ロードレース (自転車競技)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 05:24 UTC 版)
自転車競技におけるロードレース(英: road bicycle racing, 仏: cyclisme sur route, 伊: ciclismo su strada)は、主に舗装された道路を自転車で走り、ゴールの順番や所要時間を争う競技。走る距離は短いものでは数km程度(ステージレースのいわゆる「プロローグラン」)、長いレースでは1日で300km弱(ミラノ〜サンレモなど)にも及ぶ。どのレースでも個々の成績を争うため、基本的には個人競技であるが、上級カテゴリーのレースでは、複数人のメンバーが役割を分担して、チームが定めた目標達成のために走るため、ほとんどの場合、団体競技の様相を呈するのが特徴である。
注釈
- ^ 例えばAは山岳賞を獲りにいく。そのためにチームメイトのBとCが中心となってサポートする。またDは普段はAのサポートを務めるが、別チームのエースでAのライバルと見られているEが抜け出した場合は、それについて行き、余計なポイントを与えないようにする、など。
- ^ 世界選手権優勝者はアルカンシエルを、各国選手権優勝者にはその国のナショナルカラーをあしらったジャージを各レース優勝後1年間、下記に挙げるチャンピオンシップレース以外のレースに着用して出場できるという特典があるため。
- ^ 欧州以外の地域の国籍選手は、各大陸選手権で優勝しないと世界選手権に参加できないケースがあるため。
- ^ アマチュア選手だけしか参加できなかった1992年のバルセロナオリンピックまでは、傾向的に見て、『オリンピックの自転車ロードレース金メダリストは、プロになってから大成しない。』というジンクスがあった。
- ^ 2015年昇格。
- ^ ツール・ド・フランスでも、1982年までは、一部のステージにおいて、ハーフステージの形式を取っていた。
- ^ たとえば総合4位、ポイント賞15位、山岳賞2位なら21ポイント。またポイント賞か山岳賞どちらかがノーポイントの場合コンビネーション賞を得る権利が無くなる。
- ^ 特にスプリンターと総合優勝争いの選手を同時に起用しているチームでは顕著。平地ではスプリンターのために他がアシストになり、総合勢は集団ゴールするだけで何も行わない。山岳ではスプリンターは序盤で総合勢をアシストし山岳に入るまでが仕事で残りはグルペットに入り一日を終えるが、総合勢は勝負を仕掛けタイムを稼いでいく。
- ^ ふじいのりあき 2008: 115の計算によると、ランス・アームストロングの巡航時の平均出力370ワットをエネルギー効率25%と仮定するならば、4時間の競技で基礎代謝を含め7490カロリーを消費するとされる。
- ^ 1日で勝負が決まるワンデーレース、特に路面状況と道幅の面で特徴を持つパリ〜ルーベやツール・デ・フランドルでは、ステージレースとは全く異なるレース展開となることが多い。
- ^ 2008年のジロ・デ・イタリア第2ステージでは、2人の逃げ集団の片方の選手が強引にポイントを独り占めしてしまった為、もう片方の選手が先頭交替を拒否し、逃げは早い段階で崩壊した。
- ^ ブエルタ・ア・エスパーニャ2009の第19ステージ、上位12人による2位狙いスプリントで総合リーダーだったアレハンドロ・バルベルデが頭を取り、ボーナスタイム12秒を入手して他を突き放している。
- ^ 過去には、2004年のツール・ド・フランスにおいて、第12ステージでランス・アームストロングがイヴァン・バッソに優勝を譲ったものの、翌日の第13ステージではアームストロングがバッソにスプリント勝負を仕掛けて自らステージ優勝した例などがある。
- ^ 2000年のツール・ド・フランス第12ステージで、ランス・アームストロングに優勝を譲られたマルコ・パンターニが激怒した例などが有名。
- ^ 2006年のジロ・デ・イタリア第19ステージで、チームCSCのエースであるイヴァン・バッソのために逃げ集団に着き位置していたイェンス・フォイクトが、最後まで逃げ続けたフアン・マヌエル・ガラテにステージ優勝を譲った例などがある。
- ^ ゴールまでの残り距離が遠い場合は、逆に新たな逃げ集団を発生させてしまうことが多いため。通常の平坦ステージでは「ゴールまで残り数kmのところで逃げ集団を吸収してゴールスプリントへの準備に移る」のが理想とされる。
- ^ 2009年のツール・ド・フランス第9ステージでは、残り3km地点で逃げ集団を猛追撃していたメイン集団内でチーム・サクソバンクのエースアンディ・シュレクにパンクのトラブルが発生し、これが原因でメイン集団が減速したため結果的に逃げが決まった。反対に2007年のツール・ド・フランス第5ステージでは、残り25km地点でアスタナのエースアレクサンドル・ヴィノクロフが落車したが、既に逃げ集団を吸収する態勢に入っていたメイン集団はヴィノクロフを待つことなく加速してしまった。このためヴィノクロフはこのステージだけで1分20秒も失ってしまい、落車のダメージもあって、その後マイヨ・ジョーヌ争いからは脱落していった(最終的にドーピング陽性で失格)。
- ^ ジロ・デ・イタリアではミラノが最終ステージの通例とされてきたが、2009年にジロ100周年記念としてローマで個人タイムトライアルが行われたのを皮切りに、「ミラノ固定」ではなくなりつつある。
