助教授から教授へ
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1959年3月、時枝誠記が東京大学国語学助教授として春彦より3級下の松村明を採用。東大教授になる夢が潰れ、落胆する。同年4月、東京外国語大学助教授となる。以後、名古屋大学では集中講義のみを担当し、事実上、東京外語大の専任となる。 1961年4月、東京外国語大学教授となる。入試委員として国語の試験問題を作成する。 1962年2月3日、論文『邦楽古曲の旋律による国語アクセント史の研究』により東京大学から文学博士号を授与される。言語学と邦楽学の双方にわたる内容で、明恵上人作詞作曲と伝える声明の一曲「四座講式」を手がかりに、鎌倉時代の日本語のアクセントを論じた。博士論文審査員は服部四郎。同年6月、NHK用語委員となる。 1963年4月25日、吉展ちゃん誘拐事件が発生する。自宅のテレビで犯人の身代金要求電話の録音を聴き、何気なく「この発音は茨城か栃木か福島だよ」と呟いたところ、珠江夫人がNHKに電話しこの発言を伝えたため、マスコミから正式に取材を受けることになった。春彦は、犯人の録音テープに含まれる「青」や「三番目」という言葉のアクセントや鼻濁音の使用等から「奥羽南部」(宮城県・福島県・山形県)または茨城県・栃木県出身ではないかという推論を新聞に発表している。なお、事件捜査において方言面から犯人の出身地を最終的に特定したのは鬼春人(当時東北大学文学部講師)で、1963年10月21日に「犯人は郡山市以南の南東北・北関東出身である」という説を新聞に発表、さらに1965年2月に刊行した著書『吉展ちゃん事件の犯人 その科学的推理』(弘文堂)の中で、犯人の出身地を茨城・福島・栃木の3県が境界を接する地帯とし、実際の犯人の出身地をほぼ完全に言い当てた上、春彦が誤った犯人の人物像も実際に近いものだった。 1964年12月18日、『四座講式の研究』が契機となって、春彦が監修した仏教音楽のレコード『真言声明』が、文化庁芸術祭レコード部門芸術祭賞を受ける。 1965年6月、小松清の世話で東京藝術大学音楽学部講師となる(〜1971年)。 1966年春、春日由三の出版記念会で安西愛子と再会し、交誼が始まる。のちに、愛子主宰の杉の子こども会の後援会長となる。 1968年2月から6月まで、ハワイ大学で客員教授として日本語について講じる。滞在中、自らの不注意から交通事故を起こして罰金刑を受ける。帰国後の12月、学園紛争のさなかに「テレビには出るが、大衆団交には一切出なかった」ことを左翼系学生たちから糾弾されたことで辞表を提出するも、このときは不受理となった。 1969年3月、学生運動の活発化にともない、多くの大学が妨害攻勢のため入学試験の実施を中止する中、東京外国語大学の入試を遂行すべく奮闘する。 1970年3月、辞表を再提出。今度は受理され、東京外国語大学を定年前に退職する。 1971年4月、京都産業大学外国語学部の教授に就任する。京都の街は気に入ったが、京産大の学生たちの気風には違和感を持ったという。 1972年4月、上智大学講師となる(〜1974年3月)。 1974年4月、上智大学教授となる(〜1984年3月)。
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