伝説と来歴とは? わかりやすく解説

伝説と来歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/12 10:01 UTC 版)

カンブレーの聖母」の記事における「伝説と来歴」の解説

カンブレーの聖母』はブロニー (en:Annecy-le-Vieux) の枢機卿ジャン・アラメ(1426年没)が購入し、後にその秘書のフルシー・ド・ブルイユに贈られた。1440年ローマでカンブレー司教座聖堂参事会員に任命されたド・ブルイユは、『カンブレーの聖母』を赴任先のカンブレー持参し当地聖ルカ描いた絵画直接模写した作品だと信じられた。その後1450年現在のカンブレー大聖堂前身である旧カンブレー大聖堂en:Old Cambrai Cathedral)に譲られ翌年8月13日大聖堂付属正三位一体礼拝堂盛大に挙行され聖母被昇天前夜祭大聖堂安置された。公開された『カンブレーの聖母』は即座に熱烈な巡礼対象となり、当時の人々新たなキリスト教イメージとして受け入れられた。1453年には『カンブレーの聖母』を聖遺物として管理崇敬するための団体創設され1455年からは8月15日聖母被昇天の祝日祝賀する行列と共に町中巡回するようになっていった。 いつしかカンブレーの聖母』には、初期キリスト教徒たちが迫害されていたエルサレム密かに信仰集めていたという伝説生まれた。『カンブレーの聖母』は、430年ビザンツ帝国皇帝アルカディウスの娘プルケリアに贈られその後コンスタンティノープル公開されて数世紀わたって大きな称賛受けたとされた 。 当時カンブレーの聖母』を拝観するために、カンブレーには数千人以上の巡礼者訪れており、これら巡礼者中にはブルゴーニュ公フィリップ3世1457年)、ブルゴーニュ公シャルル1460年)、フランス王ルイ11世1468年1477年1478年)といった王侯貴族含まれていた。とくにフィリップ3世は、『カンブレーの聖母』にまつわる熱狂的な信仰大きな役割果たした1453年オスマン帝国の侵攻によりビザンツ帝国首都コンスタンティノープル陥落すると、フィリップ3世コンスタンティノープル奪還のために新たな十字軍の遠征考えた十字軍編成するキリスト教徒糾合するために『カンブレーの聖母』を宗教的な象徴用いよう企図し、多数複製画を描かせたのである初期フランドル派画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデン1454年以降描いた聖母子像 (en:Virgin and Child)』。『カンブレーの聖母』を昇華した半身像だといわれている。また、このファン・デル・ウェイデンの『聖母子』をもとにして、次世代初期フランドル派画家ディルク・ボウツ描いた聖母子像』がある。 ハイネ・ファン・ブリュッセルが描いた聖母子像』。15世紀ネルソン・アトキンス美術館ビザンチン様式聖母像と、イタリア人画家たち描いた派生画は、1420年代ロベルト・カンピンヤン・ファン・エイク嚆矢とする、北方ヨーロッパ初期フランドル派芸術家たちに広く影響与えている。当時北方ヨーロッパで交易盛んになるとともに信仰原罪からの救済求められており、それらを身近なものにする宗教的芸術品需要高まっていた。『カンブレーの聖母』から明らかな影響受けた初期フランドル派画家として、1454年3点複製画描いたペトルス・クリストゥスや、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンディルク・ボウツ、ヘラルト・ダフィトらの名前が挙げられる。ただし、一般的に初期フランドル派画家たちは、人物像ありのままに描くことに注力していた。『カンブレーの聖母』に影響受けているとはいえ初期フランドル派作品描かれ聖母子像は、より写実的な作風表現されている。 『カンブレーの聖母』の複製画大量に制作されたのは、前述フィリップ3世による十字軍遠征計画時期最初である。1439年から1479年にかけてカンブレー教区司教の任にあったのは、ジャン・ド・ブルゴーニュ (en:John of Burgundy, Bishop of Cambrai) だった。ジャンフィリップ3世異母弟ブルゴーニュ公ジャン1世非嫡出子)にあたる人物で、1455年6月にはカンブレー司教座聖堂参事会が『カンブレーの聖母』の12点複製画を、12フランドルポンドの代金でハイネ・ファン・ブリュッセルに描かせている。この時に描かれ複製画のうちの1点が、ミズーリ州カンザスシティネルソン・アトキンス美術館所蔵する聖母子像だといわれている。ヒューストン美術館所蔵するロヒール・ファン・デル・ウェイデン聖母子像同じく、『カンブレーの聖母子』を初期フランドル派作風へと昇華して描かれている。聖母マリアの顔は当時初期フランドル派様式描かれ身体描写もより正確に表現されている。『カンブレーの聖母』に比べると、両作品ともにマリア視線をかなり改変しており、その眼差し幼児キリストを見つめ、画面外の鑑賞者には目を向けてはいない。 ペトルス・クリストゥス描いた3点複製画は、エタンプジャン依頼制作された。ジャンフィリップ3世父方従弟であり、1424年未亡人だったジャンの母ボンヌが、フィリップ3世再婚したことから義理の息子にもあたる。ジャン実父ルテル伯フィリップは、アジャンクールの戦い1415年戦死していた。当時ジャンカンブレー大聖堂教区委員評議員務めていた。ハイネ・ファン・ブリュッセルとクリストゥスが描いた複製画群は、おそらく宮廷人たちに分配されたとされている。フィリップ3世十字軍遠征のための資金集め、あるいは、すでに資金集め協力していた宮廷人たちに対す報酬だったと考えられている。エタンプジャンが描かせた3点複製画代金20フランドルポンドだったのに比べてカンブレー教区司教ジャンが描かせた12点複製画代金1点あたりわずか1フランドルポンドに過ぎない。この価格差が何に起因するものなのかについて、学者たちが様々な議論起こしている。 現在はヘント美術館所蔵している、初期フランドル派細密画家シモン・ベニング (en:Simon Bening) が1520年頃に描いた聖母子像』のミニアチュールには、『カンブレーの聖母』の後期複製画特徴見られるといわれている。以降時代制作され複製画にもベニング作品からの影響見られオリジナルの『カンブレーの聖母』よりも写実的な作風になっていた。これらの複製画には描かれ時代応じた特徴的な作風見られるクレタ派 (en:Cretan School) の画家たち描いた聖母子像』のイコン安価であり、ギリシアあるいはラテン様式であることが明記されたこれらのイコン大量にヨーロッパ中に流通していた。

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