ヨーロッパ・アメリカ
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パチョーリ『スムマ』の簿記法は「イタリア式簿記法」とも呼ばれ、ヨーロッパ各地に伝わった。16世紀のフランス、スペイン、オランダにはヤン・インピンによる『スムマ』の翻訳から伝わり、ドイツはマンゾーニの著作から伝わった。17世紀にはオランダが先進国だったためオランダから各地に伝わった。 各地における最初の複式簿記書の出版年を見ると、イタリア1494年(『スムマ』)、ドイツ1518年、フランス・オランダ1543年(インピンによる『スムマ』翻訳)、イギリス1547年(インピン『新しい手引き』翻訳)、スペイン・ポルトガル1590年、スウェーデン1646年、デンマーク1673年、ノルウェー1692年となる。ヨーロッパでは、帳簿が真実であることを神に誓う証として、元帳に十字架が書かれていた。この習慣は16世紀後半から17世紀まで続いた。 フランドル・オランダ フランドルには定住商人が多く、期間損益計算の普及が進んだ。フランドルの都市ブリュージュは14世紀から15世紀にかけて繁栄し、当時の記録として両替商ウィレム・ルウェールの元帳や、コラール・ド・マルクの会計帳簿がある。ブリュージュには女性の両替商の活動もあり、ルウェールの死後に妻が自分の資産で両替商をした記録がある。16世紀にはブリュージュからアントウェルペンへと経済の中心が移り、織物商ヤン・インピンは、初のオランダ語の簿記書として『新しい手引き』(1543年)を出版した。『新しい手引き』は年次決算を説いた最初の簿記書とされる。17世紀にはオランダが繁栄し、それまでの組合的な組織とは異なる企業としてオランダ東インド会社(VOC)が1602年に設立された。VOCの会計は1会社2会計システムで、本国においては旧来の簿記を使い、支店では複式簿記を採用して年次報告を行った。会社全体を見る簿記は存在せず、決算は10年単位で非公開制だった。VOCはオランダとアジアの2元体制だったため、アジア取引を統括したバタヴィアが実質上の本社的業務を行い、アムステルダムはアジアで仕入れた商品の販売が主体だった。VOCは会計部門を改革しつつ、その後も200年近く続いてゆく。 数学者のシモン・ステヴィンは『数学覚書(Wiskonstighe Ghedachtenissen)』(1605年-1608年)を出版し、複式簿記について150ページほど書いている。『数学覚書』では年次決算や精算表を説いている他、資本金勘定は期首資本と利益に分けて表示されており、貸借対照表に類似している。ステヴィンの簿記論はそれまでと異なり、国家の財政に複式簿記を使うことを目的としていた。『数学覚書』には「王侯簿記」という論考があり、領土簿記と特別財政簿記について書かれている。領土簿記は商業帳簿と同じく仕訳帳と元帳からなり、仕訳帳は債権・債務・対象年に発生した取引の3つに分かれている。ステヴィンは王侯簿記をオランダ総督のマウリッツに献呈しており、複式簿記導入の動機として、(1) マウリッツの財産管理人や会計官が何年も決算を行わなかった、(2) 運用可能な資金管理ができていなかった、(3) 会計官が資金を私物化していた、(4) 財政再建の必要があった、などがあった。 ドイツ・スカンジナビア 15世紀に南ドイツの都市がヴェネツィアと貿易を行い、ニュルンベルクの商人がヴェネツィアから複式簿記を持ち込んだ。ヤーコプ・フッガーや、フッガーの会計主任になるマッティウス・シュヴァルツ(英語版)はヴェネツィアで複式簿記を学び、この技術がフッガー家の繁栄の一因となる。ドイツ人による簿記書は、1518年のハインリッヒ・シュライバー(英語版)や1531年のヨハン・ゴットリーが最初期となる。これらは商品元帳を有する人名勘定元帳について書かれており、『スムマ』の影響を受けていない点に特徴がある。これらの簿記書ののちに複式簿記の移入が進んだ。 ドイツの簿記書は、デンマークやスウェーデンでも出版された。