鉄道の衰退とは? わかりやすく解説

鉄道の衰退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:29 UTC 版)

アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「鉄道の衰退」の解説

都市間旅客輸送シェアの推移単位パーセント交通機関1930年1940年1946年1952年1956年1959年鉄道12.9 7.4 18.7 6.0 4.1 3.0 バス不明 不明 7.6 5.0 3.6 2.7 航空不明 不明 1.7 2.6 3.6 3.9 内陸水路0.8 0.4 0.6 0.2 0.3 0.3 自家用車86.3 91.8 71.4 86.2 88.4 90.1 都市貨物輸送シェアの推移単位パーセント交通機関1930年1940年1946年1952年1956年1959年鉄道74.3 61.3 66.6 54.5 48.2 45.0 トラック3.9 10.0 9.1 17.0 18.7 22.3 パイプライン5.3 9.6 10.6 13.8 16.9 17.5 内陸水路16.5 19.1 13.7 14.7 16.2 15.2 第二次世界大戦前に既に航空機自動車との競争に直面していた鉄道は、大戦に伴う輸送需要そのもの増大軍需優先およびガソリン配給制限により一旦は息を吹き返した。鉄道会社はこの状況が続くことを期待していたが、しかし工業生産民需戻りガソリン配給制限が解除されると、すぐに競争再開され、やがて輸送需要は他の交通手段へと転移していった。 1950年代には州間高速道路建設開始された。この高速道路網は緩い勾配大きな曲線半径高速出せるようになっており、出入りもすべて立体交差となるなど高い規格建設されていた。この道路を走る高速バスは、1960年代になるとエアコン装備するようになり、一部にはトイレ装備するものもあり、都市間を安価に移動する手段としての地位確立していった。さらにバス以上に鉄道から都市旅客奪ったのは航空機であった大戦後ロッキード コンステレーションダグラス DC-7など新しく大きな航空機就航するにつれてそれまで急用のときに限られていた航空機の利用一般的なものとなっていった。1950年代終わりごろにジェット機就航するとこの傾向はさらに進んだ1957年には航空機旅客輸送量が鉄道上回った1958年時点鉄道旅客輸送シェアは約30パーセントであったに対して航空機が約40パーセントとなった。しかしこれは公共交通機関内でのシェアであり、もっとも多く都市旅客を運ぶようになったのは自家用車であった自家用車含めると鉄道シェアはわずか0.3パーセントになっていた。1960年代末には鉄道旅客輸送は「乗客より乗務員が多い」とされるレベルにまで落ち込んでしまった。その上鉄道は、自己負担線路整備した上に多額税金納めなければならなかったが、1968年時点道路水路航空政府から約190ドルに及ぶ補助金受け取っているという状況であった実際のところ、鉄道払った税金のほとんどは高速道路建設使われている状態であった大都市通勤鉄道でも大きな問題起きていた。都市間列車空席郊外からの旅客乗せているだけであると考えられていた通勤鉄道では、規制と競争によってきわめて低い運賃留められており、もともと収益性が非常に悪く利益上げていた貨物部門からの内部補助頼っていた。ところが貨物輸送利益減少する内部補助は困難となっていった。さらに政府自治体により積極的な道路建設投資続けられたこともあり、都心部悪化した環境逃れて郊外移転する人が増えてスプロール現象進行し、これが道路への依存をさらに強めていった。一方で過度な自動車依存深刻な渋滞もたらしラッシュ時輸送では鉄道に頼るのにオフピーク時には自動車利用するといったことが見られ鉄道ピーク時輸送力用意しなければならないのに日中大半時間過剰能力となってしまうという大きな問題抱えることになった1958年運輸法(英語版)で旅客輸送廃止する手続き簡素化されると、旅客列車の運行削減全面廃止相次いで1960年代初頭には鉄道旅客輸送失った大都市圏での通勤輸送手段喪失大きな社会問題となった鉄道内部でも大きな変化があった。大戦後石炭価格上昇したこともあり、蒸気機関車ディーゼル機関車置き換える動き急速に進んだ蒸気機関車メーカーへの最後発注1949年のことで、炭鉱地帯を走ることから安価な石炭確保できて最後まで蒸気機関車こだわったノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道でもロアノーク工場での自社製造1953年打ち切ったノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道が、アメリカ大鉄道会社として最後蒸気機関車運行行ったのが1960年5月7日であったディーゼル機関車蒸気機関車ほど保守作業に手がかからなかったため保守要員大きく削減され鉄道工場経済依存していたアルトゥーナのような都市大きな影響与えた一方乗務員削減簡単には進まなかった。蒸気機関車では機関士の他に、石炭焚くために機関助士乗務する必要があった。しかしディーゼル機関車では機関士1人運転できるので、機関助士は必要ではなかった。それでも機関助士乗務する慣習続いた第一次世界大戦のときの協定により、1日乗務マイル旅客100マイル (160 km) 、貨物150マイル (240 km) に制限されていたが、ディーゼル化によりこれはほんの数時間走れる距離となり、結果として機関助士1日3 - 4時間何もせずに運転席座っているだけで1日分の給料がもらえることになった会社側は機関助士廃止しようとしたが、組合はこれに抵抗した最終的に政治的な解決図られ1963年8月ジョン・F・ケネディ大統領出した仲裁策により、機関助士乗務1964年春から廃止されることになった。ただし人員削減自然減によることになった機関車メーカーにも変動発生した蒸気機関車時代大手メーカーであったのはボールドウィン・ロコモティブ・ワークスアメリカン・ロコモティブであった。しかしこの両社ディーゼル化の波についていくことができなかった。