アジェンデ大統領の任期中
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「チリ・クーデター」の記事における「アジェンデ大統領の任期中」の解説
米国政府はさっそくアジェンデ打倒の作戦に着手した。まず手始めに行ったのが対チリ金融封鎖だった。チリの経済を混乱させ、社会不安を煽り、それによってチリ軍部が反政府で蜂起する口実を作るのが目的だった。米国政府の直接の支配下にある米国輸出入銀行と米国国際開発庁は即座に対チリ融資を停止した。米国が牛耳る国際金融機関である世界銀行と米州開発銀行に対しても、対チリ融資を停止させた。またニクソン大統領はヨーロッパ諸国に対しても、対チリ融資を控えるよう圧力をかけた。当時のチリは、前政権から引き継いだ債務が10億ドルにのぼり、また、チリの産業も伝統的に米国からの融資に依存していたため、この金融封鎖がチリ経済に与えた打撃は大きかった。しかし、ヨーロッパ、日本などとの貿易は問題なく行われた、ただ、ヨーロッパ企業の国有化が続き、各国政府の大使から抗議を受けることになる。 金融封鎖と並行して、米国政府はチリ軍部に対しては法外な支援を提供した。資金面での支援だけでなく、技術面での支援も惜しげ無く提供し、軍事顧問団も派遣した。1971年の段階では、チリ軍部内の反アジェンデ派はごく少数だった。 こうした外国からの妨害がありながらも、政権交代後しばらくは経済も好調であった。そのため、1971年4月の統一地方選挙ではアジェンデ与党人民連合の得票率は50%を超え、大統領当選時より大幅に(14.2%増)支持を伸ばした。しかし議席数ではキリスト教民主党、国民党の右翼連合に勝てず、アジェンデが提出した議案はことごとく国会で否決、それに対してアジェンデは拒否権の乱発と、チリの政治は混迷していった。アジェンデ政権成立の時には、中道左派のキリスト教民主党と右派の国民党は対立していたが、1971年のバルパライソ補欠選挙の時から、キリスト教民主党と国民党は共同歩調を取ることになる。キリスト教民主党の中には、右翼の国民党と連立を組むことを嫌い、人民連合側に鞍替えするものも現れた。結果として、キリスト教民主党、国民党の結束は強まり、その後の補欠選挙では接戦になった。この時も人民連合は上院下院とも過半数を得ることができず、政治混乱が継続した。CIAが右翼勢力に対する公然非公然の支援を強めるようになったり、政情が不安定化した。 とりわけ効力を発揮したのが、CIAの資金援助もあったデモ(物資不足、行列を作らないとスーパーで買物もできない。ガソリンも1回20リットルまでの厳しい配給制、牛肉の販売を金曜土曜のみとする制限強化による、婦人を中心とした「鍋たたき運動」)(1971年12月「からなべデモ」)と、CIAがトラック所有者組合に報酬(支援が行われたのは公然の秘密だが、報酬の支払いに関しては議論が分かれている)を支払って敢行させた長期ストライキ(1972年10月と1973年7月)だった。前者は、物不足を不満とする中間層の婦人連が自発的に行った、チリの「すべての」婦人がアジェンデに反対しているような印象を与えることを狙ったものだった。チリの運輸当局がトラック事業を国有化することに対して、全国約4万の零細トラック事業者が生活圏侵害として、ストライキを決行し、チリ経済に大きな打撃を与えた。 それに先立つ1971年7月、チリ国会は銅山国有化の憲法修正案を全会一致で採択した。この憲法修正は「公正なる補償」を原則としており、接収対象の銅会社(当時チリの銅山を支配していた米国のケネコット社およびアナコンダ社)に対する補償額(資産価値)から過去の超過利潤額を差し引くことを可能としていた。そのため、結果的に補償額よりも控除額の方が大きくなり、ケネコット社およびアナコンダ社に対する補償額はゼロではなく、7億5千万ドルの請求を行った、無償接収どころか、更に7億5千万ドルの請求を行い、アメリカの態度を硬化させた。チリの会計検査院もこの措置を支持し、補償は不要との決定を下した。 しかし米国のニクソン大統領はチリにおける接収の前例がラテンアメリカの他の国々に波及することを恐れ、以前にも増して対チリ金融封鎖を強化した。このニクソン政権による対チリ金融封鎖政策は米国内でも議論の的となり、とりわけ金融封鎖に批判的だったエドワード・ケネディ上院議員は次のように主張した。「社会正義と政治的自由を積極的に追求している国には、我が国からどんどん二国間援助を提供すべきです」と。 ニクソン政権による対チリ報復措置は金融封鎖だけにとどまらず、国営化されたチリの銅産業を妨害するまでになった。まずは米国内のチリ政府の口座を凍結させた。これによりチリは米国に銅を販売することができなくなった。