第24代海軍大臣とは? わかりやすく解説

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第24代海軍大臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:46 UTC 版)

米内光政」の記事における「第24代海軍大臣」の解説

1944年昭和19年)、東條内閣倒れると、予備役から現役復帰して小磯内閣で再び海軍大臣となる。 軍部大臣現役武官制により、予備役海軍大将米内海軍大臣なるには召集ではなく現役復帰」の必要があった。予備役編入された陸海軍将校士官現役復帰するには、「天皇特旨」が必要とされ、極めて稀なことだった。米内は、陸軍出身小磯國昭二名組閣の大命受けた小磯上席で、内閣総理大臣となった異例組閣経緯から「副総理格」とされ、「小磯米内連立内閣」とも呼ばれた米内は、海軍次官岡敬純を「一夜にして放逐する」と更迭横須賀鎮守府コンビ組んだ井上成美当時海軍兵学校校長)を「首に縄をかけて引きずってでも中央に戻す」と直接説得、「次官なんて柄ではない」「江田島村長(= 海軍兵学校校長)で軍人生活を終わらせたい」と言い張る井上中央呼び寄せた。なお、米内同期生親友であった荒城二郎姉妹井上兄・井上達三に嫁いでおり、米内井上には私的につながりがあった。 米内現役復帰画策し岡田啓介は、「米内円満に海軍へ復帰させるには、海軍内の米内系統と共に末次系統の顔も立てておく必要がある」との声を受けたため、岡田藤山愛一郎邸宅にて二人引き合わせ、関係の修復努め、共に個人感情より国のために力を尽くすことを誓わせた。末次信正米内の関係は、過去宴席五・一五事件対す責任などで口論となるなど険悪であった米内現役復帰成ったが、予定されていた末次軍令部総長への復帰話は天皇反対等のためにそれっきりとなってしまった。「軍令部なら召集官でもなれるのだから、末次召集の形で連れてきてはどうか」と米内勧める者もいたが、米内応じなかった。これに関して岡田は「(米内は)末次のような性格の男がいては、自分の考えている戦局収拾うまくいかんと思ったではないかね」とし、『昭和天皇独白録』には「私は末次総長反対した。米内後で末次のことを調べたら、海軍部内の八割は末次をよく知つてゐないと云ふことが判つた相だ」とある。ただし、復帰直後米内末次総長実現しない場合には辞任する旨を語っており、末次総長人事には熱意持っていた。 12月3日神雷部隊視察し飛行場閲兵式を行う。 1945年昭和20年)、鈴木貫太郎内閣にも海相として留任米内本人は「連立内閣」の小磯だけが辞職し自分留任するというのは道義問題があると考えていた。だが今度次官であった井上成美米内知らないところで「米内海相留任絶対に譲れない」という「海軍総意(実は井上独断)」を、大命下った鈴木申し入れていたのだった5月11日ドイツ降伏直後宮中開かれた最高戦争指導会議における対ソ交渉について、「ソ連からの援助引き出すべきだ」と主張したが、「ソ連軍事的経済的に利用できる段階では、もはやない」と外務大臣東郷茂徳却下されている。しかし鈴木内閣結論としてソ連対す和平仲介依頼する方針決定し交渉開始した5月25日空襲海軍省大臣官邸焼失してしまい、麻生孝雄海軍大臣秘書官堤康次郎所有建物官邸として借り受けようと交渉向かったところ、堤は最初不機嫌だった米内の名前が出てきた途端に顔色変わり、「よろしゅうございますお貸しましょう。私は米内さん好きなので」と建物の提供を無条件承知してくれた。「米内さん人徳借りたようなものだ」と麻生は後に述べている。[要出典]この空襲では明治宮殿焼失し翌日参内した際の天皇態度から、米内和平向けた意志読み取った5月末の会議で一勝の後に終戦とすることを主張した陸軍大臣阿南惟幾対し米内早期講和主張した6月9日鈴木による議会での発言天罰発言事件)を継戦派の議員2日後問題視したことで国会混乱に陥り、倒閣運動まで発生してしまった。これにより、米内議会内閣対す姿勢問題視して辞意表明したところ、阿南から辞意思いとどまるように手紙による説得を受け、これを受け入れたソ連との交渉については、すでに内密に対日参戦決意していたソ連からは回答を引き伸ばされるだけであった。やがて7月末に至り連合国日本対し降伏勧告するポツダム宣言発表される東郷受諾可能性主張するが、阿南はじめとする統帥部は宣言拒否激しく主張結果として閣議では「ポツダム宣言に関しては強い見解をださず様子をみる」旨発表する決定した。ところが統帥部は閣議決定無視して鈴木宣言に対して強い態度を取るべきと主張鈴木はこの突き上げ屈して宣言黙殺記者会見声明した。この黙殺声明により、原子爆弾投下ソ連の対日参戦という新たな事態発生した米内連合国ポツダム宣言発表から鈴木黙殺声明にいたるまで、ポツダム宣言に対して曖昧な態度とっている。米内のこの曖昧さが、阿南などポツダム宣言拒否派に押し切られ黙殺声明への大きな原因になったとする批判もある。 原爆投下ソ連参戦以降米内ポツダム宣言受諾による戦争終結東郷外相とともに強力に主張する受諾反対本土決戦主張する阿南閣議最高戦争指導会議激論展開した。「戦局依然として互角である」と言う阿南対し陸相互角というが、ブーゲンビルサイパンレイテ硫黄島沖縄、みんな明らかに我が方負けている。個々戦いで武勇談はあるやもしれないが、それは勝敗とは別の問題である」と米内言い返した。さらに「戦闘には負けているかもしれないが、戦争そのもの負けたとはいえない。陸軍海軍で感覚が違う」と再反論する阿南対し米内は「あなたがなんと言おう日本戦争負けている」と言い両者の話に決着はつかなかった。 