犯人の人物像
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犯人のSは家計を助けるため働きながら勉強しており、正義感の強い真面目な青年として知られていた。20歳にして通訳となるも、親の看病のため帰郷し土木作業員として働いた。しかし、関連会社に仕事上の不正を抗議した際、貧しい経済状況から、出された口止め料を受け取ってしまう。これを会社は恐喝行為として訴え、Sは刑務所に収監される。 出所後は翻訳の仕事から、海外スポーツライターとして活動を始め、事務所を開いて実績を積んでいった。 しかし1964年3月、妹夫婦と親の介護について口論になり家具を壊して、駆けつけた警官により逮捕、精神鑑定にかけられる。精神病質と鑑定されたSは精神科病院に措置入院となり、病院内で知り合った女性がロボトミー手術により人格が変わってしまい、その後自殺したことに激怒、執刀医に詰め寄ったことで危険だとしてロボトミーの一種、チングレクトミー手術を強行される。この医師は、Sの母親に詳しく説明せずに手術の承諾書にサインをさせたといわれている。 退院後はスポーツライターに戻るも、感受性の鈍化や意欲減退などでまともな記事を書けず、後遺症に悩まされ強盗事件を起こす。出所後はフィリピンで通訳となるが反政府運動に巻き込まれ国外追放となる。帰国後、「ロボトミー手術の問題点を世間に知らしめる」として犯行に及んだ。 裁判で再び精神鑑定を受け責任能力有りと判定されたが、脳内に手術用器具が残留しており、脳波に異常がある事も明らかとなった。Sは「無罪か死刑でなければロボトミー手術を理解していない」として無罪か死刑のどちらかを望んでいたが、1996年、最高裁で無期懲役が確定となった。 Sは、近年、服役中に体調不調により生きていても仕方がないと考え、刑務所で自殺を主張し、「自死権」とそれを認めない精神的苦痛により160万円を国に求める裁判を起こしたが、2008年2月15日、仙台地裁の近藤幸康裁判官は、自死権は法的に認められていないとして請求を棄却した。
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犯人の人物像
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「テキサスタワー乱射事件」の記事における「犯人の人物像」の解説
詳細は「チャールズ・ホイットマン」を参照 犯人であるチャールズ・ジョセフ・ホイットマン(英: Charles Joseph Whitman)は1941年6月24日生まれ。裕福な中流上層家庭で何不自由なく育った。成績優秀でスポーツ万能、音楽の才能を示すなど、恵まれた少年時代を過ごしている。その一方、厳格な父親からは体罰を含む厳しいしつけを受け、父との関係は悪かった。ボーイスカウトとして活動していた12歳のときには、当時世界最年少のイーグルスカウトに昇進したこともあった。アメリカ海兵隊で一級射手の資格を取ったのち除隊。事件当時は犯行の舞台となったテキサス大学で建築学を学ぶ大学院生であった。性格は穏やかで快活。冗談がうまく、子供好きで、誰にでも愛想が良く、「模範的なアメリカの好青年」であったといわれている。大学へは1961年に入学し、当初は海軍下士官科学教育プログラム (英: Naval Enlisted Science Education Program) で奨学金を得ていた。妻に出会い、結婚したのは在学中のことだった。しかし、学業は順風満帆とはいかなかった。ギャンブルにのめりこみ、成績も悪かった。1963年には奨学金受給資格を失った。 1966年、両親が離婚したころから発作的な暴力衝動や激しい頭痛に悩まされるようになり、カウンセリングを受けている。事件に先立ち「悲しませたくないから」という理由で妻と母を殺害、死後に自分を解剖をするよう希望する遺書を遺している。また、この遺書には、父親に対する憎悪の念が生々しく記されていた。他に、父親と弟に宛てた遺書も残されているが、父親宛ての遺書は現在も公表されていない。事件後、実際に解剖が行われ、脳の視床下部の部分からくるみ大の腫瘍が発見された。この腫瘍が脳の扁桃核を圧迫し、暴力衝動を誘発していたとも考えられたが、事件へどの程度影響したかや、事件の詳しい動機などはよくわかっていない。
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犯人の人物像
