年寄時代とは? わかりやすく解説

年寄時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 06:18 UTC 版)

玉乃海太三郎」の記事における「年寄時代」の解説

1961年昭和36年1月場所後に引退し年寄片男波襲名内弟子連れて二所ノ関部屋からの分家独立考えていたが、1964年控え理事長選挙票田確保しておきたかった二所ノ関(元大関佐賀ノ花)が許さずとりあえ新弟子のみで部屋興し1962年5月場所前には、内弟子連れて部屋飛び出す実力行使まで行った。すると怒った二所ノ関片男波連れていった関取2名と有望視された幕下力士2名を除く成年達した養成全員分の廃業届を書く。どうにか取り消されたが両者とも減給処分結局その後先代二所ノ関である玉の海呼んで話し合い結果独立許された。独立後は「心力一如」(心と体が合わさり初めて事が成せる)をモットー掲げて弟子育成した。 しかし1971年昭和46年10月11日部屋頭であり、この先益々大成期待されていた愛弟子横綱玉の海が、虫垂炎切除手術受けた入院先の病院で、退院翌日控えて血栓急死するという悲劇見舞われるその後小結玉輝山、同・玉龍関脇玉ノ富士育てた1988年1月停年控え1987年9月6日には相撲生活50年振り返るパーティー開いたが、9月27日心不全のため東京都文京区順天堂医院死去した64歳没。玉の海17回忌法要が行われる予定だったという。

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年寄時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 19:18 UTC 版)

旭國斗雄」の記事における「年寄時代」の解説

現役引退後年寄2代大島襲名1980年1月分家独立して大島部屋開設したその後は第63横綱旭富士筆頭に、関脇旭天鵬小結旭道山・同旭豊・同旭鷲山幕内旭豪山・同旭里・同旭南海・同旭秀鵬十両旭日松友綱部屋移籍後入幕)らを育てた所属力士大半に、自身現役時四股名因んで、「旭」で始まる四股名をつけていた。これは自身及び所属力士全員友綱部屋移籍後述)して以降も同様であり、旭天鵬旭秀鵬はじめとする大島部屋から友綱部屋移籍した力士全員、旧大島部屋在籍時の四股名名乗り続けた1992年当時外国出身力士入門自粛する方向にあったにもかかわらず解雇辞さない覚悟をもってモンゴルから6人の新弟子スカウトした。その内5人(旭天山以外の全員)は厳し稽古慣れない日本文化を苦にして、7月場所後にモンゴル大使館逃げ込み最終的に旭天鵬及び旭鷲山翻意帰参したものの、他の3人(旭・旭雪山・旭獅子)はそのままモンゴル帰国してしまった。部屋に留まった3人はその後旭鷲山モンゴル人初の十両幕内三役力士となり2006年11月場所まで現役続行幕下旭天山2007年11月場所まで、そして旭天鵬2015年9月場所までと、後のモンゴル人力士時代築いたパイオニアとして長く現役続行した部屋稽古厳しく、場所中も何番も相撲を取らせるなどの指導知られた。旭天鵬は後に「他の部屋はやっていないのに何でと思ったでも、それがその後生きた」と語った1998年から2010年まで6期12年の間、日本相撲協会理事務めた。この相撲協会理事選挙10人の改選5つある一門ごとに理事候補調整して無投票決定することが慣例であったところ、2010年2月選挙では貴乃花親方立候補したため4期8年)ぶりに10人の理事11人で争う形になったが、評議員投票の結果8票で落選したその後役員待遇委員であったが、大相撲八百長問題弟子旭南海関与したことを受け、2011年4月1日付で委員降格した

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年寄時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:28 UTC 版)

