発見に関わる経過
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水俣病らしき症例が見られたとされるのは1942年頃からである。1952年頃には水俣湾周辺の漁村地区を中心に、猫・カラスなどの不審死が多数発生し、同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった。この頃は「猫踊り病」と呼ばれていた。 1954年8月1日、『熊本日日新聞』が「猫てんかんで全滅/水俣市茂道部落/ねずみの激増に悲鳴」と社会面3段で報じた。約120戸の漁村で、猫100余匹が次々と「気が狂つたようにキリキリ舞して」ほとんど全滅。ネズミの急増に手を焼いた住民が市役所に駆除を依頼し、居合わせた『熊本日日新聞』の記者が記事にしたというものだった。これが水俣病の初報とされる。 当初、患者の多くは漁師の家庭から出た。水俣近海産の魚介類の市場価値は失われ、水俣の漁民たちは貧困に陥るとともに、食糧を魚介類によらざるをえなかったため、被害が拡大されていくことになった。原因が分からなかったため、当初は「奇病」などと呼ばれていた。水俣病患者と水俣出身者への差別も起こった。そのことが現在も差別や風評被害につながっている。 水俣市では新日本窒素肥料に勤務する労働者も多いことから、漁民たちへの誹謗中傷が行われたり、新日本窒素肥料への批判を行う者を差別したりすることも多かった。水俣市はチッソによって発展した、いわゆる企業城下町である。当時も住民の約7割がチッソと何らかの関係を持っていたとされる。 水俣病患者で最古の症例とされるのは、1953年当時5歳11か月だった女児が発症した例である。この女児は1953年12月頃から、様々な症状(よだれ・嘔吐・歩行障害・言語障害・痙攣)を発するようになった。女児は1956年3月15日に死亡し、のちに「水俣病公式認定患者第1号」に認定された。 患者発生が顕在化したのは1956年に入ってからである。新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、1956年5月1日、「原因不明の中枢神経疾患」として5例の患者を水俣保健所に報告した。この日が水俣病公式発見の日とされる。同年頃から水俣周辺では脳性麻痺の子どもの発生率が上昇した。 患者公式認定にいたる前から漁獲高の激減による漁民の度重なる訴えや小動物の相次ぐ異変も続出していたが、当時の白石宗城社長は不作為に終始した。 1958年、新日本窒素肥料の新社長に吉岡喜一が就任。同年9月25日、新日窒水俣工場は、アセトアルデヒド酢酸製造設備の排水経路を、水俣湾百間港から八代海に面した水俣川河口の八幡プールへ変更した。しかし、1959年3月から水俣病患者は、水俣湾周辺に留まらず、水俣川河口付近および隣接する津奈木町や海流の下流部にあたる鹿児島県出水市と不知火海沿岸全体に拡大していった。このことによってアセトアルデヒド酢酸設備排水が水俣病を引き起こすことは明らかになった。多くの水俣病関係者はこれを「人体実験」であるとみなした。 1959年7月22日、熊本大学水俣病研究班は、武内忠男や徳臣晴比古らの研究に基づいて、「水俣病の原因は有機水銀であることがほぼ確定的になった」という発表を行った。水俣病の原因が新日本窒素肥料水俣工場から排出された水銀である疑いが濃くなった。 同年8月24日、東京工業大学教授の清浦雷作は水俣を訪れ、5日間現地を調査。8月29日、水俣市役所で記者会見し「水俣港防波堤の外側海水は、日本にある他の化学工場所在地の海水とほぼ同程度で正常だ」と述べ、水俣病は工場廃液とは関係がないと発表した。 新日本窒素肥料の吉岡喜一社長は、反論工作を日本化学工業協会専務理事の大島竹治に依頼。同年9月28日、大島は、太平洋戦争が終わって海中に投棄された旧日本軍の爆弾が腐食し、中身が溶け出したとする「爆薬説」を発表した。10月7日には、吉岡自身が水俣工場長の西田栄一とともに県庁を訪ね、寺本広作知事、熊本県議会議長の岩尾豊と同副議長の堀川光記、水俣病対策特別委員長の田中典次と会談。有機水銀説が納得できない5つの理由を挙げ、大島の「爆薬説」を披露した。 同年10月6日、新日窒附属病院の細川一院長は、院内ネコ実験により、アセトアルデヒド酢酸製造工場排水を投与した猫が水俣病を発症していることを確認し、工場責任者に報告した(猫400号実験)。しかし、工場の責任者は実験結果を公表することを禁じた。実験結果が公になったのは1970年7月の水俣病訴訟の細川博士の臨床尋問によってであった。 同年10月23日、厚生省食品衛生調査会「水俣食中毒特別部会」の鰐淵健之委員長は、海中投棄の事実そのものがなかったという調査結果を報告。大島の「爆薬説」を根拠のないものだとして否定し、「社会をまどわす人道上の問題だ」と激しく非難した。それでも爆薬説は否定されるまでの間はチッソ側にとって一定の役割を果たした。 同年10月、アセトアルデヒド酢酸設備排水が原因であることを知った通産省は、新日窒に対しアセトアルデヒド製造そのものの禁止はせずに、アセトアルデヒド製造工程排水の「水俣川河口への放出」のみを禁止した。新日窒は通産省の指示に従い、排水経路を水俣川河口から水俣湾百間港に戻し、その後「閉鎖循環方式」(有機水銀が排出されない方式)に転換した(アセドアルデヒドの製造停止は1968年)。 