発見に関わる経過とは? わかりやすく解説

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発見に関わる経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 05:01 UTC 版)

水俣病」の記事における「発見に関わる経過」の解説

水俣病らしき症例見られとされるのは1942年頃からである。1952年頃には水俣湾周辺漁村地区中心にカラスなどの不審死多数発生し同時に特異な神経症状呈して死亡する住民みられるようになったこの頃は「猫踊り病」と呼ばれていた。 1954年8月1日、『熊本日日新聞』が「てんかん全滅水俣市道部落/ねずみの激増悲鳴」と社会面3段報じた。約120戸の漁村で、100余匹が次々と「気が狂つたようにキリキリ舞して」ほとんど全滅ネズミ急増手を焼いた住民市役所駆除依頼し居合わせた熊本日日新聞』の記者記事にしたというものだった。これが水俣病の初報とされる当初患者多く漁師家庭から出た水俣近海産の魚介類市場価値失われ水俣漁民たちは貧困に陥るとともに食糧魚介類によらざるをえなかったため、被害拡大されていくことになった原因が分からなかったため、当初は「奇病」などと呼ばれていた。水俣病患者水俣出身者への差別起こったそのことが現在も差別風評被害つながっている。 水俣市では新日本窒素肥料勤務する労働者も多いことから、漁民たちへの誹謗中傷が行われたり、新日本窒素肥料への批判を行う者を差別したりすることも多かった水俣市チッソによって発展したいわゆる企業城下町である。当時住民の約7割がチッソ何らかの関係を持っていたとされる水俣病患者最古症例とされるのは、1953年当時5歳11か月だった女児発症した例である。この女児は1953年12月頃から、様々な症状(よだれ・嘔吐歩行障害言語障害痙攣)を発するようになった女児1956年3月15日死亡し、のちに「水俣病公式認定患者第1号」に認定された。 患者発生顕在化したのは1956年入ってからである。新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患多発していることに気付き1956年5月1日、「原因不明中枢神経疾患」として5例の患者水俣保健所報告した。この日が水俣病公式発見の日とされる同年頃から水俣周辺では脳性麻痺の子どもの発生率上昇した患者公式認定にいたる前から漁獲高激減による漁民度重なる訴え小動物相次ぐ異変続出していたが、当時白石宗社長不作為終始した1958年新日本窒素肥料新社長に吉岡喜一就任同年9月25日新日水俣工場は、アセトアルデヒド酢酸製造設備排水経路を、水俣湾百間港から八代海面した水俣川河口八幡プール変更した。しかし、1959年3月から水俣病患者は、水俣湾周辺留まらず水俣川河口付近および隣接する津奈木町海流下流部にあたる鹿児島出水市不知火海沿岸全体拡大していった。このことによってアセトアルデヒド酢酸設備排水水俣病引き起こすことは明らかになった。多く水俣病関係者はこれを「人体実験」であるとみなした1959年7月22日熊本大学水俣病研究班は、武内忠男や徳臣晴比古らの研究基づいて、「水俣病原因有機水銀であることがほぼ確定的になった」という発表行った水俣病原因新日本窒素肥料水俣工場から排出され水銀である疑い濃くなった。 同年8月24日東京工業大学教授清浦雷作水俣訪れ5日現地調査8月29日水俣市役所記者会見し「水俣港防波堤外側海水は、日本にある他の化学工場所在地海水とほぼ同程度正常だ」と述べ水俣病工場廃液とは関係がないと発表した新日本窒素肥料吉岡喜一社長は、反論工作日本化学工業協会専務理事大島竹治に依頼同年9月28日大島は、太平洋戦争終わって海中投棄され旧日本軍爆弾腐食し中身溶け出したとする「爆薬説」を発表した10月7日には、吉岡自身水俣工場長西田栄一とともに県庁訪ね寺本広作知事熊本県議会議長岩尾豊と同副議長堀川光記、水俣病対策特別委員長田中典次と会談有機水銀説が納得できない5つ理由挙げ大島の爆薬説」を披露した同年10月6日新日附属病院細川一院長は、院内ネコ実験により、アセトアルデヒド酢酸製造工場排水投与した水俣病発症していることを確認し工場責任者報告した400実験)。しかし、工場責任者実験結果公表することを禁じた実験結果公になったのは1970年7月水俣病訴訟細川博士臨床尋問によってであった同年10月23日厚生省食品衛生調査会水俣食中毒特別部会」の淵健之委員長は、海中投棄事実そのものがなかったという調査結果報告大島の爆薬説」を根拠のないものだとして否定し、「社会まどわす人道上の問題だ」と激しく非難した。それでも爆薬説は否定されるまでの間はチッソ側にとって一定の役割果たした同年10月アセトアルデヒド酢酸設備排水原因であることを知った通産省は、新日窒に対しアセトアルデヒド製造そのもの禁止はせずに、アセトアルデヒド製造工程排水の「水俣川河口への放出」のみを禁止した新日窒は通産省指示従い排水経路水俣川河口から水俣湾百間港に戻しその後閉鎖循環方式」(有機水銀排出されない方式)に転換した(アセドアルデヒドの製造停止1968年)。 