魁傑將晃」の記事における「年寄時代」の解説

引退後年寄17放駒襲名し1981年1月28日花籠部屋から分家独立花籠部屋から信号一つ西の阿佐谷南放駒部屋創設した(この時移籍した内弟子中に、後に第62横綱となる大ノ国がいた)。その後弟弟子12花籠継承した輪島借金担保年寄名跡あてがうという事件が発覚して廃業すると、一門総帥であった二子山親方横綱初代若乃花)に指名され花籠部屋弟子全員引き取ることになり、放駒部屋小部屋から一気大部屋へと躍進した。育てた関取横綱大乃国以下11人を数え阿佐ヶ谷勢の一角担った師匠としては「弟子には特別なことは要求しない社会人として迷惑をかけないそれだけ頭に入れてほしい」という思い指導した稽古厳しく元三段目の駒響(田中健介)の証言によると、多い日は150番も取らされたという。 大乃国大関昇進披露宴では、引き出物名入り広辞苑配り相撲協会関係者相撲記者驚かせた。引き出物押入れの奥にしまうことが多いので、役に立つものにしたかったという考えからだったという。大乃国は、「叱る時、相撲界は“コラッ!”と一発拳固食らってむようなことが多かったなか、師匠理論的に理詰めで来る。時に心の臓撃ち抜かれるくらいの言葉で……。ちゃんこも喉を通らない状態になったこともありますよ。それは、私が横綱張っていた時でも、変わりませんでした」と引退後述べている。 「クリーン魁傑」と称され現役時代見せた誠実さ年寄になってからも評価され引退後1年審判委員抜擢される。1992年出羽海理事長就任同時に協会常勤役員役員待遇)として事業部副部長広報部副部長など執行部要職十数年に渡り務め相撲界論理でなく、外部の人との温度差をうめ、対等にきちんと話をして渡り合う交渉窓口となった数少ない親方として高く評価された。1996年広報部副部長時代には、NTTによるインターネット事業案件いち早く着眼し試験的な段階で、相撲関連サイト立ち上げさせた。まだ窓口電話での販売形態主だったチケットぴあ」が、ネット販売方法模索していた時に相撲協会その先駆けとしてモデルケースとなった2006年1月場所後に理事昇進し審判部長の要職就いた。 しかし2006年7月場所で優勝次点ながらも4場所連続13勝以上した大関白鵬横綱昇進と、3場所通算34勝した雅山大関再昇進について見送る旨の発言をし、好角家から大きな反発招いた白鵬直前3場所の成績13勝の優勝同点14勝の優勝13勝の優勝1点差)は放駒親方弟子大乃国横綱昇進時の成績15全勝優勝12勝の優勝1点差+13勝の優勝1点差)を上回り雅山直前3場所の成績3411敗)は魁傑自らの大関昇進時の成績優勝1回を含む3015敗)を上回るものであり、その整合性のなさが指摘された。しかし横綱昇進に関しては、形式上番付編成会議及び臨時理事会討議されるものの横綱審議委員会事実上昇進決定下す機関となり、また横審委員会当時原則的に大関で2場所連続優勝に『準ずる成績』」というものを採用しなかった。また大関昇進に関しては、その時期における大関人数昇進向けて機運などにも左右されているが、雅山の時は既に大関が5人いる上優勝がないという状況であった審判部長時代には三賞選考1つの賞に複数人推挙授与があり、最も適格力士単独受賞が望ましいのではと提案した2010年8月12日大相撲野球賭博問題などの責任取って辞任した武蔵川晃偉理事長の後を受け、第11日本相撲協会理事長就任現役時代クリーン大関と言われ高潔さと、長年執行部発揮した事務処理能力の高さを認められことによる理事長就任だった。理事長就任以降公益法人移行巡って議論本格化してゆき、自身各自年寄名跡協会2000万円買い取る一括管理案、高議機関である理事会半数外部占め私案などを提唱した外部役員外部有識者の意見尊重しすぎたという評があり、大多数年寄衆理解を示さなかった。年寄名跡を巡る改革に関して中島隆信後年「“年寄株を巡るこれまでのやり方手を付けることは無理です。権限もないし、力もない”と話していた」と証言した2011年2月八百長問題発覚3月大阪場所開催中止、続く5月場所は、入場無料NHKによる中継もない、前代未聞の「技量審査場所」を決断相撲協会最大危機の中、諸問題の処理にあたった糖尿病による義眼で山のような書類格闘し降りかかる難題連続体力消耗しながら、粘り強い対話改革レール敷いた文部科学省協会としての対応を報告するため出向いた時、区切りがついたら責任取って辞任する意向示したところ、文科省官僚から「あなたの首は要りません。」と引き止め、「八百長一切しなかったガチンコ大関魁傑八百長問題理に取り組む運命の皮肉」と報道された。 2012年1月場所後に退任し相談役就任2013年1月場所が協会員として最後本場所となったが、停年定年。以下同)を迎えるに当たって記者会見NHKテレビ中継解説中入時間取組合間自身足跡振り返る)は一切断わり自分辞めさせた力士親方申し訳ないと、理事長経験者定年後天下り先に定着している相撲博物館館長の席も元武蔵川理事長譲りNHKから提示され特別解説者の依頼まで固辞相撲界からは完全に引退する決断最終的に選択した。 「最悪時代乗り切った最大功労者であると同時に最大犠牲者と言われ理事長在職1年5か月最短だが、「存亡の危機大相撲救った希代の名理事長」と評価された。同年2月7日放駒部屋閉鎖して所属力士らは弟子大乃国創設した芝田山部屋移籍させ、自身2月15日定年退職した。 2014年5月18日午後2時10分頃、東京都西東京市ゴルフ練習場倒れ同日午後3時21分に搬送先の小平市病院死去66歳没。死因虚血性心疾患で、30年前より糖尿病罹っていた。愛弟子であった芝田山(元大乃国)は死去知らせ受けて「全く体調が悪いところはなかったのに。気持ち整理つかない」と話し、さらに「ゴルフ(の練習)に行っていたのだから、俺より健康だったと思う」とも明かした没後に『浄篤院輝山魁傑居士』の戒名付けられた。 2014年5月23日通夜5月24日本葬告別式)が宝仙寺東京都中野区)にてそれぞれ営まれた。

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