ワシントン会議全権
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1921年(大正10年)10月に原内閣はワシントン会議に海軍大臣加藤友三郎、駐米大使幣原喜重郎、そして家達を全権としてワシントンに派遣した。海軍大臣や駐米大使が全権になることに違和感はないが、軍人でも外交官でもない上院議長の家達の派遣は驚きをもって迎えられた。家達が選ばれたのはアメリカがヘンリー・カボット・ロッジら上院議員を全権に選んだことが影響しているといわれる。また原内閣の貴族院対策だったとも指摘されている。一方徳川家広は家達が日英同盟廃止論者だったので同盟を廃止してアメリカを含めた四か国条約に発展させるためだったのではないかと指摘している。 しかし、全権に就任するということは原内閣の軍縮などの外交方針に従い、公的な場においてその立場から政治的発言を行うことを意味し、それによってこれまで「無色」の上院議長で通してきた家達に毀誉褒貶すなわち政治的評価が付着する結果になった。それは必ずしも賞賛一辺倒ではなく、原内閣と政治的に対立している人物から多くの批判が寄せられるようになった。貴族院内でも議長批判の声が上がるようになり始めたため、帰国後に河井が対応に奔走することになる。 10月15日に加藤友三郎とともに横浜から汽船の鹿島丸で出航。船内では謡曲を歌ったり、デッキゴルフを楽しんでいた。また「十六代様」「貴族院議長公爵」として揮毫を随分依頼され、イニシャルのIとTから取った雅号「愛汀」の名前で応じている。 11月2日にワシントンに到着。ワシントンでの家達は旧知の英国代表アーサー・バルフォアと親しくした。 シカゴでの演説では「吾々は世界に於ける軍備縮小の目的を達する為め吾々の最善を努めたい覚悟である。そしそれは独り吾々の本国たる日本の為と云ふ許ではなく又同時に世界の平和を保証するものであると信ずる」と語った。また家達は共同通信の記者に対して日米両国間に横たわる誤解の原因を払しょくすることに専念するつもりであり、日米がお互いをよく理解し協力すべきと日米関係改善を試みると発言している。また別の演説の中ではペリー来航の話を絡めて日米外交を開始した徳川将軍家の子孫が今更なる日米友好の発展を期すといった演説も行った。外務省や日本全権団はワシントン会議の動向を報じる各国新聞の論調を注視しており、日本全権団も家達を中心に新聞記者を対象にしたレセプションを開催するなど各国報道陣への対応に注意を払った。 海軍軍縮問題はワシントン会議の成否を分ける重要問題であり、日本海軍の主力艦の比率を対米英7割にするか6割にするかという問題だった。アメリカは6割を要求したが、日本とアメリカの交渉は海軍軍縮専門委員会でも妥協点が見いだせず、協議は難航。そうした中の11月28日(現地時間)の記者会見で家達は7割は海軍随員加藤寛治中将の個人の意見であって「日本海軍問題に関しては日本代表は海軍力比率に関して執るべき最も件名な方策につき目下審議中であるから未だ其の態度を声明する迄には進んでゐない」と述べており、つまり日本全権団として公式に7割を主張しているわけではない旨を記者団の前で発言し、これが12月2日に日本国内で新聞報道された。この発言は日本全権団内で7割を強く主張し続けていた加藤寛治の存在をクローズアップさせると同時に日本全権団内部の不統一を期せずして露呈させた。事は会議全体と国防方針に関わる問題だったため、様々な憶測と混乱を惹起した。 報道が拡散されて日本国内が混乱していたのを受けて、12月1日(現地時間)に家達は再び記者会見し「余は加藤中将の陳述に関して余に質問を発した一新聞記者に対し、右陳述は単に海軍専門家等の意見であるといふ意味を伝へる積りであつたのである、余は加藤中将の意見を反駁する意向は無かつたのである、然るに余の言を以て加藤中将の意見の反駁若しくは否認と解する人々があるらしい、然し余は毫も此種の観念又は印象を伝へやうとは欲しなかったのである」と弁明している。 しかし日本国内では7割案だったのを米国に屈従して6割案に譲ったとする全権の弱腰を批判する論調が日増しに高まり、それは渋沢栄一と彼の娘婿で貴族院議員の阪谷芳郎を通じて家達の耳にも入っていた。阪谷は渋沢に「徳川全権ハ当方新聞紙上至テ不評判ナリ」と報告している。 また家達の不在中の貴族院内では細川護立侯爵や佐佐木行忠侯爵ら研究会の反幹部派が院内会派・無所属(第2次)を組織したことで、会派の活動が活発化して、いきり立った状態になっていた。貴族院書記官長の河井はこの貴族院内の不穏な状況を早期に収める必要性や、これ以上家達がワシントンで声望を落とすことを懸念して家達の早期帰国を提案。他国の全権も一部が帰国しはじめていたこともあって、12月下旬、外務省は家達の早期帰国を決定した。原内閣の貴族院対策のために全権になったと言われていた家達は、後続の高橋是清内閣の貴族院対策のために帰国することになった。 家達の早期帰国の件は貴族院本会議でも質問が出ているが、高橋首相は他国の全権の一部が帰国していることに触れて「徳川公爵ハ帰朝シテモ向フニハ差支ヘナイ」と答弁している。この答弁は加藤友三郎や幣原喜重郎と異なり、家達が全権としてワシントンで遂行する任務がなくなったことを証明するものでもあった。 他の全権に先駆けて帰国した家達は会議への不満を一身に受けざるを得なくなった。全権としての家達への評価は賛否両論で、6割反対運動をしていた対米同志会は「平和の攪乱者宴会使節徳川家達公は何の面目あつて帰るか」「言語道断の大失態」と非難する声明を出し、憲政会所属の衆議院議員望月小太郎は「重大なる時機に不必要なる談論を恣にして我が国防安全七割率とは単に日本海軍専門家の私言に過ぎずと公言し全権間に一場の紛議を捲き起こし」たと批判。他方、外交評論家の小松緑は家達が会議において「円満に事を纏める素地を作」ったことを「成功」としつつ「気の毒にも、その仕事が余り表面に出なかつたので、世人から能く諒解されてゐない」と指摘した。 貴族院内の評価も賛否両論であった。まずは議長の労をねぎらう議員が大半だったが、一部の議員から批判が起き、会議の成果が成功とはいえないこと、貴族院議長を全権にすることで貴族院からの会議への批判を封じ込めようという原内閣の計略に乗せられたこと、そもそも家達が会議の議題になっている問題の専門家でなかったことなどについて批判があった。ただ家達を擁護する政友会と研究会、批判する憲政会と幸倶楽部派といった構図は表面上は見られず、目立った批判を浴びせたのは対外硬を唱える少数派であり、残りは少なくとも静観といった感があった。 河井は帰国後の家達が批判を受ける状況をできる限り減らすため、家達に隠忍自重を促す一方、内閣、貴族院、マスコミなどに謝意を表明して懇話会を開くなど融和に尽力した。書記官長としての職務範囲をはるかに超える河井の活動(ゆえに柳田に嫌われたが)は家達の大きな支えとなったと思われる。
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