Y委員会
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1951年(昭和26年)10月19日、吉田首相と連合国軍最高司令官(SCAP)マシュー・リッジウェイ大将の会談において、フリゲート(PF)18隻、上陸支援艇(LSSL)50隻を貸与するとの提案が正式になされ、吉田首相はこれをその場で承諾した。翌20日、岡崎勝男内閣官房長官より柳澤米吉海上保安庁長官および山本善雄元海軍少将に対し、これらの艦艇受入れと運用体制確立に関して政府の諮問に答えるための委員会の設立が要請された。これを受けて10月31日に組織されたのがY委員会である。 Y委員会は内閣直属の秘密組織であり、第1回会合は、1951年(昭和26年)10月31日午後2時より、委員10名全員の出席のもと、霞が関の海上保安庁の臨時会議室で行われた。Y委員会はその後、海上警備隊の発足前日にあたる1952年(昭和27年)4月25日まで、毎週金曜、29回にわたる定例会を開き、日本の海上防衛力再建のための計画策定にあたった。 Y委員会は当初、旧海軍軍人8名と海上保安官2名の計10名の委員により構成されていたが、人数比があまりに開いていたことから、第2回会合より、臨時委員として海上保安官1名が追加された。旧海軍軍人のうち、山本元少将、秋重元少将、永井元大佐の3名以外は、いずれも第二復員局(旧海軍省)の部課長クラスであった。 旧海軍軍人山本善雄(主席委員; 海軍兵学校47期、元少将) 秋重実恵(次席委員; 海軍機関学校28期、元少将) 初見盈五郎(海軍経理学校8期、元大佐) 永井太郎(海軍兵学校48期、元大佐) 長沢浩(海軍兵学校49期、元大佐) 吉田英三(海軍兵学校50期、元大佐) 森下陸一(海軍機関学校34期、元中佐) 寺井義守(海軍兵学校54期、元中佐) 海上保安官柳澤米吉(海上保安庁長官) 山崎小五郎(臨時委員; 海上保安庁次長) 三田一也(警備救難監) 旧海軍側は、創設される新機構(海上保安予備隊ないしは海上警備隊)に関して、次の四点などの基本見解を述べた。 新機構の人員を特別職とする。 新機構を海軍の母体にする。 将来は航空兵力が主要ポストを占める。 アメリカ海軍からの貸与艦艇は日本政府が運用するものであり、アメリカの傭兵ではない。 これに対して海保側は「海上保安予備隊」について以下の設置要綱を述べた。 予備隊の軍政部門は現海上保安庁の組織を利用すべきである。 予備隊総隊監部は軍令系とする。 アメリカ海軍からの貸与艦艇を海保の10ヶ所の警備地域に配分する。 海保側はあくまで海保の強化を目指す内容であり、新海軍の分離を目指す第二復員局側を牽制した。 海保側の方針に対して二復側は「海保案は軍令系のみで、二復側(旧海軍側)案は軍政・軍令の両案があるのが大きな相違である」と反発した。これに対して海保側は「沿岸警備力増強の為の新機構であるが、国民に対して軍の再建と言う不安を与えぬ考慮が必要である」「予備隊は実施部隊であるが、経理も人事も取り扱うので軍政部門もある。したがって二復側の要綱にある『実施部隊』という用語が不適当である」など、当時の反軍感情に言及して反論した。それに対して二復側は「海軍を作ろうというのに文官が長官でということはあり得ない」「管理するのは官制上長官であり、総務部などは幕僚機関であるべきだ」と反発した。ただし、二復側と海保側では新機構は「アメリカ海軍の傭兵ではなく日本の自主独立の立場を貫く」事では一致した。 1952年(昭和27年)1月10日に旧海軍側の山本グループが「新空海防衛力建設について所見」と題する報告書をアメリカ極東海軍司令部に提出。本報告書は5~6年かけてまとめた再軍備実行計画案(別冊第一)と、計画遂行を2~3年延長する事態になった場合の修正案(別冊第二)からなり、「今般海上保安庁から提案された船舶増勢要求案は単にCoast Guardの強化を図るものであって航空並びに海上の防衛力増強には極めて非能率なものと言わねばならぬ」とし、再軍備予算としてY機構に約56億円、新規計画に280億円、合計336億円を計上する事を提案した。「新空海軍建設の概要」では、 1951年、1952年会計年度にアメリカから貸与される艦船60隻をY委員会勧告に基づいて、速やかに有事即応可能となるような戦力錬成を図る、この場合、Y機構の要員計画を約8000人とし、機構の編成等は同委員会の報告とおりにする。 時機を得たならば、Y機構を海上保安庁から分離し、新国防自衛力の骨幹たるべき本格的空海軍を創設する。この場合の機構編成は研究中であるが、おおむね野村提督および第二復員局から貴司令部へ提出した構想を基盤とする。 前各号に伴う軍備計画は、飛行機1800機、艦船28万トン、要員10万人の空海軍兵力を8ヶ年で整備する。としていた(「新空海防衛力建設について所見」1月10日)。 1952年(昭和27年)2月4日に合同委員会が開かれ、新機構のあり方についてはアメリカ極東海軍軍事顧問団の裁定に委ねることになり、オフチー参謀長は二復側の案を認めて「(新機構を)separate(分離)する案でなければいけない」と述べ、新機構の名称も海保側が命名した「海上保安予備隊」を却下して「ぜひともCoastal Safety Force」にせよとされ、15日には海上警備隊(Maritime Security Force)に対する次長や警備救難監の指揮権が及ばないことが委員会に報告された。最終的には海上警備隊(Maritime Safety Security Force)として、いずれ新機構を海保から離脱独立させることが決まった。
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