蒸気機関車以前の鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:29 UTC 版)
「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「蒸気機関車以前の鉄道」の解説
アメリカでは、蒸気機関車が発明される以前に既にレールと車輪を組み合わせた輸送機関が存在していた。マサチューセッツ州のボストンにおいて、ビーコンヒルという丘で焼かれた煉瓦や陶磁器を運搬するために1795年頃に木製のレールが敷かれていた記録がある。これは牛車や馬車が通行するためのものであった。1809年にはフィラデルフィア近郊のグラムクリークに石材輸送用の鉄道が、1811年頃にはバージニア州リッチモンド近郊のフォーリングクリークに火薬工場の輸送用の鉄道が敷設されるなど、機械的な動力によらない短区間の鉄道が次第に建設され始めていた。 一般に「アメリカ最初の鉄道」とされているのは、マサチューセッツ州クインシーに建設されたグラニット鉄道である。それまでにあったような工場などに付属する鉄道ではなく、鉄道を運営するための会社としてグラニット・レールウェー・カンパニー (Granite Railway Company) が1826年3月4日に設立された。グラニットは花崗岩という意味で、石材の積み出し用の鉄道であった。1826年4月1日に着工し、10月7日に開通した。技術的にはグリッドリー・ブライアントが担当した。路線にはほとんど曲線がなく、緩い登り勾配の区間と、終点にケーブル牽引によるインクライン区間があった。石の枕木の上に木製のレールを敷き、これに鉄製のストラップを取り付けてあった。ただし、公道と交差する場所およびインクライン区間では石材製のレールが使われていた。軌間は5フィート(1,524 mm)であった。車輪も木製で周囲に鉄製ストラップをまきつけてあった。牽引は馬によっていた。石材を積む貨車は大きな車輪を備えており、2軸の車軸で台枠を支え、荷台は台枠の上ではなく下に鎖で吊り下げられていた。荷台をまずレール間に置いてこれに石材を載せ、貨車をその上に移動させてきて、台枠に設置されたウインチで鎖を巻き上げて荷台を持ち上げる仕組みであった。この鉄道はバンカーヒル記念塔の石材を運搬するために用いられるなど、成功裏に運用された。 続いて、ペンシルベニア州モーク・チャンク(Mauch Chunk、1953年に改称されてジム・ソープ(英語版)となる)で石炭輸送用の鉄道が建設され、1827年5月に完成した。この鉄道は、リーハイ川(英語版)に面するモーク・チャンクと、炭鉱のあるサミット・ヒル(英語版)を結ぶ重力式鉄道であった。モーク・チャンクからサミット・ヒルへは登り勾配になっており、ラバが貨車を牽いて引き上げる。サミット・ヒルでは貨車に石炭を搭載し、さらに貨車のうちの1両にラバを乗せて、制動手が手作業でブレーキを掛けながら下り勾配を重力で走ってモーク・チャンクへ戻った。ローラーコースターのような仕組みの鉄道である。レールは初めて鉄製のものになり、イギリスから輸入された。軌間は3フィート6インチ (1,067 mm) で、ジョザイア・ホワイト(英語版)による指導で建設され、リーハイ炭鉱汽船(英語版)が鉄道を運営した。 1844年になり、従来の路線を下り線として、別に上り用の線を増設する複線化が実施された。この際に、ピスガ山とジェファーソン山に定置式蒸気機関を備えたインクラインが設置されて、獣力による運行を廃止した。モーク・チャンクからまずピスガ山の山頂に設置された蒸気機関によるケーブル牽引で貨車をピスガ山に引き上げ、そこからジェファーソン山の麓まで重力で走行する。さらにそこでジェファーソン山の山頂に設置された蒸気機関によるケーブル牽引で貨車をジェファーソン山に引き上げ、そこからサミット・ヒルまで重力で走行した。帰りは従来からの線路を使ってまっすぐモーク・チャンクへと帰着した。この際に、ピスガ山の山頂からジェファーソン山の麓までは、直接結ぶと勾配が急になりすぎることから、スイッチバックが採用された。貨車が下り勾配を下ってくると、やがて水平になり、登り勾配になっている区間に入って止まり、そこで逆に走り始める。途中にある分岐器がその間に切り替わっており、今度は別な線路に入ってさらに下へ下っていく、というジグザグの線路が採用されていた。このことから、この鉄道はモーク・チャンク・スイッチバック鉄道と呼ばれていた。 3番目の鉄道はデラウェア・アンド・ハドソン鉄道であった。当初はデラウェア・アンド・ハドソン運河会社の名前で、ペンシルベニア州カーボンデール(英語版)に発見された炭鉱からの石炭を搬出するために、デラウェア川とハドソン川を結ぶ運河を建設した。この運河の起点ホーンズデール(英語版)までムーシック山脈(英語版)を越えてカーボンデールからの石炭を運び出すために、全長約27 km、軌間4フィート3インチ (1,295 mm) の重力式鉄道が建設され、1829年10月9日に開通した。主任の技師を務めたのはジョン・ジャービスであった。当初の路線では、カーボンデールからムーシック山脈の山頂へ向かって5つのインクラインが、そこからホーンズデールへ下る区間に3つのインクラインが設置されていた。カーボンデールから登る区間では定置式蒸気機関により貨車を牽引し、ホーンズデールへ下る区間では、石炭を積んだ貨車が勾配を下る力を利用して空車の貨車を引き上げるケーブルカーのような構造になっていた。後にカーボンデールより西へも延長され、また双方向の路線を完全に別路線に分離して多数の定置式蒸気機関によるインクラインが設置されるなど、大規模な重力式鉄道へと発展していった。 アメリカで最初に一般営業を始めた鉄道は、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道であった。これ以前の鉄道は特定の物品を運ぶためのものであったが、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道は運賃さえ払えば誰でも利用することのできる鉄道であった。これはエリー運河の開通によって、西部との交通がニューヨークへ集まってしまったことに危機感を抱いたボルチモアの商人が、アレゲーニー山脈を越えて西部への運河を建設することが技術的にほとんど無理であったことを解決するために鉄道建設に至ったものであった。1827年2月28日にメリーランド州の特許を得て、1828年7月4日に着工に至った。起工式ではアメリカ独立宣言の署名者で当時唯一生存していた、92歳のチャールズ・キャロル・オヴ・カロルトンが鍬入れを行い、「これは独立宣言への署名に次いで、私の生涯で2番目に重要な出来事だ」と語った。しかしこの鉄道が営業を開始した1830年5月24日の時点ではまだ馬の牽引であった。
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