さらに米国政府はケネコット社と共謀し、ヨーロッパに輸出されるはずのチリの銅を差し押さえるようヨーロッパ諸国の司法当局に要請した。それだけでなく米国政府は、銅の生産に用いられる機械類の部品をチリに供給しないよう圧力をかけることによって銅の生産そのものを妨害する作戦に出た。さらには、米国内に保有していた銅備蓄を放出することによって銅の国際価値を低下させるという工作も行った。こうして、輸出収入の80%を銅に依存していたチリは大きな打撃を被った。ただ、日本やヨーロッパとの貿易は問題なく行われていた。 こうした事態に直面したアジェンデは、銅の接収の問題を国際仲裁によって解決することを提案した。ところがニクソン政権は、1914年の二国間条約を持ち出すことによってアジェンデの提案を拒否した。その条約には「一方もしくは両方の国の自主、名誉あるいは重要な利益を害するおそれのある問題(中略)は、どのような仲裁も受けない」と記されているから、というのがその理由だった。 政権交代後にアジェンデが進めた性急な国有化政策や社会保障の拡大などの社会主義的な経済改革は、自由経済であるもののその規模が大きいわけではない当時のチリ経済の現状にそぐわないものであり、それが結果的にインフレと物不足を引き起こした、とする説は過去には聞かれた。とはいえ、アジェンデ政権が成立した当時のチリでは人口の30%が栄養不良の状態に放置され、医療も受けられない状態ではあった。また、銅山の国有化はチリ国会では否決された。しかし政権側、アジェンデはとりわけ急進左派連合の調整に手間取り、無償接収の上に7億5千万ドルの要求も行った。アジェンデ与党が穏健な共産党、急進な社会党、急進な人民統一行動党と複雑であったこと。また、これらの政党が上院下院とも少数与党であった。一方、野党のキリスト教民主党、国民党は、過半数を占めていたものの、3分の2の議席をもっておらず、大統領の弾劾決議はできなかった。アジェンデは、自らの与党の調整に手間取り、本人が大統領の政治基盤を高めるための、国民投票を行うことを、与党内で提案しているが、急進左派である、人民統一行動党の反対によって行うことができず、アジェンデの政権運営は不安定なものになった。さらに、国営化の範囲も社会保障の内容も1970年選挙の人民連合の綱領に明確に謳われており、チリ国民の信を得ていた。アジェンデ政権時代、政権与党は上下両院とも過半数は得ることは全くなかった。常に少数与党で政権運営が不安定であった。フレイ政権時代、農林大臣が急進的すぎる、と、フレイが罷免したチョンチョルを農林大臣に任命し、極端な国営農場化を行い、小麦生産を3分の一まで減らした、また、トラック所有者組合は、自主的な運営である4万を超える零細業者の集合体で有ったが、それを画一的な輸送公団にしようとして、トラック所有者組合の強烈な反発を受けた。米国による金融封鎖および銅産業に対する妨害に起因する外貨不足にあったとする説が現在では圧倒的に優勢である。この時、アジェンデは、金融封鎖に対抗し、西ヨーロッパ諸国や日本などへ、自動車組み立て工場の誘致などを行っている。更にソ連を訪問し資金援助を乞うたが、ソ連の資金援助は微々たるものであった。からなべデモやトラック所有者ストも含め、米国のリチャード・ニクソン政権が資金供給は行ったが、中間層の反発が主たる原因である。こうして、与党内調整に手間取りアジェンデ政権末期には600%の、チリ歴史史上最大のインフレを経験することになった。 しかしそれにもかかわらず、アジェンデ政権に対する国民の支持は過半数は得られないものの低下していなかった。1973年3月の総選挙では、人民連合は43%の得票でさきの統一地方選よりは減ったが、依然として大統領選を上回る得票(7%増)で議席を増加させた(10議席増)。政権の座について2年以上を経過してから現職勢力が獲得した票の伸び率としては「前代未聞」(ただし、当選時の支持率はあくまで36%と歴史的に見て低い数字である)と言われた。ただし、あくまで上下両院では、与党連合は過半数を得ておらず、少数与党のままであった。少数与党、特に社会党、人民統一行動党はプロレタリアート独裁を目指し、東欧から多くの武器を調達し、政権末期には、カラビネーロ(国家警察)が武器摘発に躍起になっていた。この選挙をきっかけに、CIA職員は1973年4月、次のように論じた。「我々の理解しているところでは、今後6か月から1年の間に軍事クーデターを引き起こすことを狙った政策では、政治的緊張を高めることと、経済的な苦難をより深刻なものにすることに努めるべきです。特に、国民の絶望という感覚が軍を動かすためにも、下層階級の間での経済的苦難が必要です。政治的野党、特にキリスト教民主党が計画している大衆運動に対する資金援助は、この絶望という感覚を打ち消してしまい、経済を救う結果につながる可能性があります」。 