護持院ヶ原とは? わかりやすく解説

護持院ヶ原

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 10:04 UTC 版)

護持院」の記事における「護持院ヶ原」の解説

護持院ヶ原は森鷗外歴史小説護持院原の敵討」の舞台として知られる弘化3年(1846)にあった仇討ち事件描いている。 享保2年焼失した護持院跡地火除け地となり、護持院ヶ原と呼ばれた。。江戸城の北、平川門と竹橋対岸にあったことから、おそらく江戸城対す防火機能もたせた考えられている。 護持院ヶ原は、将軍放鷹の場、市民遊観所として使われた。空地を一番二番三番四番分けて、数条の堀をほっていた。放鷹は冬にされ、二月から八月までは、周辺の人たちに開放された。「神田橋外一ッ外、明地近辺屋敷屋鋪ノ妻子、延気二罷出候儀、二月中旬ヨヅ八月中旬迄ハ勝手次第、出ヅ可キ候。此外町人等モ妻子召連、延気二参候ハ苦シカラズ候。」と達せられている(『憲教類典享保8年)。武家屋敷中にあったこととて、まず武家妻子対象とし、町民遊んで苦しくないという形となっている。 一番原文化14年より本多忠升屋敷となったが、他は幕末まで建物を建てず、空地として残っていた。文化14年に一番原屋敷になるまでは、日比谷公園よりかなり広い地域占めていた。 明治維新後は、学習院開成学校などの校舎がこの地に建造された。『武江年表』の明治3年の項によると、「錦町の西には一番より三番までの火除明地あり。昔、護持院のありし跡にて、毎春近傍の者はここに遊観し、児輩摘草などして戯れしが、この頃追々御用付き建物御設あり、華族学習院開成所等も此所なり」と書かれている。護持院ヶ原は面積広く、『東京案内』によると神田錦町一丁目二丁目三丁目一橋通町占めていた。四番原すなわち後の一橋通町にできたのが高等商業学校一橋大学前身)である。 享保年間から幕末まで遊観所として、士民親しまれてきた護持院ヶ原が、明治政府によって建物敷地になったのは、ちょうど品川御殿山享保年間から名所として開放され遊観所(公園)でありつづけながら、明治政府によってつぶされたのと同じ状況であった。なお近く神田川土手筋違橋浅草橋間)に植えたのは、吉宗だと伝えられるが、柳原堤として市民親しまれてきた河岸緑地であった。『江戸名所図会』に土手下で武士たちが的を射ている矢場状況描かれている。明治4年になって土手床店取り払いを伐り倒して道路ひろげた。これも都市緑地遊観所がつぶされ一例である。

※この「護持院ヶ原」の解説は、「護持院」の解説の一部です。
「護持院ヶ原」を含む「護持院」の記事については、「護持院」の概要を参照ください。

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