8月9日御前会議で、東郷茂徳米内光政平沼騏一郎は、「天皇の地位保障のみ」を条件とするポツダム宣言受諾主張。それに対し阿南惟幾梅津美治郎豊田副武は「受諾には多数条件をつけるべきで、条件拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対主張した天皇東郷米内平沼見解同意し終戦原則的に決定された。しかし連合国側から条件付す件について回答文があり、ふたたび受諾賛成と反対の議論再燃する8月12日軍令部総長豊田副武大将陸軍参謀総長梅津美治郎大将昭和天皇に対してポツダム宣言受諾反対する帷幄上奏を行う。同日米内は、抗戦主張する豊田軍令部次長大西瀧治郎二人呼び出した米内大西に対して軍令部行動はなっておらない意見があるなら、大臣直接申出て来たらよいではないか最高戦争指導会議9日)に、招かれもせぬのに不謹慎な態度入って来るなんていうことは、実にみっともない。そんなことは止めろと言いつけ、大西は涙を流して詫びた次に豊田に対して「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を、陸軍一緒になって上奏するとは何事か。僕は軍令部やること兎や角干渉するのではない。しかし今度のことは、明かに一応は、海軍大臣意見交えた上でなければ軍令部と雖も勝手に行動べからざることである。昨日海軍部内一般に出した訓示は、このようなことを戒めたのである。それにも拘らず斯る振舞出たことは不都合千万である」と非難し豊田済まないという様子一言答えなかった。豊田軍令部総長就任する際に、昭和天皇は「司令長官失格の者を総長にするのは良くない」と反対する旨を米内告げているが、米内は「若い者支持がある。彼の力によって若い者抑えて終戦持っていきたい」と返答した。しかし豊田押し切られた形になり、米内親し知人に「豊田裏切られ気分だ。見損なった」と述べ昭和天皇は「米内失敗だ。米内のために惜しまれる」と述懐している。 8月14日天皇最高戦争指導会議および閣僚面前で、再度受諾決定、これにより終戦最終的に決した鈴木内閣陸軍大臣だった阿南惟幾終戦の日当日に「米内を斬れ」と言い残して自決したが、米内本人軍人として法廷裁かれる道を選んだ戦犯として拘束されることを予期し巣鴨プリズン収監され場合備えていたものの、結局米内容疑者には指定されなかった。 米軍側は米内以前言動詳細に調査しており、GHQの某軍人元秘書官の麻生孝雄のもとを訪ねた際、いきなり米内のことを切り出し米内提督については生い立ちからすべて調査してある。命を張って日独伊三国同盟対米戦争反対した事実終戦時動静などすべてお見通しだ。米内提督戦犯に指名されることは絶対にない。我々は米内提督リスペクトしている」と断言し麻生米内伝記書くことさえ勧めている。また保科善四郎吉田英三豊田隈雄などが「米内さんだけは戦犯にしてはいけない」と奔走したという話もある。戦後処理の段階入って米内存在高く評価され東久邇宮内閣幣原内閣でも海相留任し帝国海軍幕引き役を務めた幣原内閣組閣時には健康不安から辞意固めていたにもかかわらずGHQ意向留任している。 米内は「言葉不適当と思うが原爆ソ連の参戦天佑だった」続けて国内情勢戦いをやめるということを出さなくて済む。私がかねてから時局収拾主張する理由敵の攻撃恐ろしいのでもないし、原子爆弾ソ連の参戦でもない一に国内情勢憂慮すべき事態食糧事情などによる国内秩序崩壊から日本内部から崩壊すること)が主である。(中略軍令部あたりも国内わかっておらなくて困るよ」と近衛文麿細川護貞などに語った海軍省最後の日となった11月30日に、海軍大臣として挨拶をした際にも、朝日新聞海軍担当記者作った原稿読んだ後「では皆さんさようなら」とだけ喋って終わった幣原内閣において海軍省廃止され第二復員省となったことから、米内日本最後海軍大臣となった海軍省廃止翌日12月1日宮中召された米内は、お別れ言上をした際、昭和天皇から「米内には随分と苦労掛けたね。それがこんな結末になってしまって…。これからは会う機会少なくなるだろう。米内はだいぶ体が弱っているようだから、健康にくれぐれも注意するように。これは私が今さっきまで使っていた品だが、今日記念に持ち帰ってもらいたい」として、筆も墨も濡れた状態の硯箱に、二羽丹頂鶴小枝あしらった蒔絵描かれ天皇自ら閉じたうえで、直接手渡された。硯箱持って廊下退出するなり、米内は声を殺して泣き出したという。またこのとき、香淳皇后別室米内涙ながらに厚く労っている。現在その硯は、郷里盛岡市先人記念館に展示されているが、他の展示品寄贈なのに対して、硯のみ米内家の所有物として展示されている。 海軍解体前米内はその当時軍務局長だった保科に、「戦犯に指名されるかもしれないし、私の健康もすぐれないから」と前置きした上で、「連合国永久に日本軍備撤廃させることはない。日露戦争の前のトン数基準海軍再建模索すべし」「海軍には優秀な人材数多く集まりその伝統を引き継いできた。先輩たちがどうやってその伝統を築き上げてきたか、後世伝えるべし」「海軍持っていた技術日本復興役立てること」を委託している。保科Y委員会通して現在の海上自衛隊創設間接的に影響与えており、後に衆議院議員となった保科自身米内遺志一つでも達成すべく政界入り目指したと述べている。

※この「第24代海軍大臣」の解説は、「米内光政」の解説の一部です。
「第24代海軍大臣」を含む「米内光政」の記事については、「米内光政」の概要を参照ください。

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