- ^ 例えば、フランス・ベルギー・オランダ・イタリア・スペインは国旗の色をそのままジャージにあしらっている。白地にストライプをあしらっているものでは、イギリス(赤・白・紺)、ドイツ(黒・赤・金)、オーストラリア(緑・黄・緑)が挙げられる。日本は日の丸、アメリカは星条旗を模したデザイン。ニュージーランドは黒地にシダである。ただしこれらのデザインは、所属チームやスポンサーの意向により変更される場合も多く、必ずしも固定されていない。
出典
- ^ UCI Cycling Regulations 2.7.016
- ^ UCI permits criteriums in UCI 2.2 stage races - cyclingnews・2011年9月9日
- ^ a b 2009 - 2010 UCI Road Calendar: Men Elite, World
- ^ “Road Calendar”. 国際自転車競技連合. 2015年3月28日閲覧。
- ^ “Road Calendar”. 国際自転車競技連合. 2015年3月28日閲覧。
- ^ サイクルロードレース入門 用語集2010年度版 - J SPORTS[リンク切れ]
自転車ロードレース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 05:00 UTC 版)
クラシックレースの1つとされ、毎年春先に行われているミラノ〜サンレモのスタート地点。 グランツールで最初に開催され、イタリアを一周するステージレースであるジロ・デ・イタリアでゴール地点に多く利用されている。
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自転車ロードレース
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「セストリエーレ」の記事における「自転車ロードレース」の解説
ツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアではセストリエーレを通過、もしくは頂上ゴールの峠として登場している。 当峠がゴール地点だった年度は以下の通り。
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自転車ロードレース
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フランスの自転車選手を参照 世界最大で三大ツールの一つであるツール・ド・フランスが行われ、人気のスポーツである。ツール・ド・フランスの歴史は古く、1903年に第1回大会が行われて以来、二度の大戦によって1915年から1918年および、1940年から1946年の中断があるものの、2008年で95回を数える。しかし、近年ではフランス出身の選手はあまり活躍しておらず、1985年のベルナール・イノーを最後に総合優勝者は出ていない。その他フランスで行われる主な大会としては、パリ~ニース、パリ〜ルーベ、クリテリウム・デュ・ドフィネ、ブルターニュ・クラシック・ウエスト=フランス、パリ~ツールなどがある。
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自転車ロードレース
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「グラン・コロンビエ峠」の記事における「自転車ロードレース」の解説
1999年にツール・ド・レンのコースの一部として登場して以来、『フランスで最も厳しい峠』と言われ、急峻な登坂区間が多いため、2011年の開催まで、ツール・ド・フランスでは一度もコースに組み入れられたことがなかったが、2012年のツール・ド・フランス第10ステージにて初めて登場することになった。また、同年のツール・ド・フランス開催に先立ち、同年6月に行われたクリテリウム・デュ・ドフィネ第5ステージにおいて当峠を通過する区間が設けられた。なお、2012年のツール・ド・フランスではキュロズを起点としたコースが設定されている。 ツール・ド・フランス歴代首位通過選手 年首位通過選手国籍2012 トマ・ヴォクレール フランス
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自転車ロードレース
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詳細は「NIPPO・ヴィーニファンティーニ・ファイザネ」および「EFエデュケーション・イージーポスト」を参照 自転車競技走路などの舗装技術の開発を通じて自転車ロードレースにも関わりが深いことでも知られ、日本鋪道時代の1987年以来、自転車ロードレースチームを所有・支援している。NIPPO・ヴィーニファンティーニは2015年からUCIプロフェッショナルコンチネンタルチーム(イタリア登録)に昇格した日本人選手を含む国際チームで、グランツールのひとつであるジロ・デ・イタリアにも参戦した。 2019年にチームが解散したため、2020年からはフランスのマルセイユに拠点を置き、2020年よりUCIプロチームに加入するデルコ・マルセイユ・プロヴァンスのメインスポンサーとなることが公式HPで発表された。チーム名は「NIPPO・デルコ・ワンプロヴァンス(英語版)(Nippo Delko One Provence)」となった。しかしシーズン中盤から後半にかけて運営の内紛問題が発生。事態が日本人選手が嫌がらせを受けるまでに発展した事を受け、スポンサーから撤退。 2021年シーズンからはUCIワールドチームのEFプロサイクリングと、さらにその下部チームの位置付けであるコンチネンタルチームをスポンサードすることとなった。新チーム名は、EFエデュケーション・NIPPOとなる。
