護憲運動と政治とは? わかりやすく解説

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護憲運動と政治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 19:00 UTC 版)

大正」の記事における「護憲運動と政治」の解説

護憲運動」、「大正政変」、および「大正デモクラシー」も参照 1911年明治44年)に第2次西園寺内閣成立した頃、日本国家財政は非常に悪化していたが、中国辛亥革命刺激され陸軍は、抗日運動対策兼ねて前年併合した朝鮮駐屯させる2個師団増設強く政府迫った緊縮財政方針西園寺公望がこれを拒否し政府・与党立憲政友会)と陸軍対立すると、多く国民陸軍横暴に憤り政治改革機運高まった。また1912年明治45年/大正元年7月30日明治天皇崩御して大正天皇即位したり、美濃部達吉が『憲法講話』を刊行して、天皇機関説政党内閣論を唱えたことも国民新し政治期待させた。 1912年大正元年)の末、2個師団増設閣議承認されなかったことに抗議して上原勇作陸相単独辞表大正天皇提出し陸軍軍部大臣現役武官制その後任を推薦しなかったため、西園寺内閣総辞職追い込まれた。代わって長州閥と陸軍長老である桂太郎が、就任したばかりの内大臣侍従長辞して第3次桂内閣組織すると、「宮中府中の別」の原則無視して宮中の職から首相に転じたことが、藩閥勢力新天皇を擁して政権独占企てているとの非難の声が上がった立憲国民党犬養毅立憲政友会尾崎行雄先頭とする野党勢力新聞に、商工業者都市部知識人階級加わり、「閥族打破憲政擁護」を掲げ運動全国広がった第一次護憲運動)。立憲同志会を自ら組織してこれに対抗しようとしたが、護憲運動は強まる一方だったので1913年大正2年)、民衆議会包囲するなか在職わずか50日余で退陣した(大正政変)。 のあとは、薩摩出身海軍大将である山本権兵衛立憲政友会与党内閣組織した山本内閣行政整理を行うとともに文官任用令改正し政党員にも高級官僚への道を開き、また軍部大臣現役武官制改めて、予備後備役将官にまで資格を拡げ、官僚軍部対す政党影響力拡大努めた1914年大正3年)、外国製軍艦兵器輸入を巡る海軍高官汚職事件シーメンス事件)が発覚すると、都市民衆抗議行動が再び高まりやむなく退陣した。 これを見た山縣有朋元老庶民の間で人気のある大隈重信急遽後継首相に推薦し第2次大隈内閣成立した大隈立憲同志会少数与党として出発したが、1915年大正4年)の総選挙立憲同志会などの与党立憲政友会圧勝した。この結果懸案の2個師団増設案は議会通過した。また同内閣下で第一次世界大戦勃発しており、同盟国イギリスドイツ帝国宣戦すると、日本日英同盟理由ドイツ宣戦し中国におけるドイツの植民地青島山東省南洋諸島一部占領した。ついで大戦のためヨーロッパ諸国中国問題介入する余力のないのを利用して1915年大正4年)に袁世凱政府に、加藤高明外相二十一か条の要求提出した対華21ヶ条要求)。 続く寺内政権では、袁政権後継となった北方軍閥の段祺瑞内閣巨額借款与えて西原借款)、政治・経済軍事にわたる中国における日本権限拡大しよう努めた極東権益保持するため第4次日露協約イギリスとの覚書特派大使石井菊次郎石井・ランシング協定締結した1917年大正6年)のロシア革命好機とみた寺内内閣北満州沿海州まで勢力広げようとした(シベリア出兵)。 寺内正毅超然内閣対抗して憲政会結成されると、寺内首相1917年大正6年)に衆議院解散総選挙結果立憲政友会憲政会に代わって衆議院第一党となった大戦による急激なインフレーションシベリア出兵見越した米の買い占めによって国内では米価暴騰して、1918年大正7年8月には富山県漁村主婦達が米の安売り要求したことが新聞報道される米騒動全国広がった。さらに労働者の待遇改善小作人小作料引き下げ運動起こった政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵推進した寺内正毅首相1918年大正7年9月21日退陣した。 