セント前後であったのに対して鉄道では2セントを超えており、鉄道網が発達しても依然として運河による輸送量は増加していた。とはいえ、鉄道は輸送速度が運河より絶対的に速く、緯度の高い地方にある運河は冬季に凍結して長期間輸送不能になることや、平地にしか建設できず支線網を伸ばすことが困難で、馬車との積み替えがどうしても発生することなど、鉄道の方が有利な点が数多くあり、旅客輸送や郵便物輸送、軽量な物品の輸送などから鉄道に転換していくことになった。一方一般の人々からも、事故に対する恐怖や沿線に火災を引き起こす、家畜が驚いて牛の乳の出が悪くなるといった理由を挙げて反発を受けることがあった。
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