初期フランドル派 破壊と散逸

初期フランドル派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 03:42 UTC 版)

破壊と散逸

イコノクラスム

偶像破壊を「象徴する出来事」である、1566年8月20日に起きたアントウェルペンの聖母マリア大聖堂の破壊を描写したフランス・ホーヘンベルクの版画[190]

1520年代に始まった宗教改革により、キリスト教を扱った絵画や彫刻といった聖像は精査され、さらに偶像崇拝に当たらないかどうかを調査された。宗教改革を主導したマルティン・ルターが認可した聖像もあったが、初期フランドル派の絵画作品はその多くが偶像崇拝の恐れがあると判定された。また、宗教改革の中心的役割を果たしたアンドレアス・カールシュタット (en:Andreas Karlstadt)、フルドリッヒ・ツヴィングリジャン・カルヴァンはあらゆる宗教施設に置かれた聖像をすべて否定し、ネーデルラントのプロテスタントも間もなくカルヴァン主義が支配的になっていく。そして1520年から北ヨーロッパ各地で吹き荒れた偶像破壊運動(イコノクラスム)へとつながっていった[191]テューダー王家統治下のイングランドのように公式かつ平和裏に聖像が除去された例もあるが、1566年にネーデルラントで起きたビルダーシュトゥルムと呼ばれる偶像破壊は、非公式でしかも暴力的なものだった。1566年8月19日は偶像破壊運動がヘントまで波及したときの様子が記録に残っている。このときシント・バーフ大聖堂の『ヘントの祭壇画』は「暴徒から守るためにパネル単位に分解され、一枚ずつ別の建物に隠され」ている[192]。アントウェルペンの教会も1566年のビルダーシュトゥルムと[193]、1576年のスペイン軍による略奪 (en:Sack of Antwerp) によって壊滅的な打撃を受けた。さらにアントウェルペンは1581年になっても、市議会を支配したカルヴァン主義者たちによって「公式」な偶像破壊が行われている[194]

イコノクラスムによって絵画、彫刻、祭壇画、ステンドグラス、十字架など何千点にも及ぶ美術品が破壊された[195]。初期フランドル派創成期の重要な芸術家の作品で現存するものは少なく、ヤン・ファン・エイクの作品だとされているものも24点しか残っていない。第二世代以降の芸術家の作品は比較的多く現存しているが、ペトルス・クリストゥスは例外的に現存する作品が少なく、ヤン・ファン・エイクの作品数を下回っている。初期フランドル派第二世代以降の作品は多く南ヨーロッパへと輸出されていた。このことが北ヨーロッパを席巻したイコノクラスムを回避し、その作品が多く現存するという結果につながった[196]

多くの初期フランドル派の作品が、教会など宗教施設からの依頼で制作されている[139]。作品の大きさや描かれる題材も建物や内装に見合ったものが選ばれた。ヤン・ファン・エイクの『教会の聖母子』やファン・デル・ウェイデンの『聖フーベルトゥスの改葬』には教会の内装が描かれており、当時の教会内部の様子が表現されている可能性がある。美術史家ナッシュはファン・デル・ウェイデンの作品には宗教改革以前の教会の外観に対する深い洞察力が見られるとし、その作品は飾られる部屋の内装や、同じ部屋の他の絵画作品にうまく共鳴するような作風で描かれていると指摘している。さらにナッシュは「(初期フランドル派の絵画作品に込められている意味を理解しようとして)描写されている事物の関連性や描かれている主題を、あらゆる角度から何度も見直す必要はない」とする。偶像破壊主義者たちが敵視したのは教会や聖堂、そして展示されている美術品が持つ大衆に向けたメッセージであり、当時の人々にとってその美術品が内包する意味は容易に理解できたはずだと主張している[195]

ヴァロワ=ブルゴーニュ公家の断絶以来、1945年の第二次世界大戦の終結に至るまでネーデルラントはほぼ常に戦場であり、イコノクラスムだけでなく火災や戦乱でも多くの作品が失われた。中でもファン・デル・ウェイデンの『トラヤヌス帝の裁き』が戦火で破壊されたのは極めて大きな損失の一つと言える。ブリュッセル市庁舎の法廷に飾られていたこの作品は『ヘントの祭壇画』と同じくらい大規模な絵画で、アルブレヒト・デューラーなど観覧者に絶賛された傑作だった。しかしながら1695年のフランス軍によるブリュッセル爆撃 (en:bombardment of Brussels) で破壊されてしまい、今ではこの作品をもとに制作されたタペストリーが残っているだけである[197]

