日本国内における研究・日本人研究者の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:46 UTC 版)
「韓国併合」の記事における「日本国内における研究・日本人研究者の評価」の解説
木村光彦は、統計資料等をもとに実証的な検証を行い、「総合的に見れば、日本は朝鮮を、比較的低コストで巧みに統治したといえよう。巧みに、というのは、治安の維持に成功するとともに経済成長(近代化と言い換えてもよい)を促進したからである。しかし、一九四〇年代に入ると、米国との戦争が状況を一変させた。日本は絶望的な総力戦に突入し、朝鮮を巻き込んだ」として、現代につながる日韓の歴史問題は第二次世界大戦期に主に発生したと総括している。 姜尚中とダニ・オルバフ(ヘブライ大学)は、「同じ大日本帝国の植民地だったのに、台湾は親日的なのに、韓国が反日的なのはなぜか」という対談において、【ダニ・オルバフ】「『植民地』としての朝鮮半島は天皇直属です。同じ『植民地』でも台湾は内閣直属でした」【姜尚中】「そうですね。今、日本人はどうして台湾が親日的なのに韓国が反日的なんだろと考えますよね。でもそれは、台湾統治と朝鮮半島の統治の組織構造の違いを考えると分かります」【ダニ・オルバフ】「当時の大日本帝国憲法のわずかな権利すら民衆に与えず、総督が天皇の代理人として弾圧できたのが朝鮮でした。朝鮮では総督が代々陸海軍大将であったのに比べ、台湾では1919年から1936年まで貴族院議員の政治家が続きました」【姜尚中】「天皇直属となれば、時の政府は口出しはできません。台湾と朝鮮半島でどうしてこのような統治の違いになったのかが不思議なのですが、天皇統治とはある意味、統帥権が不可侵であるのと同じです。最終的に同化政策の時は、君たちは日本の本土にいる人たちと変わらない、ということになります。天皇の愛顧をみんなにあげるというのは大変な恩恵であるという発想です。それを天皇統治では一方的にどんどん進めていくことになり、朝鮮半島の日本に対する評価が変わってくるわけです」と述べている。 台北駐日経済文化代表処代表を務めた羅福全(中国語版)は、平井敏晴(漢陽女子大学校)の取材に対して、「韓国が日本に反発してしまう理由はいろいろありますが、私がまず思うのは、王朝があったからですよ。台湾にはなかったでしょ」「(戦後、台湾に入城した中華民国軍の)大陸から台湾にやって来た人たちの格好を見て、台湾の人たちが愕然としたんですよ。身なりはひどいし、兵器は旧式で、日本のものと比べると雲泥の差がありましたから」「日本の台湾統治は黒字で、朝鮮統治は赤字だったんですよ。日本は成功した台湾をモデルケースにして朝鮮統治に臨んだけど、うまくいかなかった。その結果、日本人は台湾人に対するのと同じように朝鮮人に接することができなかった」と述べており、平井敏晴は、17世紀に清が明を滅ぼすと、長崎出身の鄭成功は清に抵抗する拠点を築くために1662年に台南に入り、その後の台湾は、清に対する抵抗の拠点であり続けたため、台湾からすると、日本に割譲されることは、抵抗を続けてきた清からの開放でもあり、「台湾はもともと清への対抗意識があり、日本統治はある意味、台湾にとって渡りに船でもあった。一方、韓国は王朝を断絶させられたことで、日本への反発が生じやすかった。そのうえ、朝鮮統治は日本にとって経済的にうまくいっていなかった」「朝鮮王朝を潰した日本への反発心が何らかの形で韓国社会に根を張っている」「1897年に朝鮮は国王を皇帝に代え、大韓帝国が成立し、日韓併合の1910年まで存在した。韓国は正式な国名が大韓民国であることからもわかるとおり、大韓帝国と無縁ではない」「現在の韓国には大韓帝国が重ね合わせられ、さらにそこから直接遡れる朝鮮王朝500年の歴史を自ずと回想することになる」「そんな思考体系によって、近代日本と朝鮮王朝は対立関係に置かれてしまう。当時の日本の仕業に反対・反発することは、現在の大韓民国においても正しく称賛されるべき行いであり、そうしなければ罰せられる対象になる。日本で冷淡とも言われる親日派への処遇である」「台湾には王朝がなかったので、そこを統治して開拓を進めた日本は、後に朝鮮で経験するような王政復古のイデオロギーによる軋轢を経験せずにすんだ」と結論付けている。 中兼和津次は、韓国の歴史教科書は「日帝の侵略を糾弾し、条約の廃棄を求める運動が燎原の火のように広がり‥民衆の憤怒と抵抗を結集し、…民族の生存権を死守しようとする救国闘争が力強く展開されていった」「日帝は世界史で類例を見いだせないほど徹底した悪辣な方法で、わが民族を抑圧、収奪した」などと記述しているが、アメリカの研究者は「(韓国は)日本にはほとんど抵抗せず、戦争に協力した人が多数いたという事実は、日本植民地支配に対して全民族的抵抗を行ってきたという神話から、逸脱するものであり、今でも、特に韓国ではこうした歴史の現実を直視しようとする人はほとんどいない(マーク・ピーティー)」、「かつて欧米の植民地だった国で、当時の朝鮮なみの水準に達した国は今なお存在しないのではないか(プリンストン大学教授のコーリ)」と指摘しており、「日本の植民地時代、韓国経済が発展したというのは、ある程度事実。