同年11月11日、清浦は「有機アミン説」を通産省に報告。 同年11月12日、食品衛生委員会常任委員会は、「水俣食中毒特別部会」の中間報告に基づいて、渡邊良夫厚生大臣に「水俣病の原因は有機水銀化合物である」と答申。翌13日、渡邊が閣議で紹介すると、池田勇人通産大臣は「チッソ社が原因だとするのは尚早だ」と反論し、結局、閣議了解事項とならず、通産省に押し切られた厚生省は同日、「水俣食中毒特別部会」を解散させるに至った。水俣病の有機水銀原因説に対して、新日本窒素肥料や日本化学工業協会などは強硬に反論している。 同年12月25日、水俣工場は、汚水処理装置「サイクレーター」を完成。工場排水による汚染の問題はなくなったと宣伝したが、のちに「サイクレーター」は水の汚濁を低下させるだけで、排水に溶けているメチル水銀の除去には全く効果がないことが明らかにされた。 同年12月30日、新日本窒素肥料は水俣病患者と家族でつくる「水俣病患者家庭互助会」と見舞金契約を結んだ。少額の見舞金を支払ったが、会社は汚染や被害についての責任は認めず、将来水俣病の原因が工場排水であることがわかっても新たな補償要求は行わないものとされた。 このほかこの年には、新日本窒素肥料は、排水停止を求めていた漁業組合とも漁業補償協定を締結した。これらの一連の動きは、少なくとも当時、社会的には問題の沈静化をもたらし、水俣病は終結したとの印象が生まれた。実際には、それまで水俣湾周辺に限られていた患者の発生も、1959年初め頃から地理的な広がりを見せており、その一方、声を上げることのできない患者たちの困窮はさらに深まっていった。 1960年、チッソは廃水処理の改善を実施しており、泥に廃水を通してメチル水銀を吸着除去する施策(泥・廃水プール)や、蒸留塔ドレーンの循環を開始した。 1960年1月、政府は経済企画庁、通産省、厚生省、水産庁からなる「水俣病総合調査研究連絡協議会」を設置。同年2月26日に第1回会合を開いた。協議会には学識経験者として、熊本大学研究班の内田槇男と喜田村正次、東京水産大学の宇田道隆、東京大学の松江吉行、東京工業大学の清浦雷作らが参加した。 同年4月8日、新日本窒素肥料からの支援を受けて、日本化学工業協会は「水俣病研究懇談会」を設置した。同懇談会は、日本医学会会長の田宮猛雄が委員長を務めたことから通称「田宮委員会」と呼ばれ、小林芳人、沖中重雄、勝沼晴雄、清浦雷作、戸木田菊次らが参加した。田宮委員会の研究者たちは有機水銀説に反論し、他に原因があると主張した。 同年4月12日、「水俣病総合調査研究連絡協議会」の第2回会合が開かれ、熊本大学の内田槇男から「有機水銀説」が報告されるが、これに対し清浦が反論。「水俣病の原因は水銀ではなく、アミン系の毒物である」と述べ、貝によるアミン中毒説を発表した。同協議会は清浦の発表のほか何の成果も出すことなく、翌年に消滅した。 1961年4月、東邦大学教授の戸木田菊次は現地調査も実施せずに「腐敗アミン説」を発表。非水銀説を唱える学者・評論家も出現。清浦や戸木田は御用学者と呼ばれるとともに、マスコミや世論も混乱させられた。 1962年11月29日、脳性小児まひ患者16人が胎児性水俣病と認定(胎児性水俣病の初めての公式な確認)。水俣病の原因物質であるメチル水銀は胎盤からも吸収されやすいため、母体から胎児に移行しやすい。さらに、発達途中にある胎児の神経系は、大人よりもメチル水銀の影響を受けやすいことが今日では明らかになっている。 政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968年である。1968年9月26日、厚生省は、熊本における水俣病は新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると発表した。同時に、科学技術庁は新潟有機水銀中毒について、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀を含む工場廃液がその原因であると発表した。この2つを政府統一見解としたが、この発表の前の同年5月に新日窒水俣工場はアセトアルデヒドの製造を終了している。このとき熊本水俣病が最初に報告されてから既に12年が経過していた。 厚生省の発表においては、熊本水俣病患者の発生は1960年で終わり、原因企業と被害者の間では1959年12月に和解が成立しているなどとして、水俣病問題は既に終結したものとしていた。国は水俣病発生の責任を認めず、原告と国との裁判はその後も続いた。国は1990年に出された裁判所の和解勧告(9月に東京地方裁判所が、10月に熊本地方裁判所と福岡地方裁判所が相次いで同じ趣旨の勧告を出す)を拒否しており、和解に転じるのは1996年のことである。 また、原告で和解を拒否した水俣病関西訴訟の裁判は2004年10月まで続いた。2004年10月の水俣病関西訴訟における最高裁判所判決は、国や熊本県は1959年の終わりまでには水俣病の原因物質およびその発生源について認識できたとし、1960年以降の患者の発生について、国および熊本県に不作為違法責任があることを認定している。
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