アメリカン・ロコモティブ一時期ゼネラル・エレクトリックから部品の提供を受けてディーゼル機関車メーカーとして台頭したが、ゼネラル・エレクトリック自社での機関車製造移行して部品供給打ち切ったため、カナダにおける子会社モントリオール・ロコモティブ・ワークスよるもの除いて早期機関車事業から撤退したボールドウィン・ロコモティブ・ワークスは、蒸気機関車同様に鉄道会社固有の設計応じたディーゼル機関車生産をする事業展開しようとしたが、これは時流合わず1956年にやはり機関車事業から撤退した。これに代わって台頭したのが、第二次世界大戦前からディーゼル機関車をてがけていたゼネラル・エレクトリック (GE) とエレクトロ・モーティブ・ディビジョン (EMD) であったEMDGP7形はその大馬力形式であるGP9形と合わせて6,000両以上が生産された大ベストセラーとなった寝台車営業をしていたプルマンにも変化があった。司法省1941年反トラスト法プルマン提訴し1944年下された判決により、プルマン事業寝台車営業事業をするプルマン・カンパニー鉄道車両製造事業をするプルマン=スタンダード・カー・マニュファクチャリング・カンパニーに分割されることになった3年に及ぶ交渉の末、寝台車営業事業部門プルマン・カンパニー57鉄道会社構成されるコンソーシアムに約4000ドル売却された。しかし寝台車営業衰退していき、1969年1月1日付けプルマン寝台車営業事業廃止され鉄道会社自社寝台車運営するようになった1950年代にはまだ、ニューヨークに住む人が預かっていた親戚の子供ロサンゼルス両親元へ送り返す際に、子供だけで安心して列車乗せることができた。単にニューヨークの駅へ連れて行ってプルマンポーター頼みえすれば当時4日かかった大陸横断の旅もすべて面倒を見てくれたのである。しかし1970年代にもなるともはや、誰も子供だけで列車乗せようとは思わない状況になってしまった。 貨物輸送旅客輸送よりはましな状況であったが、アメリカ全体貨物輸送量は伸びていたのに、1956年以降鉄道貨物輸送量は減少転じ運賃値上げ繰り返して純利益減少していくようになった1962年当時鉄道貨物輸送量はアメリカの全貨物輸送量の37パーセントになっていた。貨物輸送トンマイルあたりの収入では鉄道の方がトラックより少なかったので、貨物輸送収入見れば、既に鉄道少数勢力になっていた。耐え切れなくなった鉄道会社は、保守作業間隔延伸することで手っ取り早く経費削減図り始めた鉄道投下資本利益率は3パーセント下回ってアメリカの全産業中最低となり、設備最低限更新必要な資金の調達にさえ困るようになり、貨車老朽化進んで、これがサービス低下保守費増加につながる悪循環となっていた。 こうした問題の解決策として、鉄道会社合併進められた。互いに競合する路線抱えている会社同士合併すれば、重複した路線一方廃止することで経費削減行い残され路線輸送量集めることができたからである。1940年運輸法の規定で、鉄道会社州際通商委員会に対して競争よりも合併する方が地域にとっても利益大きいことを訴えて合併求めることができるようになったことも後押しした。こうしてより大きく効率的な経営目指し次々合併進められていき、1957年時点635あったアメリカの鉄道会社は、1968年には375にまで減少した1970年3月2日には、ジェームズ・ジェローム・ヒル構想しながら長く実現していなかった、シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道グレート・ノーザン鉄道ノーザン・パシフィック鉄道スポケーン・ポートランド・アンド・シアトル鉄道合併行われバーリントン・ノーザン鉄道となった。またアトランティック・コースト・ライン鉄道シーボード・エア・ライン鉄道1967年合併してシーボード・コースト・ライン鉄道となったチェサピーク・アンド・オハイオ鉄道ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道1963年買収したが、会社としては別組織保ち1973年設立されチェシー・システムという共通の親会社傘下入ったその後シーボード・コースト・ライン鉄道親会社チェシー・システム合併してCSXコーポレーションとなり、最終的に1987年CSXコーポレーション傘下鉄道会社合併してCSXトランスポーテーションとなったノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道サザン鉄道も共通の親会社ノーフォーク・サザン鉄道傘下1982年入り鉄道会社同士1990年合併した政府組織では、1966年法律により運輸省発足して、その部局である連邦鉄道局鉄道管轄するようになった。また1967年には国家運輸安全委員会発足して鉄道事故調査を行うようになった輸送技術の進歩はこの時期であっても進められた。それまで膨大な書類作業によって管理されていた鉄道業務は、コンピュータ導入によって大幅に簡略化された。1930年代ペンシルバニア鉄道導入始まった誘導電話装置は、1960年代になるとトランジスタ技術によってより簡素な装置にできるようになり、こんにち列車無線装備置き換えられるようになった1970年代になると貨車13本の帯で構成される識別記号が貼られて、自動車識別装置 (Automatic Car Identification System) で読み取って管理が行われるようになったベイリー操車場のような新しく巨大な操車場建設されて、貨車自動仕訳検修作業近代化が行われるようになったこの頃ティムケン英語版)製の新し転がり軸受貨車採用されるようになり、軸受問題起因する脱線軸焼け発生回数大幅に減少したまた、ピギーバック輸送1954年ペンシルバニア鉄道初め大規模な実施始まり急速に広まっていった。これより遅れて鉄道コンテナ輸送急速に増加し、これは船との連絡容易にして、アジアヨーロッパとの輸出入貨物大量輸送使用されるようになったキャリアカー激し競争になっていた新車自動車出荷業務に対しては、新しい車運車が開発され輸送効率化され、鉄道大きなシェア占めるようになっていった。またホッパ車タンク車などで同一形式車両ばかりをつないで専用荷役設備効率的な荷役行い大量高速輸送実現したユニットトレイン英語版)も普及した

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