スカンジナビアでは、ハンザの商人を中心とするドイツとの貿易を通して複式簿記が移入された。ドイツ語の簿記書が読まれ、のちに簡略版や独自の簿記書が出版された。 スペイン・ポルトガル スペインでは、通商院がアメリカ大陸の植民地との貿易を管理した。通商院は複式簿記を理解するセビリアの商人が運営しており、物流・出納・会計の三部門でそれぞれ責任者が監督に当たった。借方・貸方帳で記帳を行ない、記帳する際には3人の主任の署名を必要として不正を防止した。カール5世は1552年に全ての帳簿を複式簿記にするよう勅令を出し、帝国全体の会計を管理する主計官を定めた。しかし財政の改革にはならず、負債は増え続けた。フェリペ2世の財務長官フアン・デ・オヴァンド(スペイン語版)や、通商院経験のある商人ペドロ・ルイス・デ・トレグロサらが改革に着手したが、失敗に終わった。スペイン最初の複式簿記書は、1590年のバルトロメオ・ソロルザーノの著書になる。ポルトガルでの最初の簿記書は、ソロルザーノの著書をもとに出版された。 フランス インピンによる『スムマ』のフランス語訳によって、1543年にフランスに複式簿記が伝わった。フランス人初の複式簿記書は、1567年にピエール・サボンヌがアントウェルペンで出版した。ルイ14世の財務総監だったジャン=バティスト・コルベールは、重商主義政策の一環として商事王令(1673年)を制定した。この勅令は、起草の中心人物ジャック・サヴァリ(フランス語版)の名を取ってサヴァリ法典(フランス語版)とも呼ばれる。商事王令は世界初の成文法の商法であり、近代的な商法の原型となり、その後の商法で商業帳簿が制度化された。サヴァリは、商事王令の解説書として『完全な商人』(1675年)を書き、経営の規模で簿記を4つに分類して解説した。『完全な商人』は独、蘭、伊、英語に翻訳された。商事王令の内容は、のちのナポレオン商法(1807年)に引き継がれた。 フランスはルイ15世の時代に政府が破産状態になり、ジョセフ・パリ・デュヴェルネ(フランス語版)をはじめとする金融家のパリ兄弟が財政改革に取り組んだ。パリ兄弟は商人や実業家の会計が国家にも活用されることを望み、徴税人への複式簿記の義務化などを提案したが、理解を得られず失敗した。ヴァンサン・ド・グルネーやジャック・テュルゴーらの重農主義者は会計専門家でもあったが、その著作は公会計には寄与しなかった。 ロシア ピョートル1世の時代(1682年から1725年)にフランスの制度をもとにして会計制度の整備が始まり、国家の歳入・歳出を監視する役所が1699年に設置されて役人としての会計士制度が成立した。1716年に会計法規が公布され、1722年にロシア初の簿記係が誕生し、1740年には貸借対照表が商人に義務付けられて商業帳簿も普及していった。 イギリス イギリスに複式簿記が導入されたのは、ロンバード・ストリートで商業や金融業を営んでいたイタリア商人からか、海外に住んでいたイギリス商人からと推測されている。イギリスで最初の簿記書は、ヒュー・オールドカッスルの『有益なる論文』(1543年)であると言われているが、現存していない。続いて出版されたのはヤン・インピン『新しい手引き』の英語版(1547年)だった。ジェイムズ・ピールやジョン・ウェディングトンはイタリア簿記の系統で初心者向けの本を出し、引き継がれていった。イギリス商人が複式簿記を使っていた最古の例は、トマス・グレシャムの仕訳帳(1546年-1552年)となる。 17世紀に入ると、オランダに対抗するためにイギリス東インド会社を1600年に設立する。設立当初は航海ごとに組合を組織していたが、1662年にはイギリス初の株式会社となり、会計には会計担当・監査担当・理事会監査が定められ、世界初の株主総会をする会社となった。1664年に複式簿記が導入されて定期的な財務報告もあり、現在の株式会社に通じる制度が作られていった。 英語の予算(budget)という語は、古フランス語の bourgette を由来とする。