とはいえ、対チリ秘密工作を統括していた国家安全保障問題担当大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーは野党に対する資金援助も続けた。とりわけ、チリの最大野党であったキリスト教民主党の右派(フレイ派)には莫大な資金を投入していた(党の指導部に資金を渡したのではなく、右派の個々のメンバーに直接渡した)。その結果、1970年の大統領選挙当時は左派が支配権を掌握していた同党は右派が支配するようになり(数の上では左派の方が多数派だった)、アジェンデとの協力を拒否して軍事クーデターを支持するようになった。同党右派は、クーデター後に軍は自分たちに権力を譲るものと信じていたからだ。そしてキリスト教民主党は1973年8月22日、アジェンデ政権を違憲とする決議案を下院で可決させた。これによりチリ軍部はクーデターの正当性を得ることになった。 1973年6月29日には軍の一部が首都サンティアゴの大統領官邸を襲撃するが失敗した(戦車クーデター(スペイン語版、英語版))。これは、軍人の釈放問題であり、直接の軍事クーデターではない。1973年8月8日、海軍内で水兵階層に浸透した左派過激派による武装蜂起未遂事件が発生、100人以上の逮捕者が出た。海軍は社会党書記長アルタミラーノの議員資格停止要求をし、最高裁判所に申し立て、その判決は9月11に出されることになった。この海軍内の左派武装蜂起に関連して、同日、バルパライソで左派武装派と海軍が衝突をする。社会党所属であるアジェンデに対して、彼が既に党内調整力すら失ったことから、海軍と、アジェンデ政権の対立が深刻化した。2度めのトラック所有者スト解決のため、アジェンデは8月9日に内閣改造を行い、空軍司令官セザール・ルイスを運輸大臣に任命した。空軍司令官兼運輸大臣となったセザールルイスはスト調停を図ったが、トラック所有者組合と国(少数与党人民連合との主張)の双方の隔たりが大きすぎると運輸大臣の職責のみを辞任した。その辞任に対して、アジェンデは辞任の意思もないセザール・ルイスの空軍司令官としての地位も解任した。これによって、空軍と政権の間には決定的な亀裂が発生した。アジェンデは、「軍は政治的中立を守るべし」という信念の持ち主であったが、トラック所有者組合ストを人民連合側有利に調停したカルロス・プラッツ(英語版、スペイン語版)陸軍総司令官(その後国防相も兼任していた)が軍内部の反アジェンデ派に抗し切れなくなり辞任に追い込まれた。プラッツの後任の陸軍総司令官がアウグスト・ピノチェトであった(8月24日就任)。ピノチェトはプラッツの推薦により陸軍総司令官に選任された。この段階では、アジェンデもプラッツもピノチェトを信頼していた。 この時期にいたっても、チリ国民の間におけるアジェンデ人気は半数以下ではあるが衰えていなかった。9月4日の人民連合3周年記念集会には約100万人のチリ労働者階級(労働者向け物資配給価格調整委員会JAP、から配給が受けられる階層が中心だったと言われている)国民が集結し、アジェンデ支持のデモ行進を行った。それは、チリ史上最多の参加者を集めたデモだった。翌9月5日には、アジェンデ辞任要求デモに約15万人参加した(JAPの配給を受けられなかった人たちが中心であったと言われている)。クーデターを起こせば抵抗活動が起きると考え、徹底した弾圧が必要との認識を再確認した。 クーデターの足音が迫る中、アジェンデは最後の手段に訴えようとした。国民投票を実施して自身の政権の信任を問うことを考えた(と言われているが、後述の様に結果として拒否している)。 9月7日国民投票による事態打開を求める海軍第一管区司令長官ホセ・トリビオ・メリノ大将によるアジェンデに対する6時間の説得にも関わらず、社会党強硬派の反対もあり、国民投票の申し入れは物別れに終わった。少なくとも9月7日の時点での、6時間に渡る国民投票の申し出をアジェンデは拒否している。 彼は9月9日の昼、「近く国民投票の実施を発表する」とピノチェトに告げた(この時点でもアジェンデはピノチェトを信頼していた)。それを聞いたピノチェトは同日中に他のクーデター首謀者らと会談し、クーデター決行の予定日を当初の14日から11日に早めた。 そして10日、アジェンデは共産党との間で国民投票合意を取り付け、キリスト教民主党とも国民投票の話し合いのテーブルに付くことに合意した。ただし、社会党とは、国民投票に関して何もできなかった。出身与党の社会党の合意が無い空手形であるが11日に国民投票実施を発表すると決定した。ところが11日の早朝、クーデターが勃発した。
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