用語と領域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 05:16 UTC 版)
「初期フランドル派」は、ブルゴーニュ公国の統治下にあった15世紀から16世紀のネーデルラントで発展した絵画作品と、その作者たる画家を意味する用語として使用されることが多い。初期フランドル派の芸術家たちは、この時代の北ヨーロッパでそれまでの中世ゴシック様式から徐々に脱却し、北方ルネサンスと称される新たな美術様式を創りあげていった。当時の政治的観点ならびに美術史的観点から見れば、ブルゴーニュ公国の文化の影響は、現在のフランス、ドイツ、ベルギー、オランダに渡る地域にまで波及していた。 「初期フランドル派」はさまざまな呼ばれ方をすることがある。「後期ゴシック派」は中世絵画との連続性を重視する立場の用語で、フランス語起源の「初期フランドル派」という用語は、19世紀まで続くフランドルの伝統的芸術の一期間を示すとする立場である。1900年代初頭の英語圏諸国では「ヘント=ブルッヘ派 (en:Ghent-Bruges school)」や「旧ネーデルラント派 (Old Netherlandish school)」と呼ばれることが多かった。「初期フランドル派 (Flemish Primitives)」は、もともとフランス語での伝統的な美術史用語で1902年以降に有名になった呼称であり、とくにオランダとドイツでは現在でもこの名称が主に使用されている。初期フランドル派の「初期」という言葉は粗野で洗練されていないということを表しているのではなく、初期フランドル派の画家たちが新しい絵画の歴史、例えばテンペラから油彩への転換などにおける原点ともいえる存在であることを意味する。ドイツの美術史家エルヴィン・パノフスキーは、もともとは音楽用語である「アルス・ノーヴァ(新しい芸術)」や「ヌーベル・プラティーク(新たな技法)」という用語を使用することにより、初期フランドル派と当時のブルゴーニュ宮廷で人気のあったギヨーム・デュファイ、ジル・バンショワといった先進的な作曲家たちとを関連付けている。ヴァロワ=ブルゴーニュ公家がネーデルラントの統治を確立すると、ネーデルラントはより国際都市的な変貌を遂げ始めた。オーストリア人美術史家オットー・ペヒト (en:Otto Pächt) は、1406年から1420年にかけて芸術の分野でも同様の事象が発生したとし、「絵画に大変革が起きた」、芸術に写実主義という「新たな美」が顕現したと指摘している。 19世紀時点では初期フランドル派に関する研究が十分に進んでいなかった。当時の研究者たちは、ヤン・ファン・エイクはドイツ人、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンはフランス人で、初期フランドル派発祥の地もフランスかドイツだと考えていた。これらの学説は第一次世界大戦後になってから否定され、ドイツ人のマックス・ヤーコブ・フリートレンダー、パノフスキー、オーストリア人のペヒトらが初期フランドル派の研究発展に大きな業績を残した。この三名のようなドイツ語圏の研究者をはじめ、世界各国の美術史家たちは初期フランドル派の呼称に「フランドル」という地方名を使った用語を使用しているが、英語圏では「初期ネーデルラント派」という用語が使用されることが多い。 14世紀はゴシック様式が国際ゴシック様式へと推移していった時代で、その他にも北ヨーロッパでは様々な芸術学派、様式が発展していた。初期フランドル派の起源は、フランス王宮で伝統的に発展してきた装飾写本に求めることができる。現代の美術史家たちは、フランス王宮でこのような装飾写本が制作されるようになったのは14世紀からだとしている。その後、装飾写本の技法をメルキオール・ブルーデルラムやロベルト・カンピンといった、初期フランドル派の板絵画家たちが取り入れ始めた。カンピンは初期フランドル派最初期の重要な画家であるロヒール・ファン・デル・ウェイデンの師だったとも言われる画家でもある。装飾写本は、ブルゴーニュ公フィリップ2世、アンジュー公ルイ1世、ベリー公ジャン1世といった当時の権力者たちから庇護を受け、1410年代にその最盛期を迎えた。その後もブルゴーニュ公家は装飾写本の庇護を続け、フィリップ3世、シャルルは多くの装飾写本を制作させている。装飾写本は15世紀の終わりごろには衰退しているが、これは板絵に比べて装飾写本の制作工程が遥かに複雑で、高額な費用がかかったためだと考えられている。それでも装飾写本は最高の贅沢品としての市場価値を保ち続けており、他にも木版あるいは銅板によるエングレービングを用いた版画も、マルティン・ショーンガウアーやアルブレヒト・デューラーといった優れた芸術家の登場によって新たな人気を獲得していった。 14世紀の装飾写本には欠落していた精緻な光と影の表現技法を確立し、絵画作品にもたらしたのがヤン・ファン・エイクである。この技法によって聖書の場面をモチーフとした宗教画は自然主義で描かれるようになり、世俗的な肖像画もより感情に訴えかける生き生きとした描写で描かれるようになった。オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガはその著書『中世の秋』で、日々の暮らしが「美しさに満ちた」宗教的な儀式や礼典と密接に結び付いた時代だったと記している。このような北ヨーロッパの美術作品はヨーロッパ全土で高く評価されていたが、様々な理由により1500年ごろから徐々に翳りを見せ始める。イタリアで勃興したルネサンス美術が商業的な成功を収め、数十年後には完全に市場価値が逆転してしまった。当時の初期フランドル派美術作品とイタリアルネサンス美術作品の逆転を象徴する出来事が二つある。1506年にルネサンスの巨匠ミケランジェロの大理石彫刻作品『聖母子 (en:Madonna of Bruges)』がブルッヘに、1517年には同じくルネサンスの巨匠ラファエロが描いたタペストリの下絵である『ラファエロのカルトン』がブリュッセルに持ち込まれて好評を博している。ルネサンス美術は北ヨーロッパにもたちまちのうちに広まったが、初期フランドル派の画家たちがルネサンス芸術家たちに与えた影響も少なくない。ミケランジェロの聖母マリアは、ハンス・メムリンクが発展させた様式をもとにして制作されているのである。 その死をもって初期フランドル派の終焉とする学説もあるヘラルト・ダフィトの没年は1523年のことである。クエンティン・マセイスやヒエロニムス・ボスといった芸術家たちは、16世紀半ばから後半にかけても初期フランドル派の様式を維持し続けていたが、この二人を初期フランドル派の芸術家だとはみなさない美術史家も少なくない。ファン・デル・ウェイデンやヤン・ファン・エイクといった最初期の芸術家の作風とはあまりにかけ離れ過ぎだとする。16世紀初頭の北ヨーロッパの芸術家たちは自身の作品に三次元的錯視表現を持ち込み始めた。それでもなお16世紀初頭の絵画作品には前世紀に使用された技法や寓意表現の影響が顕著であり、前世紀からの伝統的絵画様式に忠実に則った、過去作品のコピーといえるような絵画を制作し続けた画家たちもいた。ルネサンス人文主義の影響から抜け出せずに、キリスト教を主題とした宗教画をギリシア・ローマ神話と混交した作品として描き続けた画家たちも存在している。北ヨーロッパの絵画作品が15世紀半ばの様式から完全に脱却したのは、1590年ごろから興った北方マニエリスム (en:Northern Mannerism) 以降のことだった。これは16世紀初頭から中盤にかけてイタリアで隆盛した、ルネサンス後期様式といえるマニエリスムの時期と合致する。世俗人を描いた自然主義の肖像画、庶民あるいは貴族の生活を描いた風俗画、背景として描かれることが多かった風景画や都市画の発展など共通点も多い。
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