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自転車、ロードレース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:58 UTC 版)
子供の頃から運動好きだったことや、小学生の頃に日本でスポーツ自転車のロードマンが流行ったこともあり、自転車で長距離を走ることが好きになった。小学生と中学生の頃にそれぞれ父親から1万円の旅費をもらい、東京の自宅から名古屋にある祖母宅まで(片道約350kmの道のりで、国道1号線を走り箱根越えするルートだった)を一日半かけて一人で自転車で往復したことがある。 役者デビュー後から仕事場に行く時に自転車を利用していたが、ある時知人から誘われたことをきっかけにロードレーサーに乗り始める。その後ヒルクライムレースに出場したり、“激坂”として知られる「ふじあざみライン」で走るのも好きになる。 このことから自転車・バイク関連の雑誌インタビュー・表紙に登場することも多く、レース出場にも意欲的である。出場した大会の一例として、先述の2013年の『オートルート・アルプス』や、2016年のハワイ・オアフ島で開かれたホノルル・センチュリーライドなどがある。 本人は自転車の魅力について、「買い物に行く時には気軽に乗れて、遠くまで行けばいい運動にもなる。他の乗り物に比べて置き場所にも困らないし維持費も安い。かと思ったらツール・ド・フランスのようなハイレベルなレースもあって、幅が広いです」と語っている。
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自転車ロード・レース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 21:31 UTC 版)
「ヘマトクリット値」の記事における「自転車ロード・レース」の解説
持久力を必要とされる競技、特に自転車ロード・レースにおいては、血液中の酸素量が重要とされている。 そのため、酸素を運ぶ赤血球量が多くなることが競技において有利となり、長期間に連続したレースを行うステージ・レース、特に23日間に渡って21のステージを走り、3000km程度を走破するツール・ド・フランスなどのレースでは大きな意味をもつ。 1990年代頃から、本来は貧血などの治療に使うためのEPO(エリスロポエチン)がヘマトクリット値を上げるための手段となり、プロの選手間に蔓延し始めた。当時は体内で生成されたものと、人工的に合成されたものとを区別する検査手段がなく、国際自転車競技連合(UCI)は暫定的にEPOを摂取することで上昇するヘマクリット値が50%を超えた場合にあくまでも「選手の健康を守る為(後述の健康被害を防ぐと同時に、身体的特性として平常時のヘマトクリット値が50%に迫り、検査時の状況次第で50%を超える選手もいることから、基準を超えたとしても一概にドーピングであるとは言えない為)」に出場停止とした。選手間ではこれを逆手に取って「ヘマトクリット値を50%までならEPOで上げてよい」と解釈され、常用に歯止めが掛からなかった。 このEPOによるドーピングにおいては、通常のヘマトクリット値が少ない選手ほどドーピングの効果が上がるため、元から40%以上の値がある選手と30%台の選手では大きな違いが出た。 また、ドーピングの発覚を防ぐために普段からEPOを常用し、ヘマトクリット値を常に高くし、そういう体質だと見せかけることが常態となった。これは同時に血液の酸素量が多いためにトレーニングの強度を上げられる効果もあった。しかし血液がドロドロになるために、健康には大きな問題となる。選手によっては、夜中にも常に定期的に起きて軽い運動を行い、血液の循環を促していた。実際にこのEPOの濫用が原因で死亡したと思われる選手も存在する。 1998年のツール・ド・フランスにおいては、有力チームの一つ「フェスティナ」のチーム・カーに大量のEPOが積まれていることが摘発され、自転車界を揺るがす大事件(フェスティナ事件)になった。 しかし2000年代に入ってEPOの検査方法が確立してくると、レース中のドーピングは自己血輸血が中心となり、EPOは主に通常時のトレーニングに補助的に使われるようになった。この自己輸血については、2006年に比較的ドーピングに緩かったスペインでの大摘発があり(オペラシオン・プエルト)、当時のトップ選手が多数関与していることが疑われた。 その後、自転車界もクリーンな方向に向かったとされているが、現在でも新種のEPOなどは使用されているとされている。 2010年代に入ると、1999年代後半から2000年代において保存されていた検査血液から、新たな方法による検査で実際にはEPOが使用されていたことが次々に見つかり、多くの選手がドーピングを告白し、引退や出場停止に追い込まれた。 ツール・ド・フランス七連覇のランス・アームストロングも、チームぐるみでこのEPOを使用していたと告白する羽目になり、全てのタイトルが剥奪された。 EPOは長時間負荷を必要とするレースにおいて効果があるとされており、レースの終盤でのみ力を爆発させるスプリンターや、1日だけのレースを主戦場とする選手たちには比較的効果が薄いとされている。そのため、EPOに関しては、このような選手達はクリーンであることが多いと思われている。
※この「自転車ロード・レース」の解説は、「ヘマトクリット値」の解説の一部です。
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