歴史と沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 13:30 UTC 版)
「博多どんたく」は博多松囃子を母体として形成・発展してきた。 江戸時代の博多松囃子は福岡城へ福岡藩藩主黒田氏を表敬するため正月15日に赴く年賀行事として行われていた。福禄寿・恵比須・大黒天の三福神と稚児が松囃子の本体である。これに博多の各町・各人が趣向を凝らした出で立ちや出し物で続き、これを「通りもん」と呼んだ。三福神・稚児・通りもんの構成が現在のどんたくの原型である。福岡城を出たのち三福神と稚児は城下の武家町・福岡を通って博多へ戻り、神社仏閣や年行司や年寄(町内有力者)の宅を祝った。また通りもんは知人宅や商家にて演芸を披露して祝い、商家などは返礼に酒や肴を振舞った。この様相は明治期も同様であった。 明治維新後、明治5年(グレゴリオ暦1872年)までは福岡知藩事黒田長知や有栖川宮熾仁親王に年始の表敬を行っていた。しかし「金銭を浪費し、かつ文明開化にそぐわない」という理由で明治5年11月に福岡県からの通達により山笠や盆踊りとともに正月の松囃子は禁止され、天長節などを祝うようにとされた。1879年(明治12年)には三福神、稚児、そして福博各町の通りもんが紀元節の2月11日を祝したことが資料に残っている。 明治時代以降の松囃子ないしどんたくは紀元節の祝賀に繰り出したほか、明治20年代からは鎮魂祭(招魂祭)に繰り出し、そのほか日露戦争勝利の祝賀会や大正天皇や昭和天皇の即位など国の祝事に参加した。1915年(大正4年)に招魂祭の開催日が4月30日と5月1日に決まり、松囃子どんたくもそれに倣った。1938年(昭和13年)を最後に戦前の松囃子どんたくは中止となった。 太平洋戦争終結後、1946年(昭和21年)5月に「博多復興祭」として空襲被災後の瓦礫の中、子供山笠とともに松囃子どんたくが行われた。翌1947年(昭和22年)より福岡市・福岡商工会議所・商店街代表・市民有志らによって博多どんたくが5月の24日・25日に開催され、3台の花電車に16か所の仮設舞台と、現在のどんたくの形式はここに誕生した。1949年(昭和24年)からは前年に制定された憲法記念日に合わせて5月3日と翌4日を開催日とし、名称を「松囃子どんたく港祭り」とした。その後しばらく祝日である5月5日のこどもの日を含めた三日間どんたくが行われた年もあったが、旧来から参加していた松囃子や博多券番などは5日には参加せず、祭りの結束が弱まる結果となった。1953年(昭和28年)には博多松囃子の伝統を保持する目的で「博多松はやし保存会」が結成されている。現在、旧福岡藩主・黒田家当主も参加して江戸の昔のどんたくの姿に近づきつつある。 1957年(昭和32年)に「博多どんたく松囃子港祭り振興会」が結成され、祭りの期間が5月3日と4日と定められた。また演芸団体や商店街を勧誘し、優秀どんたく隊への賞の授与がおこなわれることともなった。1961年(昭和36年)には5月2日のどんたく前夜祭が福岡スポーツセンターで開始。1962年(昭和37年)に「福岡市民の祭り振興会」が結成され、どんたくは「博多どんたく港まつり」と名称を改め、市民の祭りとして広く一般市民から参加者を募る方式となり、「博多」にとらわれず福岡市全体の祭りとして定着した。1972年(昭和47年)、福岡市が政令指定都市に指定されてからは国体道路の万行寺 - 天神間を車両通行禁止にして「どんたく広場」とし、山陽新幹線が博多まで延伸した1975年(昭和50年)には更に延伸され、博多駅 - 国体道路 - 天神間となった。これにより市外県外からの見物客が増大することとなったが、一方では国体道路の幅員の狭さによる危険度が問題視されることとなり、1988年(昭和63年)からはどんたく広場は幅員の広い明治通りへ移った。また同時に前夜祭も1987年(昭和62年)に福岡スポーツセンターが解体されたことによって福岡国際センターへ、中央本舞台も同じく県庁跡地に変更された。現在中央本舞台は、お祭り本舞台に名称が変更され、福岡市役所ふれあい広場で開催されている。なお2020年は新型コロナウイルス感染症の感染拡大の影響で初の全面中止。21年も全面中止。2022年は3年ぶりに開催が決定したが、感染対策のため、パレードや演舞台の参加数を減らして実施されたが、2日間の人出は例年の3分の1に当たる80万人止まりとなった。
※この「歴史と沿革」の解説は、「博多どんたく」の解説の一部です。
「歴史と沿革」を含む「博多どんたく」の記事については、「博多どんたく」の概要を参照ください。
歴史と沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 22:58 UTC 版)
「シュティフツケラー・ザンクト・ペーター」の記事における「歴史と沿革」の解説
シュティフツケラー・ザンクト・ペーターの起源は、4世紀から5世紀にかけて修道院で修行する修道士に1日1ヘミナ(約271ミリリットル)のワインを飲むことを許すと定めた「聖セヴェリンの戒律」にまでさかのぼるという。修道院のブドウ畑からつくられたワインの余剰については、当時すでに修道士たちによって販売されていた。803年、カール大帝の宮廷に仕えたアルクィンの記録には「ヨーロッパ最古のレストラン」とある。 中世末期には、「ザルツブルクの僧」と呼ばれる姓名不詳の詩人・作曲家により取り上げられて文学史に登場する。また、記録によれば1510年に増築がなされている。 1720年以降は、貴族や市民、聖職者たちが出入りするようになり、1760年、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟ミヒャエル・ハイドンが滞在し、賛歌「ペーターワイン」を作曲している。教会墓地 (ペータースフリートホフ(ドイツ語版)) 付近にはミヒャエル・ハイドンが居住したことを記した銘板のある建物もある。