同年11月11日清浦は「有機アミン説」を通産省報告同年11月12日食品衛生委員会常任委員会は、「水俣食中毒特別部会」の中間報告基づいて渡邊良夫厚生大臣に「水俣病原因有機水銀化合物である」と答申。翌13日渡邊閣議紹介すると、池田勇人通産大臣は「チッソ社が原因だとするのは尚早だ」と反論し結局閣議了解事項とならず通産省押し切られ厚生省同日、「水俣食中毒特別部会」を解散させる至った水俣病有機水銀原因に対して新日本窒素肥料日本化学工業協会などは強硬に反論している。 同年12月25日水俣工場は、汚水処理装置「サイクレーター」を完成工場排水による汚染問題なくなった宣伝したが、のちに「サイクレーター」は水の汚濁低下させるだけで、排水溶けているメチル水銀除去には全く効果がないことが明らかにされた。 同年12月30日新日本窒素肥料水俣病患者家族でつくる「水俣病患者家庭互助会」と見舞金契約結んだ少額見舞金支払ったが、会社汚染被害についての責任認めず将来水俣病原因工場排水であることがわかって新たな補償要求行わないものとされた。 このほかこの年には、新日本窒素肥料は、排水停止求めていた漁業組合とも漁業補償協定締結した。これらの一連の動きは、少なくとも当時社会的に問題沈静化もたらし水俣病終結したとの印象生まれた実際には、それまで水俣湾周辺限られていた患者発生も、1959年初め頃から地理的な広がり見せており、その一方声を上げることのできない患者たち困窮はさらに深まっていった。 1960年チッソ廃水処理改善実施しており、泥に廃水通してメチル水銀吸着除去する施策(泥・廃水プール)や、蒸留塔ドレーン循環開始した1960年1月政府経済企画庁通産省厚生省水産庁からなる水俣病総合調査研究連絡協議会」を設置同年2月26日第1回会合開いた協議会には学識経験者として、熊本大学研究班内田男と喜田村正次、東京水産大学宇田道隆東京大学松江吉行東京工業大学清浦雷作らが参加した同年4月8日新日本窒素肥料からの支援受けて日本化学工業協会は「水俣病研究懇談会」を設置した。同懇談会は、日本医学会会長田宮猛雄委員長務めたことから通称田宮委員会」と呼ばれ小林芳人、沖中重雄勝沼晴雄清浦雷作、戸木田菊次らが参加した田宮委員会研究者たち有機水銀説に反論し、他に原因があると主張した同年4月12日、「水俣病総合調査研究連絡協議会」の第2回会合開かれ熊本大学内田男から「有機水銀説」が報告されるが、これに対し清浦反論。「水俣病原因水銀ではなくアミン系の毒物である」と述べ、貝によるアミン中毒説を発表した。同協議会清浦発表のほか何の成果も出すことなく翌年消滅した1961年4月東邦大学教授の戸木田菊次現地調査実施せずに「腐敗アミン説」を発表。非水銀説を唱える学者評論家出現清浦や戸木田御用学者呼ばれるとともにマスコミ世論混乱させられた。 1962年11月29日脳性小児まひ患者16人が胎児性水俣病認定胎児性水俣病初めての公式な確認)。水俣病原因物質であるメチル水銀胎盤からも吸収されやすいため、母体から胎児移行しやすい。さらに、発達途中にある胎児神経系は、大人よりもメチル水銀影響を受けやすいことが今日では明らかになっている。 政府発病工場廃水因果関係認めたのは1968年である。1968年9月26日厚生省は、熊本における水俣病新日本窒素肥料水俣工場アセトアルデヒド製造工程副生されたメチル水銀化合物原因であると発表した同時に科学技術庁新潟有機水銀中毒について、昭和電工鹿瀬工場アセトアルデヒド製造工程副生されたメチル水銀を含む工場廃液がその原因であると発表した。この2つ政府統一見解としたが、この発表の前の同年5月新日水俣工場アセトアルデヒド製造終了している。このとき熊本水俣病最初に報告されてから既に12年経過していた。 厚生省発表においては熊本水俣病患者発生1960年終わり原因企業被害者の間では1959年12月和解成立しているなどとして、水俣病問題は既に終結したものとしていた。国は水俣病発生責任認めず原告と国との裁判その後続いた。国は1990年出され裁判所和解勧告9月東京地方裁判所が、10月熊本地方裁判所福岡地方裁判所相次いで同じ趣旨勧告を出す)を拒否しており、和解転じるのは1996年のことである。 また、原告和解拒否した水俣病関西訴訟裁判2004年10月まで続いた2004年10月水俣病関西訴訟における最高裁判所判決は、国や熊本県1959年終わりまでには水俣病原因物質およびその発生源について認識できたとし、1960年以降患者発生について、国および熊本県不作為違法責任があることを認定している。

※この「発見に関わる経過」の解説は、「水俣病」の解説の一部です。
「発見に関わる経過」を含む「水俣病」の記事については、「水俣病」の概要を参照ください。

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