鉄道の衰退
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「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「鉄道の衰退」の解説
都市間旅客輸送シェアの推移(単位パーセント)交通機関1930年1940年1946年1952年1956年1959年鉄道12.9 7.4 18.7 6.0 4.1 3.0 バス不明 不明 7.6 5.0 3.6 2.7 航空不明 不明 1.7 2.6 3.6 3.9 内陸水路0.8 0.4 0.6 0.2 0.3 0.3 自家用車86.3 91.8 71.4 86.2 88.4 90.1 都市間貨物輸送シェアの推移(単位パーセント)交通機関1930年1940年1946年1952年1956年1959年鉄道74.3 61.3 66.6 54.5 48.2 45.0 トラック3.9 10.0 9.1 17.0 18.7 22.3 パイプライン5.3 9.6 10.6 13.8 16.9 17.5 内陸水路16.5 19.1 13.7 14.7 16.2 15.2 第二次世界大戦前に既に航空機や自動車との競争に直面していた鉄道は、大戦に伴う輸送需要そのものの増大や軍需優先およびガソリンの配給制限により一旦は息を吹き返した。鉄道会社はこの状況が続くことを期待していたが、しかし工業生産が民需に戻りガソリンの配給制限が解除されると、すぐに競争が再開され、やがて輸送需要は他の交通手段へと転移していった。 1950年代には州間高速道路の建設が開始された。この高速道路網は緩い勾配や大きな曲線半径で高速を出せるようになっており、出入りもすべて立体交差となるなど高い規格で建設されていた。この道路を走る高速バスは、1960年代になるとエアコンを装備するようになり、一部にはトイレを装備するものもあり、都市間を安価に移動する手段としての地位を確立していった。さらにバス以上に鉄道から都市間旅客を奪ったのは航空機であった。大戦後、ロッキード コンステレーションやダグラス DC-7など新しく大きな航空機が就航するにつれて、それまで急用のときに限られていた航空機の利用は一般的なものとなっていった。1950年代終わりごろにジェット機が就航するとこの傾向はさらに進んだ。1957年には航空機の旅客輸送量が鉄道を上回った。1958年時点で鉄道の旅客輸送シェアは約30パーセントであったのに対して航空機が約40パーセントとなった。しかしこれは公共交通機関内でのシェアであり、もっとも多くの都市間旅客を運ぶようになったのは自家用車であった。自家用車を含めると鉄道のシェアはわずか0.3パーセントになっていた。1960年代末には鉄道の旅客輸送は「乗客より乗務員が多い」とされるレベルにまで落ち込んでしまった。その上鉄道は、自己負担で線路を整備した上に多額の税金を納めなければならなかったが、1968年時点で道路・水路・航空は政府から約190億ドルに及ぶ補助金を受け取っているという状況であった。実際のところ、鉄道が払った税金のほとんどは高速道路建設に使われている状態であった。 大都市の通勤鉄道でも大きな問題が起きていた。都市間列車の空席に郊外からの旅客を乗せているだけであると考えられていた通勤鉄道では、規制と競争によってきわめて低い運賃に留められており、もともと収益性が非常に悪く、利益を上げていた貨物部門からの内部補助に頼っていた。ところが貨物輸送の利益が減少すると内部補助は困難となっていった。さらに政府や自治体により積極的な道路建設の投資が続けられたこともあり、都心部の悪化した環境を逃れて郊外に移転する人が増えてスプロール現象が進行し、これが道路への依存をさらに強めていった。一方で過度な自動車依存は深刻な渋滞をもたらし、ラッシュ時の輸送では鉄道に頼るのにオフピーク時には自動車を利用するといったことが見られ、鉄道はピーク時の輸送力を用意しなければならないのに日中の大半の時間は過剰能力となってしまうという大きな問題を抱えることになった。1958年運輸法(英語版)で旅客輸送を廃止する手続きが簡素化されると、旅客列車の運行削減や全面廃止が相次いで、1960年代初頭には鉄道旅客輸送を失った大都市圏での通勤輸送手段の喪失が大きな社会問題となった。 鉄道の内部でも大きな変化があった。