譽田別尊とは? わかりやすく解説

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ほむたわけ‐の‐みこと【誉田別命/品陀和気命】

読み方:ほむたわけのみこと

応神天皇の名。ほんたわけのみこと


ほんたわけ‐の‐みこと【誉田別命/品陀和気命】

読み方:ほんたわけのみこと

応神天皇の名。ほむたわけのみこと


応神天皇

誉田別尊は、母の神功皇后(じんぐうこうごう)が新羅渡ったときに身篭っていたことから「胎中天皇」などと呼ばれる
出産した場所は筑紫宇美といわれ今でもその地に宇彌神社がある。
仲哀九年のことである。
神功皇后胎中天皇一行三韓征伐後、九州から瀬戸内海東へ進み大阪湾入り大和目指したが、留守役の異母兄弟である香坂王忍熊王大和入り阻まれた。
なぜか香坂王に喰われてしまい障害とはならなかったが、忍熊王摂津から山城入り抵抗示した
しかし神功皇后側の武勇人である建振熊に計られ近江退き琵琶湖入水して果てたという。
話は少し逸れるが、神武東征神話にはこの応神天皇の大和入り事績反映しているのではないかという説がある。
時代的には神武東征神話のほうが古く応神天皇の大和入りのほうが新しいのだが、「記紀」の撰録八世紀であり、藤原不比等らの撰録への意図的な関与があったであろうから仕方が無いことであろう
さて、その後誉田別尊は、神功皇后摂政三年立太子し、同六十年神皇后死去に伴いその翌年に即位。
皇后には品陀真若王の娘仲姫とし、多数皇妃迎え大鷦鷯尊20人を超える皇子女もうけたという。
宮は軽島に明宮建てたが、のち難波大隈宮に移した
応神天皇の時代は朝鮮半島通じてさまざまな技術集団渡来して、農地改良・馬・太刀縫製論語千字文典籍などをもたらし技術改革文化振興が行われた。
応神天皇の実在性有力視され、「宋書倭国伝」のいわゆる倭の五王」のうちの最初の王「讃」をあてる場合が多い。
応神天皇は記では110歳、紀では130歳で没したという。


応神天皇

(譽田別尊 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/30 07:03 UTC 版)

応神天皇(おうじんてんのう、旧字体應神󠄀天皇、仲哀天皇9年12月14日 - 394年?[1][2]〈応神天皇41年2月15日〉)は、第15代天皇。『日本書紀』での名は誉田天皇(ほむたのすめらみこと)。記紀によると渡来人を用いて国家を発展させたとされ、中世以降は軍神八幡神としても信奉された。実在したとすれば4世紀後半〜5世紀初頭ごろの天皇(大王)と推定されている。




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