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死刑囚Kは1983年10月13日に生まれ、2013年2月21日に法務省(法務大臣:谷垣禎一)が発した死刑執行命令により収監先・東京拘置所にて死刑を執行された(29歳没)。 Kの一家は、父(外務省ノンキャリア官僚、事件当時外交史料館課長補佐)、母(パート勤務)、K、妹、妹、弟の6人家族。幼少期は父の仕事の都合で、上海、次いでニューオーリンズで生活する。小学校は横浜市内の公立校に通うが、この頃から父は仕事が多忙になって家族と触れ合う時間が無くなり、育児は母に任せきりとなる。しかし子供が小さい頃は子煩悩であり、土日には子供たちと触れ合う時間も持っていたが、子供の学力やしつけに関しては厳しい態度をとっていた。Kの子育てについては、小学3年生頃からKに対する期待と実際のKの成長ぶりとのギャップに悩むようになり、小学6年生の時の学習評価は「真面目に取り組むが、限られた時間内での学習が苦手」であった。 一方で母は頭の良さを追求する父とは異なり、生きる力、人間力を伸ばすことを考えて子育てをした。対人関係についての評価も徐々に改善してゆき、人間的な成長がうかがえた。小学5年生の時に土浦市にマイホームを購入し、引っ越す。中学時代はおとなしく控えめな性格で、反抗期はなかった。高校は近くの私立霞ヶ浦高等学校に入学、弓道部ではこつこつ練習に打ち込み、後輩から弓道部でナンバー2と呼ばれる腕前になる。高校2年生の時には全国大会に出場した。しかしこの頃からKの内面に変化が起こってくる。夏ごろから超常現象に興味を持つようになり、部室で座禅や瞑想にふけるようになる。この年の沖縄への修学旅行の感想文では(戦争に限らず)人類への敵意をむき出しにした内容であったため、担任からは書き直しを命じられるが、書き直しの文章でも中傷は半分までしか減らなかった。Kは担任に注意された時、「心のままに書いただけ」と答えた。 この頃、父から『子どものための哲学対話』(永井均)を買い与えられる。常識を疑い、世界の新たな見方を提示する、という趣旨で書かれた本で、Kが「死刑になるための殺人」を実行するにあたって思想的なバックボーンになったとされている。 高校3年生に進級した時は、私立大学文系への進学を希望する。学力では十分に合格しうる状態であったが、9月頃に「大学には興味がなくなった」と、就職希望に転換する。教諭の紹介で市内の和菓子会社に応募するが、面接の予定が会社の判断で工場見学だけで帰された。事件後の面会でKはこのことを大きな挫折と捉えており、紹介した教諭に対して不満を持ち続けていた。また、実際には和菓子会社側から採用を断られたのだが、Kは「自分から面接を受けるのを止めた」、といい続けていた。更に卒業単位が揃わない可能性が出てきて、教諭がレポートでの単位認定などを持ちかけた。しかしKは自暴自棄に「卒業しなくてもいい」と返答して応じず、母に相談しても解決しなかった。最終的には弓道部の友人の説得によって翻意したが、この時期のKは自身のプライドと周囲の現実の折り合いをつけることに苦悩していた。何とか卒業にはこぎ着けたものの、教諭の説得にもかかわらず就職はしなかった。この頃、Kは友人に自殺願望を明かしている。 高校卒業後はテレビゲームをしたりマンガを読んだりして過ごしていた。同じころに上の妹や弟も不登校になっており、母も子育てについて迷う時期が続いた。夫は相変わらず多忙で家庭については非協力的で、「学校に余計なことは言うな」とクギを刺すだけだった。Kについては、進学断念や就職、卒業についての騒動についても母に具体的に話すことはなく、母も対応に困り、立ち入った相談をすることは出来なかった。兄弟姉妹間の会話もほとんどなく、上の妹は母に声を聞かせたくないとコミュニケーションは筆談で行うという状態だった。Kも家族とも関わりを避けて食事もひとりでとっていたという。 以降Kは、ゲームを買うための小遣い銭が必要になるとアルバイトを始め、金がたまると辞める、という生活を送るようになる。どこの職場でも勤務評価は良かった。2003年8月に行われたゲームの関東地区の大会で準優勝となる。しかし、Kはやがて生きる目的を見失い、自らの死を望むようになる。そこで、確実に死ぬ手段として死刑を選択し、確実に死刑になるために複数人の殺害を選択した。父の定年退職を控えた2008年1月16日、コンビニのアルバイトを辞める。数日後、近くのホームセンターで文化包丁を、ネットオークションでサバイバルナイフを、デパートでリュックサックをそれぞれ購入した。また、逃走資金40万円を引き出し、変装用のスーツやネクタイを購入した。 当初は気に入らなかった上の妹を殺し、次に近くの学校を襲撃する予定であった。3月17日、決意を現すために2台もっている携帯電話の片方からもう片方に犯行声明を送った。18日に決行予定であったが、朝に起きると妹はすでに外出していたため、翌日に決行を延ばした。
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