山姥切の名前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:12 UTC 版)
山姥切国広の号の由来は、1920年(大正9年)10月25日に採取された刀剣研究家・杉原祥造の押形、その周囲にメモ書きされた当時の所有者(三居翁)の話を一次資料とする。 「山姥切由来」原文 北条家ノ浪人ニ石原甚五左衛門ト云者アリ妊娠中ノ妻女ヲ連レテ信州小諸ヲ通行スルトキ山中ニテ産氣ツキタレトモ男ノ事トテ詮方ナク途方ニ暮レケル折谷間ヨリ煙ノ立昇ルヲ見テ定メシ人家アルベシトテ谷ヲ下リシニ果シテ一軒ノ家アリテ老婆住メリ妊婦ヲ此老婆ニ托シ薬ヲ求メニ小諸ニ行キ急キ帰リテ見レバ婦人ノ泣聲聞ユ帰リテ見レバ其妻ノ分娩シケル児ヲ老婆ガムシャムシャト貪リ喰ヘル處ナリケレバ甚五左衛門怒テ一太刀切付ケタルニ老婆窓ヲ蹴被ツテ出ケレバ跡ヲ慕ツテ追カケタルニ血汐ノ後山腹ノ岩窟マテ續ケリ仍テ松葉ヲ以テイブシケルニ老婆出テ来リテ怒リノ形相物凄ク牙ヲ噛ミナラシテ飛カ丶リケレバ一刀ノ許ニ切リ伏セケリ依テ山姥切ト名付リ(後略) 「山姥切由来」現代語訳 当時この刀を持っていたのは、小田原北条家の浪人である石原甚五左衛門という者であった。石原は妊娠中の妻女を連れて信州小諸を通過した際に妻女が山中で急に産気づいたため途方に暮れていたところ、谷間より煙が上がる民家を見付けて、そこに住む老婆に妻女を託して小諸まで薬を探しに戻った。急いで石原が小諸から戻ると妻女の泣き声がする。見れば産まれたばかりの子を老婆がムシャムシャと貪り食べていたため、石原は激怒して老婆を斬りつけると老婆は窓を蹴破って逃げた。 石原が老婆の血潮を辿っていくと血潮は山腹の岩窟の中に続いていた。石原は岩窟の入口で松葉を焚いて燻り出したところ、老婆は怒りの形相で歯を噛み鳴らして飛びかかってきたため、石原は一刀の下にその老婆を切り伏せたことからこの刀を「山姥切」と称するようになった。(後略) — 杉原祥造、加島勲・内田疎天著『新刀名作集』(1928年)、現代語訳:原史彦 「『刀 銘本作長義(以下、五十八字略)』と山姥切伝承の再検討」 (2020年) 杉原押形は1928年(昭和3年)『新刀名作集』に収録され、1975年(昭和50年)『日向の刀と鐔』を初めとする福永酔剣の著書により山姥切国広の逸話は紹介されたが、山姥切の号は本来は本歌である本作長義のものだという説が刀剣界の定説となっていた(詳細は本作長義#山姥切の名前を参照)。 2015年(平成27年)開始のゲーム『刀剣乱舞』において「山姥切国広は山姥切長義の写しだから山姥切を名乗っている」という説が採用され、本作長義も山姥切長義としてキャラクター化され2018年に実装された。本作長義の所蔵館である徳川美術館は2018年時点では史的根拠の見つかっていない山姥切長義の名が一般化する事態を考え、特別展「徳川将軍ゆかりの名刀」における展示解説に加え、号の経緯を解説する講座を複数回開催した後に、論文を発表した。その中では山姥切の号は本作長義にはなく山姥切国広のものだと考えられる、と述べられている。
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山姥切の名前
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本作は通称で山姥切長義とも呼ばれるが、「山姥切」が本作長義(本歌)と山姥切国広(写し)のどちらを指すのかは不明だという説がある。長義を山姥切とする説とその逸話は佐藤寒山の著作が初出で、佐藤は1962年(昭和37年)に刊行された『堀川國廣とその弟子』にて「この刀は古来山姥切と称しているが、号のいわれはあきらかではない。(中略)元来この長義の刀に付けられた号で、信州戸隠山中で山姥切の号は山姥なる化物を退治た(原文ママ)ためという。その写しであるから山姥切国広と呼びならしたという。」と言及しており、山姥切=本作長義の可能性を指摘する一方で断定は避けている。 1966年(昭和41年)に本間順治、佐藤両氏監修にて刊行された『日本刀大鑑新刀篇』では、山姥切国広の解説をした沼田鎌次は「山姥切の号は、元来この長義の刀に付けられたもので、信州戸隠山中で山姥なる化物を退治したためといい。その写しであるから山姥切国広と呼びならしたという。」と書き、佐藤の上記解説文をほぼ踏襲している。 以降の研究書も初出の佐藤、沼田らの文章に対して検証も行わず文章を使いまわしており、昭和時代を代表する刀剣研究家である本間順治、佐藤寒山両氏が編集した研究書に記されていた影響力や、多くの研究書に繰り返し山姥切=本作長義と断定されていたことから、山姥切の号は本作長義に付されたものだという観念が定着したものと考えられる。 一方で「山姥切」の名前の由来は国広作の写し(山姥切国広)によるものとする根拠として、1920年(大正9年)10月25日に杉原祥造によってとられた押形があり、この押形が1928年(昭和3年)に刊行された『新刀名作集』に収録されたことで山姥切国広の逸話が知られるようになった。この時点で山姥切国広を所有していた三居某が「山姥切国広」の名で呼んでおり、山姥切伝説と来歴が伝わっていたことが確認できる。この押形を読み解いた福永酔剣(勝美)は1975年(昭和50年)に刊行された『日向の刀と鐔』にて山姥切伝説と来歴を紹介し、山姥切伝説は山姥切国広のものであるとした[要出典]。
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