この語は小さなカバン、または書類を入れる小袋を指していた。イギリスでは大蔵大臣がカバン(budget)から書類を出して議会に予算を説明し、書類が入っているカバンが予算の書類そのものを指すようになり、18世紀に定着した。 単式簿記 18世紀のイギリスでは、教育のための実用書が数多く出版され、商人の子弟を対象とした簿記の教科書もアカデミーやグラマー・スクールで読まれた。しかし伝統的な複式簿記(イタリア式簿記)は、小売店の商人にとって複雑すぎるという不満があった。この不満に応えるために、『ロビンソン・クルーソー』の作者でもあるダニエル・デフォーは、経営入門書『完全なるイギリス商人(英語版)』で簡便な簿記を提案した。数学者のチャールズ・ハットン(英語版)は、デフォーの提案を単式記帳(single entry)と呼んで体系化した。これが現在は単式簿記と呼ばれるものの発祥で、イギリスやアメリカの小売商に広まり、明治期には日本にも伝わった。ただし単式簿記の記帳は貸借二重記帳なので単式ではなく、実際には複式簿記の簡便化に属する。このため訳語としては、単純簿記、簡易簿記、略式簿記などがより正確である。 植民地 大航海時代以後、ヨーロッパがアメリカやアフリカなど世界各地で植民地化を進めて、植民地には本国の会計制度が移入された。本国の簿記書が植民地で用いられ、アメリカ植民地ではジョン・メイヤーの『組織的簿記』(1736年)が読まれて図書館にも多数の蔵書があった。アメリカ植民地ではベンジャミン・フランクリンらの努力もあって簿記が急速に普及した。 アメリカ合衆国の独立後は1789年に連邦政府会計が制定され、支払命令書と単式簿記による公会計が始まった。現金主義だったために不完全な会計実務が問題とされ、複式簿記の導入となる。さらに、1903年以降に都市会計統一化会議が開催されて会計基準が統一されていった。
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ヨーロッパ・アメリカ
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アイルランドおよび イギリス 2016年11月18日公開。17館で上映され、週末興行収入で初登場29位(11月18日 - 20日、£21,910)。11月24日には一夜限りで104館での上映が行われ、日本アニメとしては過去最多のスクリーン数により、日本アニメの1日間の興行収入の新記録となる €127,350を達成した。2週目の週末興行収入は15位(11月25日 - 27日、23館)。 フランス 2016年12月28日よりフランス国内120館で上映。2016年度劇場興行収入ランキングは163位。 イタリア 上映期間は1月23日から25日までと、2月9日から14日まで。 アメリカ合衆国 米国配給権を持つファニメーションは、アカデミー賞のノミネート条件(ロサンゼルス郡内の映画館で連続7日以上の期間有料で公開)を満たすために2016年12月2日から一週間のみロサンゼルスの映画館Laemmle Music Hallで公開する予定であると報じられ限定公開されたが、ノミネートは逃した。 全米公開は『Your name.』という題で、現地時間2017年4月7日からとなる。また一部劇場では、これに合わせてRADWIMPS・野田洋次郎が新たに英語に書き下ろした主題歌4曲を収録する英語主題歌版が上映されることも決定している(それに先駆け、日本でも一部劇場で1月28日より2週間限定で字幕付きの英語主題歌版が公開される)。4月8日の封切り週末の興行収入は、290館の上映で約164万ドル(1億8000万円)で13位となった。2017年の最終興行収入は501万7246ドル(約5億6000万円)で、同年に公開された日本のアニメ映画で興収1位となった。
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