また、三・一事件をのぞくと、韓国人が組織的に日本当局に抵抗したということはなかったということも事実。だから『燎原の火』のように闘争が広がったというのは、どうも違うのではないか」「今書店にならんでいる『反日種族主義』には、『韓国の歴史教科書は全くでたらめ、歴史的事実を無視している』と書いている。よってピーティが『韓国では、歴史の現実を直視しようとする人はほとんどいない』と言っているように、歴史を直視しようとしない人がいるという点については、これを忘れてはならない」と述べている。 松本厚治(在大韓民国日本国大使館参事官)は、「世界の各地で起きた激烈な民族闘争とは、この国(韓国)は終始無縁だった。『無慈悲な弾圧』『激烈な抵抗』を語る既述の背後に透けて見えるのは、韓国近代の、深部における日本との癒着である。史観を支える史実が貧弱なために、レトリックに頼るしかないのである」と指摘しており、これに対して中兼和津次は「要するに、韓国で教える歴史とは、『こうあって欲しい、欲しかった』というある種の期待を込めたストーリーではないのか。これも松本氏の本からの抜粋だが、『教科書問題を解決するには歴史の科学性に傾斜しすぎてはならず、事実にこだわる頑なな態度を捨てなければならい』(尹世哲ソウル大教授)ということまで言っている。日本の歴史家に言わせれば、『よく言うよ』ということになるだろう。韓国精神文化研究院の朴教授は、『愛国心を呼び起こすことのできる歴史だけが本当の歴史なのである』。私にはこのような主張は、とても理解できない」と述べている。 松本厚治(在大韓民国日本国大使館参事官)は、日本は朝鮮を内地の延長とみなし、名実ともに自国に統合することを目標にして統治しており、朝鮮半島を収奪して低い水準にとどめおく政策は、九州を搾取して本州を富ませるのと同様、意味のないことであり、身分制の撤廃、殖産興業、教育の普及、土地調査など経済社会の改革に熱心に取り組んだのは、日本自身の観点からも必要なことであり、「人口は長い間停滞を続け、20世紀初頭には1000万人程度だったと推定されているが、併合後年率2%の増加に転じ、解放直前には2500万人に達した。これは人口爆発とも言えるもので、おもに食糧生産の増大と、衛生の改善による死亡率の低下が、一時に生じた結果である。人口は激増したが、経済規模はそれを上回る速度で拡大した。1910年から1940年まで、一人当たり実質所得は年平均2.4%の割合で増加したが、これは当時の世界では突出した実績と言える。生活水準の持続的向上は、栄養摂取、識字率、死亡率の変化の分析によっても裏づけられている。(中略)工業の発展はめざましく、1910年から1940年までの年平均生産増加率は10%に達した。日本時代晩期には工業生産は農業生産を上回り、しかもその半分を重化学工業が占めるという、モノカルチュア経済の対極ともいえる経済構造が形成されていた。1920年代後半からは、鴨緑江水域で大規模な水力発電所が次々と建設され、豊富な電力を基盤に化学工業を中心とする一大工場群が出現した。同時代の経済学者印貞植(朝鮮語版)は、北鮮は全日本に誇る工業地帯に転化したとし、これを歴史的壮観と形容している。工業化のおもな担い手になったのは日本人だが、彼らは、熟練と勤労精神をたずさえてフランスから欧州各地に散らばったユグノーのような役割を果たした」「世界史的に見て、異民族支配が抑圧を伴わなかった例はまずないだろうし、戦前の朝鮮が例外だったはずもない。しかし日本の支配は、20世紀に出現した全体主義のような、過激なものではなかった。深夜私宅にやってきて拉致していく秘密警察や、強制収容所のようなものがあったわけではない。銃撃戦で死んだ義兵、裁判で死刑を宣告された殺人犯はいるが、独立運動をしたというだけで『消された』人の話は耳にしない。国家の政策としての殺人は、日本帝国が知らないものだった」「資源を略奪したともいえない。一部の鉱物を除けばもともと天然資源はあまりないし、1930年代以降は内地との移出入は工業国間の貿易に近いものとなっていた。労働力の徴用は、徴兵で労働力が不足するようになった戦争末期に行われたもので、それまで日本政府は、内地の高賃金を当て込む朝鮮人の移住に歯止めをかけようとやっきになっていた。当然のことながら、同じ国なのになぜ自由に内地に行けないのかという不満が生じ、総督府もそれには一定の理解を示していた。これが基本的な構図である。徴用は総力戦体制下で内地人をも対象として行われたことで、植民地的略奪の文脈でとりあげるのは適当とはいえない」と指摘している。
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