当時の記録

『聖ヴェロニカ』(1410年)、ロベルト・カンピン。
シュテーデル美術館フランクフルト・アム・マイン)所蔵。
ロベルト・カンピンと同一視されている「フレマールの画家」の作品。

初期フランドル派の画家たちの名前と著名な作品を誰が描いたのかの研究が、多くの美術史家たちによって続けられている。初期フランドル派に関する歴史的な記録は極めて少ない。最重要とみなされている巨匠の生涯に関しても大雑把にしかわかっておらず、作者の同定についても継続中のものも多く、なかには長期にわたって論争となっているものもある。20世紀に入ってからの数十年間で実施された科学的、歴史的研究結果だけが現在の主流の学説となっている[198]。アードリアン・イーゼンブラント (en:Adriaen Isenbrandt) やアンブロシウス・ベンソンといった画家たちが大規模な工房を主宰し、大量の絵画作品を制作したことも画家の特定の混乱に拍車をかけている。現在では500点を超える作品がこのような画家たちの作品だとされている[199]

様々な歴史的要因が初期フランドル派に対する調査の障害となっている。二度の世界大戦で多くの貴重な資料が失われただけでなく、作品そのものも記録と共に失われ破壊されてしまった[198]。残っている記録にも矛盾した内容のものがあり、経済上の必要に迫られて輸出された巨匠の作品に関しても適切な記録が残っていないことが多い[119]。1420年代までに制作された絵画で、画家のサインや制作年度が記されている作品はほとんど存在しない[200]。収集家の財産目録に記されている美術作品の説明も誇張されたものが多く、制作した芸術家や工房に関する、あまり重要性の高くない情報を提供しているに過ぎない[201]。現存する初期フランドル派に関する資料は、財産目録、遺書、支払記録、雇用契約書、ギルドの記録や規約書が多い[202]。ヤン・ファン・エイクの記録は、絵画技法の革新者だったこともあって同時代の芸術家と比べると多く残されており、美術史家たちの研究によって多くの絵画がヤン・ファン・エイクの作品であることが明らかになった。現存する絵画のうち、26点から28点がヤン・ファン・エイクが描いた作品だとされている。以前はヤン・ファン・エイクの作品だったと考えられていたものが、ファン・デル・ウェイデンやクリストゥス、メムリンクといった画家たちの作品と同定され直したこともあった[203]

『涙するマグダラのマリア』(1525年頃)、マグダラのマリアの画家。
ナショナル・ギャラリーロンドン)所蔵。
ピーテル・ファン・コニンクスローではないかと考えられている、通称「マグダラのマリアの画家」の作品。

ヤン・ファン・エイクの兄であるフーベルト・ファン・エイクは、19世紀の研究者たちから極めて高く評価されていた画家である。しかしながら現代ではあまり重要視されていない画家で、確実にフーベルト・ファン・エイクが描いたと考えられている作品は一点もない。最初期の初期フランドル派の芸術家の中には、名前すら伝わっていないものも多く、そのような未詳の画家は「聖母の生涯の画家」のように作品の作風や主題によって「……の画家」という通称で呼ばれている。作風が似通った作品群が、特定の未詳の画家によって描かれたのかどうかの判断は難しい。同じ場所に住んでおり、同等の修業を積んだ別の画家が、そのときの大衆の好みに応じて似た作風の作品を描いたという可能性は十分にある[119]。通称で呼ばれていた画家が後に特定されることもある。異論もあるが、「フレマールの画家」という通称で呼ばれていた画家はロベルト・カンピンだと考えられている[29]

14世紀後半から15世紀初頭に活動した、まぎれもなく第一級の画家たちの多くは、何者なのかが判明していないために学術的研究がなされていない。ナッシュは「特定されている画家や作品に関しても依然として調査が不足している」としている[119]。また、画家と作品の関連付けが薄弱な根拠のもとで行われていると批判する美術史家も存在する。この立場の美術史家は、画家の特定が署名、記録、同定された作品などの手段に頼っているが、技法や地理的な近接性をさらに考慮するべきだと主張している。どちらもマルグリット・ドートリッシュに仕えていたといわれ、作風、活動時期、活動場所が似通っていることから、ピーテル・ファン・コニンクスロー (en:Pieter van Coninxloo) と同一視されることが多い「マグダラのマリアの画家 (en:Master of the Legend of the Magdalen) がその好例だとしている[204]。他にも、このような観点からの研究によって特定が進んだ画家に、フーホ・ファン・デル・フース、ロベルト・カンピン、シュテファン・ロッホナー、シモン・マルミオンらがいる[205]

