護持院原の仇討ちとは? わかりやすく解説

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護持院原の仇討ち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 02:33 UTC 版)

本庄茂平次」の記事における「護持院原の仇討ち」の解説

弘化2年1845年2月鳥居耀蔵審問始まり本庄2月19日長州赤間ヶ関(=下関長崎村召し捕られ3月26日江戸へ送られた。評定所五手掛老中牧野忠雅提出した答申書によれば本庄が秋帆に遺恨含んで讒訴したこと、この一件連累者たちが同様のことをいって不服唱えていたことなどが明らかにされている。 鳥居耀蔵家禄没収のうえ、他藩御預けとなり、手先務めた浜中右衛門と石河疇之丞は追放処された。 本庄は、弘化3年1846年7月25日、本来遠島であるところ、拘留中に牢屋敷3度火事があり、一時解き放ちになった後に戻ってきたことから減刑され中追放決まった。しかし、弘化3年8月6日本庄解き放たれ護持院原で討たされて死亡享年45本庄討ったのは、井上伝八郎の甥・伝十郎だった(#井上伝八郎暗殺の節を参照)。かつて本庄暗殺した井上伝兵衛の弟・熊倉伝之丞とその子の伝十郎が、伝兵衛の死を知って敵討のために浪人して江戸出た伝兵衛暗殺本庄茂平次仕業判明して本庄を追うが、それを知った本庄は伝之丞を殺させた。伝十郎は、伝兵衛剣術弟子だった大和十津川浪人小松典膳とともに本庄探し続けるが、このころ本庄鳥居に縁を切られ長崎戻っていたため、見つからなかった。しかし本庄捕縛され中追放の刑となったことを知り本庄神田橋渡って護持院二番ヶ原にきたところを十郎典膳名乗りをかけて斬りつけ討ち果たした松岡英夫加来耕三は、敵討ち願い出ていた熊倉十郎小松典膳本庄討たせるために、本庄追放される日と場所を町奉行所教えていたのではないか考えている。 なお、「護持院ヶ原敵討」と呼ばれる敵討は、これ以外にも天保6年7月13日山本りよ(女性)、山本九郎右衛門(りよの叔父)によるものがあるが、これは本庄茂平次討たれたものとは無関係である。こちらの敵討は、森鷗外の『護持院原の敵討』という史伝小説題材となっている。

※この「護持院原の仇討ち」の解説は、「本庄茂平次」の解説の一部です。
「護持院原の仇討ち」を含む「本庄茂平次」の記事については、「本庄茂平次」の概要を参照ください。

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