大戦後は石炭の価格が上昇したこともあり、蒸気機関車をディーゼル機関車に置き換える動きが急速に進んだ。蒸気機関車メーカーへの最後の発注は1949年のことで、炭鉱地帯を走ることから安価な石炭を確保できて最後まで蒸気機関車にこだわったノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道でもロアノーク工場での自社製造を1953年に打ち切った。ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道が、アメリカの大鉄道会社として最後の蒸気機関車の運行を行ったのが1960年5月7日であった。ディーゼル機関車は蒸気機関車ほど保守作業に手がかからなかったため保守要員は大きく削減され、鉄道工場に経済を依存していたアルトゥーナのような都市に大きな影響を与えた。 一方、乗務員の削減は簡単には進まなかった。蒸気機関車では機関士の他に、石炭を焚くために機関助士が乗務する必要があった。しかしディーゼル機関車では機関士1人で運転できるので、機関助士は必要ではなかった。それでも機関助士が乗務する慣習は続いた。第一次世界大戦のときの協定により、1日の乗務マイルは旅客で100マイル (160 km) 、貨物で150マイル (240 km) に制限されていたが、ディーゼル化によりこれはほんの数時間で走れる距離となり、結果として機関助士は1日3 - 4時間何もせずに運転席に座っているだけで1日分の給料がもらえることになった。会社側は機関助士を廃止しようとしたが、組合はこれに抵抗した。最終的に政治的な解決が図られ、1963年8月にジョン・F・ケネディ大統領が出した仲裁策により、機関助士の乗務は1964年春から廃止されることになった。ただし人員の削減は自然減によることになった。 機関車メーカーにも変動が発生した。蒸気機関車の時代に大手メーカーであったのはボールドウィン・ロコモティブ・ワークスとアメリカン・ロコモティブであった。しかしこの両社はディーゼル化の波についていくことができなかった。アメリカン・ロコモティブは一時期、ゼネラル・エレクトリックから部品の提供を受けてディーゼル機関車のメーカーとして台頭したが、ゼネラル・エレクトリックが自社での機関車製造に移行して部品供給を打ち切ったため、カナダにおける子会社モントリオール・ロコモティブ・ワークスによるものを除いて早期に機関車事業から撤退した。ボールドウィン・ロコモティブ・ワークスは、蒸気機関車と同様に鉄道会社固有の設計に応じたディーゼル機関車の生産をする事業を展開しようとしたが、これは時流に合わず、1956年にやはり機関車事業から撤退した。これに代わって台頭したのが、第二次世界大戦前からディーゼル機関車をてがけていたゼネラル・エレクトリック (GE) とエレクトロ・モーティブ・ディビジョン (EMD) であった。EMDのGP7形はその大馬力化形式であるGP9形と合わせて6,000両以上が生産された大ベストセラーとなった。 寝台車営業をしていたプルマンにも変化があった。司法省は1941年に反トラスト法でプルマンを提訴し、1944年に下された判決により、プルマンの事業は寝台車営業事業をするプルマン・カンパニーと鉄道車両製造事業をするプルマン=スタンダード・カー・マニュファクチャリング・カンパニーに分割されることになった。3年に及ぶ交渉の末、寝台車営業事業部門のプルマン・カンパニーは57の鉄道会社で構成されるコンソーシアムに約4000万ドルで売却された。しかし寝台車の営業は衰退していき、1969年1月1日付けでプルマンの寝台車営業事業は廃止され、鉄道会社が自社で寝台車を運営するようになった。1950年代にはまだ、ニューヨークに住む人が預かっていた親戚の子供をロサンゼルスの両親の元へ送り返す際に、子供だけで安心して列車に乗せることができた。単にニューヨークの駅へ連れて行って、プルマンのポーターに頼みさえすれば、当時4日かかった大陸横断の旅もすべて面倒を見てくれたのである。しかし1970年代にもなるともはや、誰も子供だけで列車に乗せようとは思わない状況になってしまった。 貨物輸送は旅客輸送よりはましな状況であったが、アメリカ全体の貨物輸送量は伸びていたのに、1956年以降鉄道の貨物輸送量は減少に転じ、運賃値上げを繰り返しても純利益が減少していくようになった。1962年当時、鉄道貨物輸送量はアメリカの全貨物輸送量の37パーセントになっていた。