※この「歴史と沿革」の解説は、「シュティフツケラー・ザンクト・ペーター」の解説の一部です。
「歴史と沿革」を含む「シュティフツケラー・ザンクト・ペーター」の記事については、「シュティフツケラー・ザンクト・ペーター」の概要を参照ください。
歴史と沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 23:52 UTC 版)
「末日聖徒イエス・キリスト教会」の記事における「歴史と沿革」の解説
設立当初は、その教義の大胆さや政治的思惑により、武力による衝突があった。当時は、社会的に受容しがたい共同体生活と一夫多妻制などの許容に代表されるプロテスタント思想に逆行する教義と習慣に基づいた行動、集団による政治的脅威および、教会による実業活動の破綻に起因した投資家の大損害などが地元住民の反感を招いた。ミズーリ州ではモルモン戦争が勃発した。 ジョセフ・スミス・ジュニアは、あくまで「イエス・キリストの純粋な教え」という主張を繰り返したが、なんらかの損害を被った地元住民らには受容されがたく、暴動罪の容疑で収監されていたイリノイ州カーセージの牢獄にてジョセフ・スミス・ジュニアと兄のハイラム・スミスは共に住民による襲撃によって殺害された。 後を継いだブリガム・ヤングはアメリカ合衆国連邦政府と対立(ユタ戦争など)と譲歩を繰り返しながら、教会の一団を1846年よりイリノイ州より西部に移動させた。1847年に彼らが到達した地域は、1850年にユタ準州として承認された。 ブリガム・ヤングの後を引き継いだ指導者は、連邦政府や他の教派との融和傾向を強めていった。その後、グロバー・クリーブランド大統領政権(民主党)下の1896年にユタ州はアメリカ合衆国45番目の州として承認された。現在、ユタ州は共和党支持層の安定地盤とされている。 かつて存在していた明白な対立は現代ではあまり見られない。しかし今なお、末日聖徒イエス・キリスト教会を脱会した人々の中には、精神的被害を訴えたり、批判活動を展開する人は存在しており、特に批判活動をしている運動家は「反モルモン」と呼ばれる(「末日聖徒イエス・キリスト教会への批判(英語版)」参照)。 末日聖徒の歴史は大きく次の時期に分けることができる。
※この「歴史と沿革」の解説は、「末日聖徒イエス・キリスト教会」の解説の一部です。
「歴史と沿革」を含む「末日聖徒イエス・キリスト教会」の記事については、「末日聖徒イエス・キリスト教会」の概要を参照ください。
歴史と沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 15:41 UTC 版)
太地の沖は鯨の南下と北上の通路にあたる位置にあり、中世の人々はこの沖を「鯨が昼寝をするところだ。」と言うほど、鯨が見られた。
※この「歴史と沿革」の解説は、「太地いさな組合」の解説の一部です。
「歴史と沿革」を含む「太地いさな組合」の記事については、「太地いさな組合」の概要を参照ください。
歴史と沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 20:38 UTC 版)
「学校法人成田山教育財団」の記事における「歴史と沿革」の解説
1887年(明治20年)10月3日 - 成田山山主三池照鳳大僧正により、成田高等学校の前身である修業年限3ヵ年の成田英漢義塾が創立される 1898年10月7日 - 成田山山主石川照勤大僧正は英漢義塾を閉塾し、新たに修業年限5ヵ年の旧制私立成田中学校の設置許可を受ける 1905年4月20日 - 成田幼稚園の設置認可を受ける 1905年6月1日 - 成田幼稚園開園する 1908年2月21日 - 修業年限3ヵ年の私立成田山女学校が創立される 1945年(昭和20年)10月3日 - 成田山女学校を閉校し、修業年限4ヵ年の私立成田高等女学校として設置認可を受ける 1948年3月31日 - 学制改革に伴い、中学校、女学校を統合し、成田山文化事業財団を設置者とし、成田高等学校の設置認可を受ける。同時に中学校を併設する 1949年3月31日 - 併設中学校を閉校する 1951年1月19日 - 私立学校法により、学校法人成田山教育財団の設置認可を受ける 1966年12月23日 - 成田高等学校付属中学校の設置認可を受ける 1967年4月8日 - 成田高等学校付属中学校を開校する。 1973年3月15日 - 小学校、及びはぼたん幼稚園の設置認可を受ける 1973年4月7日 - 成田高等学校付属小学校を開校する。 1998年10月8日 - 成田高等学校創立100周年記念式典を挙行する 2012年(平成24年)3月8日 - 成田高等学校新校舎竣工 2013年7月3日 - 成田高等学校新武道館竣工 2013年10月7日 - 成田高等学校創立115周年記念式典を挙行する 2018年10月5日 - 成田高等学校創立120周年記念式典を挙行する
※この「歴史と沿革」の解説は、「学校法人成田山教育財団」の解説の一部です。
「歴史と沿革」を含む「学校法人成田山教育財団」の記事については、「学校法人成田山教育財団」の概要を参照ください。
- 歴史と沿革のページへのリンク