16世紀以前の巨匠たちが書いたであろう美術理論書や、作品に対する評価の記録が残っていないことも画家の特定をさらに困難にしている。アルブレヒト・デューラーは1512年に、同年代の芸術家としてはもっともはやく自身の美術理論書を書き上げた。その後、1565年にルーカス・デ・ヘーレ (en:Lucas de Heere)、1604年にはカレル・ヴァン・マンデルがそれぞれ美術理論書を著している。ナッシュは、16世紀以前にイタリア以外の芸術家によって書かれた美術理論書が存在しないことについて、北ヨーロッパの画家たちは自分たちの芸術を説明する語彙を持っていなかったか、あるいは美術理論そのものに興味がなかったのではないかと推測している。現存する15世紀の初期フランドル派の作品に対する評価は、ほとんど全てがイタリア人によって記録されたものばかりである。よく知られているものとしては、1449年のルネサンス人文主義者、古美術収集家のキュリアクス・アンコーナ (en:Ciriaco de' Pizzicolli)、1456年のバルトロメオ・ファツィオ、1452年の芸術家ジョヴァンニ・サンティ (en:Bartolommeo Fazio) による記録がある[206]




注釈

  1. ^ 本稿における「北ヨーロッパ」という用語は「北欧」ではなく、アルプス以北の地域ないし文化圏を意味する。
  2. ^ 単に「フランドル絵画」、「ネーデルラント絵画」ないし「オランダ絵画」といった場合には、17世紀初頭の作品群(オランダ黄金時代の絵画)を指すことのほうが多い[3]
  3. ^ ヤン・ファン・エイクは自身の署名にギリシア語のアルファベットを使用しており、そのほかのヘントで活動していた画家は工房で弟子たちに読み書きを教えていた。
  4. ^ 現在の研究では、当時キャンバスに描かれていたのは作品全体のおよそ三分の一程度とも考えられているが、それらの作品のうち現在まで残っているものは極めて少なく、現存している初期フランドル派の絵画はほとんどが板絵となっている。 Ridderbos (2005), 297
  5. ^ 『ラファエロのカルトン』から制作されたタペストリーはヴァチカンが所蔵しており、現在でも特別な儀典のときのみシスティーナ礼拝堂に飾られる[124]
  6. ^ フィリップ3世はイアソンの物語に由来する金羊毛騎士団を1430年に設立している。
  7. ^ 当時「三連祭壇画」という言葉は存在しておらず、この形式の作品は「扉付の絵画」と呼ばれていた。Jacobs (2011), 8
  8. ^ 16点のうち完全な状態で現存しているのが8点、裁断された状態で残っているのが5点で、3点は失われてしまっている。Jacobs (2000), 1010
  9. ^ ロヒール・ファン・デル・ウェイデンが描いた祭壇画で、裁断された状態で現存している『読書するマグダラのマリア』の項を参照。
  10. ^ デューラーの父は金細工師で、息子のデューラーの話では、ネーデルラントで働いていたときに「偉大な芸術家」に出会ったとしている。デューラー自身も1520年から1521年にネーデルラントに滞在しており、ブルッヘ、ヘント、ブリュッセルなどの都市を訪れている。Borchert (2011), 83
  11. ^ ドイツ人画家コンラート・ヴィッツが1444年に描いた『奇跡の漁り ( en:The Miraculous Draft of Fishes (Witz))』は、西洋美術史上で初めて地理学的に正確な風景が描かれた作品だといわれている。Borchert (2011), 58
  12. ^ パノフスキーは「三箇所のアーチから見ることが出来る屋内風景」と表現している。 Panofsky (1969), 142
  13. ^ このボワスレーのコレクションは1827年にドイツ人画家ヨハン・ゲオルグ・フォン・ディリスの勧めで1827年に売却され、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークの中核コレクションの一つとなっている。Ridderbos (2005), 86

出典

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  216. ^ Ridderbos et al. (2005), 203
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  226. ^ Buchholz, Sarah R. "A Picture Worth Many Thousand Words". Chronicle, University of Massachusetts, 14 April 2000. 2012年12月15日閲覧。
  227. ^ Chapuis (1998), 12





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