貨物輸送トンマイルあたりの収入では鉄道の方がトラックより少なかったので、貨物輸送の収入で見れば、既に鉄道は少数勢力になっていた。耐え切れなくなった鉄道会社は、保守作業の間隔を延伸することで手っ取り早く経費の削減を図り始めた。鉄道の投下資本利益率は3パーセントを下回ってアメリカの全産業中最低となり、設備の最低限の更新に必要な資金の調達にさえ困るようになり、貨車の老朽化が進んで、これがサービスの低下と保守費の増加につながる悪循環となっていた。 こうした問題の解決策として、鉄道会社の合併が進められた。互いに競合する路線を抱えている会社同士が合併すれば、重複した路線の一方を廃止することで経費削減を行い、残された路線に輸送量を集めることができたからである。1940年運輸法の規定で、鉄道会社は州際通商委員会に対して、競争よりも合併する方が地域にとっても利益が大きいことを訴えて合併を求めることができるようになったことも後押しした。こうしてより大きく効率的な経営を目指して次々に合併が進められていき、1957年時点で635あったアメリカの鉄道会社は、1968年には375にまで減少した。1970年3月2日には、ジェームズ・ジェローム・ヒルが構想しながら長く実現していなかった、シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道、グレート・ノーザン鉄道、ノーザン・パシフィック鉄道、スポケーン・ポートランド・アンド・シアトル鉄道の合併も行われ、バーリントン・ノーザン鉄道となった。またアトランティック・コースト・ライン鉄道とシーボード・エア・ライン鉄道も1967年に合併してシーボード・コースト・ライン鉄道となった。チェサピーク・アンド・オハイオ鉄道はボルチモア・アンド・オハイオ鉄道を1963年に買収したが、会社としては別組織を保ち、1973年に設立されたチェシー・システムという共通の親会社の傘下に入った。その後、シーボード・コースト・ライン鉄道の親会社とチェシー・システムが合併してCSXコーポレーションとなり、最終的に1987年にCSXコーポレーション傘下の鉄道会社が合併してCSXトランスポーテーションとなった。ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道とサザン鉄道も共通の親会社ノーフォーク・サザン鉄道の傘下に1982年に入り、鉄道会社同士も1990年に合併した。 政府の組織では、1966年の法律により運輸省が発足して、その部局である連邦鉄道局が鉄道を管轄するようになった。また1967年には国家運輸安全委員会が発足して、鉄道事故の調査を行うようになった。 輸送技術の進歩はこの時期であっても進められた。それまで膨大な書類作業によって管理されていた鉄道業務は、コンピュータの導入によって大幅に簡略化された。1930年代にペンシルバニア鉄道で導入が始まった誘導式電話装置は、1960年代になるとトランジスタの技術によってより簡素な装置にできるようになり、こんにちの列車無線の装備に置き換えられるようになった。1970年代になると貨車に13本の帯で構成される識別記号が貼られて、自動車両識別装置 (Automatic Car Identification System) で読み取って管理が行われるようになった。ベイリー操車場のような新しく巨大な操車場が建設されて、貨車の自動仕訳や検修作業の近代化が行われるようになった。この頃、ティムケン(英語版)製の新しい転がり軸受が貨車に採用されるようになり、軸受の問題に起因する脱線や軸焼けの発生回数が大幅に減少した。また、ピギーバック輸送も1954年にペンシルバニア鉄道で初めて大規模な実施が始まり、急速に広まっていった。これより遅れて鉄道コンテナの輸送も急速に増加し、これは船との連絡を容易にして、アジアやヨーロッパとの輸出入貨物の大量輸送に使用されるようになった。キャリアカーと激しい競争になっていた新車自動車の出荷業務に対しては、新しい車運車が開発されて輸送が効率化され、鉄道が大きなシェアを占めるようになっていった。またホッパ車やタンク車などで同一の形式の車両ばかりをつないで、専用の荷役設備で効率的な荷役を行い大量高速輸送を実現したユニットトレイン(英語版)も普及した。
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