前田直典
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前田 直典(まえだ なおのり、1915年11月18日 - 1949年9月18日)は、日本の東洋史学者(モンゴル史・元朝史を研究[1])。京都市上京区生まれ。闘病・夭逝のため研究生活は短いものであったが、鈔法を始めとする元朝に関する実証的な研究、また中国史における新たな時代区分論を提唱したことで知られる[2]。
- ^ 20世紀日本人名事典.
- ^ <「元朝史の研究」著者略歴>:歴史が眠る多磨霊園
- ^ a b c 護雅夫 1994, p. 22.
- ^ 「甲論乙駁、白熱した議論でムンムンした熱気が部屋全体にみなぎっていたが、その中心的存在は、多くの場合、前田氏であった。同氏のそのさいの発言の結晶のひとつが、「東アジアに於ける古代の終末」と題する問題作である」: (護雅夫 1984, pp. 139–140)
- ^ 「下宿屋みづほ館は、……豪傑というわけではないが東洋史の梁山泊と目されたところである」:(山田信夫 1984, p. 168)
- ^ 当時言語学科助手であった柴田武によるトルコ語講義、前田直典の指導によるモンゴル語文献の購読、外務省の小川亮作を講師に迎えたペルシア語、学外の、渋谷イスラム協会・大日本回教協会での松本重彦のアラビア語講習会:(山田信夫 1984, p. 174)
- ^ 1946年3月30日、前田直典の提唱により大学院学生会の一分科会として「北方史研究会」が結成された:(護雅夫 1984, p. 134)(山田信夫 1984, p. 173)。会発足の記念講話が和田清による「北方史研究について」。山田、護にとって「敗戦直後の、一度は捨て去ったつもりだった青春をいま一度よみがえらすのに懸命であった」日々、北方史研究会は、「決して単純な学問研究の道などではない、人生そのものの方向を下手をすると見失いかねない、そのような状況の下で、ともかくなにかにすがっていたいという思いに、なんらかの意味でこたえてくれたものの一つではあった」:(山田信夫 1984, p. 164)(護雅夫 1994, p. 32)
- ^ 大隅晃弘「西嶋先生の思い出」『東アジア―歴史と文化―』第8号、新潟大学東アジア学会、1999年3月、ISSN 1344-106X、2022年8月25日閲覧。
- ^ 日本古代史関係研究文献目録データベース:小口雅史編
- ^ 「前田氏の遺稿」:(大隅晃弘 1999)
- ^ 1948年(昭和23)に「画期的論文を発表し、中国、朝鮮、日本などの東アジア諸民族の社会発展には相互に関連性が認められることを指摘したことは、東アジア世界論の出発点となった」:(日本大百科全書:鶴間和幸)
- ^ 収録作品一覧 honto
- ^ 同期生の記録 1984, p. 228「級友の横顔」山根幸夫.
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