護持院原の仇討ち
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弘化2年(1845年)2月に鳥居耀蔵の審問が始まり、本庄も2月19日に長州赤間ヶ関(=下関)長崎村で召し捕られ、3月26日に江戸へ送られた。評定所五手掛が老中牧野忠雅に提出した答申書によれば、本庄が秋帆に遺恨を含んで讒訴したこと、この一件の連累者たちが同様のことをいって不服を唱えていたことなどが明らかにされている。 鳥居耀蔵は家禄没収のうえ、他藩御預けとなり、手先を務めた浜中三右衛門と石河疇之丞は追放に処された。 本庄は、弘化3年(1846年)7月25日、本来遠島であるところ、拘留中に牢屋敷で3度火事があり、一時解き放ちになった後に戻ってきたことから減刑されて中追放と決まった。しかし、弘化3年8月6日、本庄は解き放たれた護持院原で討たされて死亡。享年45。 本庄を討ったのは、井上伝八郎の甥・伝十郎だった(#井上伝八郎暗殺の節を参照)。かつて本庄が暗殺した井上伝兵衛の弟・熊倉伝之丞とその子の伝十郎が、伝兵衛の死を知って、敵討のために浪人して江戸に出た。伝兵衛の暗殺が本庄茂平次の仕業と判明して本庄を追うが、それを知った本庄は伝之丞を殺させた。伝十郎は、伝兵衛の剣術の弟子だった大和十津川の浪人・小松典膳とともに本庄を探し続けるが、このころ本庄は鳥居に縁を切られて長崎に戻っていたため、見つからなかった。しかし本庄が捕縛され、中追放の刑となったことを知り、本庄が神田橋を渡って元護持院二番ヶ原にきたところを伝十郎と典膳が名乗りをかけて斬りつけ、討ち果たした。松岡英夫や加来耕三は、敵討ちを願い出ていた熊倉伝十郎と小松典膳に本庄を討たせるために、本庄が追放される日と場所を町奉行所が教えていたのではないかと考えている。 なお、「護持院ヶ原の敵討」と呼ばれる敵討は、これ以外にも天保6年7月13日の山本りよ(女性)、山本九郎右衛門(りよの叔父)によるものがあるが、これは本庄茂平次が討たれたものとは無関係である。こちらの敵討は、森鷗外の『護持院原の敵討』という史伝小説の題材となっている。
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