榎本健一
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エピソード
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- 敗戦直前に撮影された、「勧進帳」のパロディ映画「虎の尾を踏む男達」(監督・黒澤明)に出演。ラストシーンの跳び六法は、1934年に二代目市川左團次の紹介で川尻清潭から教えてもらったものであった[5]。
- 映画ロケ先の妙義山麓で菊谷栄の戦没を聞かされ、号泣したが、帰京の列車内でもウイスキーを飲みながら泣き続けていた[6]。
- 主演映画作品の一つ、『エノケンの孫悟空』(東宝)は日本特撮の雄である円谷英二が製作に携わっている。
- 人気絶頂期、「エノケソ」、「土ノケン」などと名乗る偽物が全国各地を廻り活躍した[7][8][9][10]。
- 作家小林信彦は榎本の大きな特徴として、喜劇俳優がシリアスな俳優に抱きがちな劣等感とまったく無縁であったことを挙げ、当時本格演劇の主流であった新劇に対しても「若い人向けにああいうものもあっていい、ぐらいに考えていたふしがある」と、むしろ優越感ともいうべき喜劇の誇りを持っていたことを示唆している(「日本の喜劇人」)。
- 晩年の不幸の連続で、1000万円近い借金を背負い込み、喜劇人でありながら"悲劇の人"と言われた[11]。それでも困苦と闘い続ける健気さが見る者の心を打った[11]。400万円の税金が払えず、銀行からやっとこそさ借りて収めたという話が、当時の池田勇人首相の耳に入り[11]、ショックを受けた池田が同情し、自ら発起人代表になって、政界、財界、芸能界へ支援を呼びかけ[11]、1964年10月29日に東京丸の内の東京會舘で「榎本健一君を激励する会」が開かれ、河上丈太郎(社会党)や西尾末広(民主社会党)らも出席し、珍しく政党の枠を超えた呉越同舟の支援が行われた[11]。各方面からの寄付は500万円以上集まったとされる[11]。
- 最晩年、自殺を決断した際、ガス管をひねって「サヨナラ」と言ったが、余りにもその声が大きかったため家人が気付いて、この一件は未遂に終わり一命を取り留めたことがある。二度目は縊死を図ろうと電気コードに首をくくる際転倒し、これまた未遂に終わっている[12]。
- 2004年に、生誕100年記念として歌唱曲を収録したCDが発売された。
- 晩年、小林信彦や坂本九を相手に往年の芸について長時間説明したが、あまりに古臭く皆を辟易させた。榎本は坂本には一目置いており、自身の芸を譲ってもよいと発言している[13]。また榎本と坂本九の墓所は同じ寺にあり、互いの墓が見えるくらい近所にある。
- ^ 井崎博之「エノケンと呼ばれた男」[要ページ番号]
- ^ 泣き笑いの人生に幕 榎本健一さん死ぬ『朝日新聞』1970年(昭和45年)1月7日夕刊 3版 9面
- ^ “万人魅了したエノケン、今も影響 笑いと音楽、ダンスを融合”. 産経ニュース (2022年2月6日). 2022年2月6日閲覧。
- ^ 三菱ふそう全国縦断・榎さんのおはようさん〜!、1985年放送より[出典無効]
- ^ 井崎博之「エノケンと呼ばれた男」講談社文庫155頁
- ^ 矢野誠一「エノケン・ロッパの時代」岩波新書72頁
- ^ 『文學界』1988年、第1〜3号、p.255
- ^ 榎本よしゑ『浮世あまから峠道』p.142
- ^ 榎本健一『エノケンの泣き笑い人生: 喜劇こそわが命』p.153
- ^ エノケソ一代記 - シス・カンパニー(2016年12月公演)2017年10月23日閲覧
- ^ a b c d e f 「政界も呉越同舟 エノケンを激励する会」『週刊読売』1964年10月25日号、読売新聞社、35–36頁。
- ^ 小林信彦「日本の喜劇人」31頁
- ^ 小林「日本の喜劇人」32-34頁
- ^ a b 東宝特撮映画全史 1983, p. 536, 「主要特撮作品配役リスト」
- ^ お父さんの季節 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
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