民衆運動の力を目の当たりにした元老たちはついに政党内閣認め立憲政友会総裁原敬首相に推薦し1918年大正7年9月29日には初の本格的な政党内閣である原内閣成立した華族でなかった原は「平民宰相」と呼ばれて国民親しまれた。普通選挙要求高まった情勢背景に、原は政党地位高めながら自党党勢拡大行い、大資本地主などとの間に深い関係を築いた。また元老との衝突避けながらも、元老政治力縮小努力した。しかし、原は普通選挙制導入については国民期待反して現在の社会組織向かって脅迫与えるもの」として拒み続け選挙権納税資格を3円以上に引き下げ小選挙区制導入する選挙改革とどめた。これらは「党利党略」として世論不信招いた。また外交面では1919年大正8年)に満州日中両軍衝突する寛城子事件起きる。1920年大正9年)の尼港事件では在留邦人駐留日本軍赤軍中国軍皆殺しにされ内閣の責任追及された。1921年大正10年11月4日には原が東京駅頭で鉄道労働者中岡艮一暗殺された(原敬暗殺事件)。 続いて政友会総裁となった高橋是清首相となり、高橋内閣経済不況対応して積極政策試みたそのこと内紛起こったため、緊縮財政普通選挙訴え憲政会への期待高まっていった。外交面では1922年大正11年初頭ワシントン会議があり、アジアワシントン体制構築された。その結果日本国内でも国際協調主義強まった高橋内閣内紛により倒れ、代わってワシントン会議全権だった海軍大将加藤友三郎政友会事実上与党として内閣組織した加藤ワシントン会議協定に従って海軍軍縮行い、さらに山梨半造陸軍大臣によって山梨軍縮呼ばれる陸軍軍縮断行し選挙権拡大検討入った加藤病死後、関東大震災危機の中で第2次山本内閣立てられ再度政権返り咲いた山本挙国一致内閣必要性普通選挙採用訴えた政友会協力得られず、虎の門事件責任取り総辞職追い込まれた。続いて貴族院母体とした清浦内閣成立し、反政党政治的な態度示したが、それに対抗して衆議院憲政会革新倶楽部政友会の三派は、第二次護憲運動起こした1924年大正13年)の総選挙では護憲三派憲政会政友会革新倶楽部)が大勝収め護憲三派内閣として加藤高明内閣成立した。これ以降衆議院第一党党首首相務めるのが風習化した憲政の常道)。 加藤内閣は、宇垣軍縮呼ばれる高田陸軍師団豊橋陸軍師団岡山陸軍師団久留米陸軍師団の4個の陸軍師団削減して大量将校人員削減など陸軍軍縮行い兵力削減した経費戦車自動車航空機など20世紀導入され軍事装備大量配置して陸軍近代化行い中等学校現在の高等学校課程にほぼ相当)以上の男学校カリキュラム軍事教練設けて過剰となった将校教官にした。1925年大正14年)、普通選挙法成立させ、納税によらず25歳上の成人男子全員選挙権与え男子普通選挙実現することになる。しかし、婦人の参政権認めず、生活貧困者の選挙権認めないなどの制約があった。普選には「革命」の安全弁としての役割期待されていたが、同時に8年前のロシア革命のように「革命発火点」になる恐れ考えられたため、普選法同時に治安維持法成立させ、「国体変革」「私有財産否定」を目的とした活動禁止と、そうした結社加入することを厳重に取り締まったまた、勅令1751925年大正14年5月8日により、朝鮮台湾樺太にも治安維持法施行される。しかし普選実現により、無産政党にも議会進出の道が開かれ1926年大正15年)には労働農民党発足した。また同年治安警察法第17条廃止された。外交面では、日ソ基本条約結んで世界史上初の社会主義国家ソビエト連邦との国交樹立した同年12月25日大正天皇47歳崩御し、その長男摂政務めていた皇太子裕仁親王25歳践祚し、15年続いた大正時代終わり63年間に及ぶ昭和時代へと突入した

※この「護憲運動と政治」の解説は、「大正」の解説の一部です。
「護憲運動と政治」を含む「大正」の記事については、「大正」の概要を参照ください。

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