助教授から教授へとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 助教授から教授への意味・解説 

助教授から教授へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:59 UTC 版)

金田一春彦」の記事における「助教授から教授へ」の解説

1959年3月時枝誠記東京大学国語学助教授として春彦より3級下の松村明採用東大教授になる夢が潰れ、落胆する同年4月東京外国語大学助教授となる。以後名古屋大学では集中講義のみを担当し事実上東京外語大専任となる。 1961年4月東京外国語大学教授となる。入試委員として国語の試験問題作成する1962年2月3日論文邦楽古曲旋律による国語アクセント史の研究』により東京大学から文学博士号を授与される言語学邦楽学の双方にわたる内容で、明恵上人作詞作曲伝え声明一曲四座講式」を手がかりに、鎌倉時代日本語のアクセント論じた博士論文審査員服部四郎同年6月NHK用語委員となる。 1963年4月25日吉展ちゃん誘拐事件発生する自宅テレビで犯人身代金要求電話録音聴き何気なく「この発音茨城栃木福島だよ」と呟いたところ、珠江夫人NHK電話しこの発言伝えたため、マスコミから正式に取材を受けることになった春彦は、犯人録音テープ含まれる「青」や「三番目」という言葉アクセント鼻濁音使用等から「奥羽南部」(宮城県・福島県・山形県)または茨城県栃木県出身ではないかという推論新聞発表している。なお、事件捜査において方言面から犯人出身地最終的に特定したのは鬼春人当時東北大学文学部講師)で、1963年10月21日に「犯人郡山市以南南東北北関東出身である」という説を新聞発表、さらに1965年2月刊行した著書吉展ちゃん事件犯人 その科学的推理』(弘文堂)の中で、犯人出身地茨城福島栃木の3県が境界接す地帯とし、実際犯人出身地をほぼ完全に言い当てた上、春彦誤った犯人の人物像実際に近いものだった1964年12月18日、『四座講式研究』が契機となって春彦監修し仏教音楽レコード真言声明』が、文化庁芸術祭レコード部門芸術祭賞を受ける。 1965年6月小松清世話東京藝術大学音楽学部講師となる(〜1971年)。 1966年春、春日由三出版記念会で安西愛子再会し交誼が始まる。のちに、愛子主宰の子こども会後援会長となる。 1968年2月から6月まで、ハワイ大学客員教授として日本語について講じる滞在中、自らの不注意から交通事故起こして罰金刑を受ける。帰国後の12月学園紛争のさなかに「テレビには出るが、大衆団交には一切出なかった」ことを左翼学生たちから糾弾されたことで辞表提出するも、このときは不受理となった1969年3月学生運動活発化にともない多く大学妨害攻勢のため入学試験実施中止する中、東京外国語大学入試遂行すべく奮闘する1970年3月辞表を再提出今度受理され東京外国語大学定年前に退職する1971年4月京都産業大学外国語学部教授就任する京都の街は気に入ったが、京産大学生たちの気風には違和感持ったという。 1972年4月上智大学講師となる(〜1974年3月)。 1974年4月上智大学教授となる(〜1984年3月)。

※この「助教授から教授へ」の解説は、「金田一春彦」の解説の一部です。
「助教授から教授へ」を含む「金田一春彦」の記事については、「金田一春彦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「助教授から教授へ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「助教授から教授へ」の関連用語

助教授から教授へのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



助教授から教授へのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの金田一春彦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS