焦土外交とは? わかりやすく解説

しょうど‐がいこう〔セウドグワイカウ〕【焦土外交】

読み方:しょうどがいこう

敵の攻撃受けて国が焦土化しても、あくまで国策遂行するという外交満州事変当時に、内田康哉外相帝国議会述べた語に基づく。


内田康哉

(焦土外交 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/25 19:02 UTC 版)

内田 康哉
うちだ こうさい(やすや)
内田康哉
生年月日 1865年9月29日
慶応元年8月10日
出生地 日本肥後国八代郡竜北
(現:熊本県八代郡氷川町
没年月日 (1936-03-12) 1936年3月12日(70歳没)
死没地 日本東京府東京市
出身校 東京帝国大学法科卒業
前職 外交官
称号 従一位
勲一等旭日桐花大綬章
伯爵
配偶者 内田政子
親族 黒田五郎左衛門(祖父)
内田玄真(父)
内田寛治(養子)
土倉庄三郎(義父)
第24・34・44代 外務大臣
内閣 第2次西園寺内閣
原内閣
高橋内閣
加藤友三郎内閣
齋藤内閣
在任期間 1911年8月30日 - 1912年12月21日
1918年9月29日 - 1923年9月2日
1932年7月6日 - 1933年9月14日
内閣 原内閣
加藤友三郎内閣
在任期間 1921年11月4日 - 1921年11月13日
1923年8月24日 - 1923年9月2日
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タイム』の表紙をかざる内田。

内田 康哉(うちだ こうさい / やすや、1865年9月29日慶応元年8月10日〉- 1936年昭和11年〉3月12日)は、日本外交官政治家栄典従一位勲一等伯爵

明治大正・昭和の3代にわたって外務大臣を務めた唯一の人物。戦前の日本を代表する外政家だが、その外交姿勢は時期によって揺れがあり、単純ではない。通算外相在職期間7年5か月は、現在に至るまで最長である。

来歴・人物

熊本藩医・内田玄真と熊本士族黒田五左衛門長女ミカの子として肥後国八代郡竜北(現・熊本県八代郡氷川町)に生まれる。八代郡鏡町にあった名和童山の新川義塾などで学んだ後[1]同志社英学校に入学するも2年後に退学。東京帝国大学法科卒業後に外務省に入省し、ロンドン公使館勤務、清国北京公使館勤務中に一時、臨時代理公使オーストリア公使兼スイス公使・アメリカ大使ロシア大使などを歴任し、第4次伊藤内閣の外務次官を務めた。

第2次西園寺内閣原内閣高橋内閣加藤友三郎内閣に於いて外務大臣を務める。特に原内閣以降、パリ講和会議ワシントン会議の時期の外相として、ヴェルサイユ体制、ワシントン体制の構築に関与し、後述のように1928年の不戦条約成立にも関係するなど、第一次世界大戦後の国際協調体制を創設した一人であった。これらについて内田は「四国条約の締結といい、支那関係の原則の決定といい、全てこれらは世界における恒久平和の樹立に対する一般人類の真摯なる要求の発露に外ならない。単に各国政府の一時的政策と認むるべきではない」と演説している。

ただし、清国山東省の元帝国ドイツ領での日本の権益を主張したヴェルサイユ条約の山東条項(156 - 158条)は山東問題を引き起こし、日清関係は、1922年の山東懸案解決に関する条約が締結されるまで解決を見なかった。

原敬暗殺(1921年)、加藤友三郎急逝(1923年)の現職首相の死去の際、どちらの内閣でも外務大臣を務めていた内田が、宮中席次において内閣総理大臣の次席であった為、皇室儀制令の規定に則った慣例によって「内閣総理大臣臨時代理」を務めた。なお、2度目の首相臨時代理[2]の際には後任の山本権兵衛の組閣前に関東大震災が発生したため、第2次山本内閣発足までの2日間、日本の行政トップとして震災対策の指揮を執った[注釈 1]。緊急時の臨時の首相を二度も行ったのは、西園寺公望(臨時代行と臨時兼任の二度)と内田だけである。西園寺は後年に正式な首相になっているが、内田はなっていない。

1925年(大正14年)、枢密顧問官に就任した。1928年(昭和3年)には全権として不戦条約に調印したが、国内での批准にあたって「人民ノ名ニ於テ」文言を巡る混乱が生じ、枢密顧問官を辞任した。1930年(昭和5年)4月11日に貴族院議員に就任する[3]

1931年(昭和6年)に南満洲鉄道(満鉄)総裁に就任した。当時の満鉄は張学良政権との関係が悪化しており、外交官としての経歴を買われての就任であった。同年9月の満洲事変には不拡大方針で臨んだが、満鉄理事で事変拡大派の十河信二の斡旋によって関東軍司令官・本庄繁と面会したのを機に、急進的な拡大派に転向する。1932年(昭和7年)4月、犬養内閣によって江口定條満鉄副総裁(民政党系の人物で軍部に批判的だった)が突然罷免された際には罷免に抗議して辞表を提出したが、内田の総裁留任を支持する軍部の説得により、最終的には満鉄総裁に留まる。同年5月に成立した斎藤内閣では7月に外務大臣に就任。国際連盟において満洲国の取り扱いが審議され、松岡洋右全権の交渉によって、主権を中華民国蔣介石勢力)に潜在的に認めたまま日本の「勢力圏」とするという、日本に有利な調停案がまとまる。しかし内田はこの提案を一蹴し、日本は満洲国を国家承認、国連脱退に追い込まれる。1932年8月25日衆議院で「国を焦土にしても満洲国の権益を譲らない」と答弁(焦土演説)。質問者の森恪は武断外交の推進者として知られるが、さしもの森も仰天し答弁を修正する意思がないか問うが内田は応じなかった。1920年代の国際協調の時代を代表する外政家である内田の急転向は、焦土外交として物議を醸した。当時の外交評論家清沢洌は「国が焦土となるのを避けるのが外交であろう」と批判、西園寺公望も、かつて自らの内閣で外相を務めた内田の変貌に驚愕し、落胆したという[4]

1933年9月に健康状態の悪化を理由に外務大臣を辞任。その後は動脈硬化症、カタル性肺炎[5]で療養していたが、1936年(昭和11年)3月12日、二・二六事件の15日後に死去。70歳没。墓所は多磨霊園[6]

評価

その生涯について、外交評論家で元タイ大使の岡崎久彦は「彼についての記録から彼の思想信念を知ることは難しい。おそらく特に哲学のない単なる有能な事務官僚だったのだろう。したがってその行動も時流とともに変わっていく。その意味で内田の意見は、時の国民意識の変化を代表しているといえる」と評している[7]。なお、岡崎の祖父岡崎邦輔立憲政友会代議士で、大正時代当時は内田外相の内閣の与党にいた。

私生活

1899年に結婚した妻の政は、土倉庄三郎の次女[8]同志社女学校を卒業してアメリカへの留学経験(ブリンマーカレッジ1897年卒[9])もある政は英語に優れ、婚約していた頃は英文で文通したといわれる[8]

栄典

位階
爵位
勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1894年(明治27年)8月31日 勲五等双光旭日章[10][25]
1900年(明治33年)12月20日 勲三等瑞宝章[10][26]
1902年(明治35年)3月5日 勲二等旭日重光章[10][27]
1902年(明治35年)5月10日 明治三十三年従軍記章[10]
1906年(明治39年)4月1日 勲一等旭日大綬章[10][28]
1906年(明治39年)4月1日 明治三十七八年従軍記章[29]
1912年(大正元年)8月1日 韓国併合記念章[10]
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章(大正)[10][30]
1920年(大正9年)9月7日 旭日桐花大綬章[10][24]
1921年(大正10年)7月1日 第一回国勢調査記念章[31]
1928年(昭和3年)11月10日 大礼記念章(昭和)[10]
1931年(昭和6年)3月20日 帝都復興記念章[10][32]
外国勲章佩用允許
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1896年(明治29年)12月17日 大清帝国 第二等第二双竜宝星中国語版[10][33]
1901年(明治34年)10月4日 スペイン王国 イサベル・ラ・カトリカ勲章英語版グランクロワ[10][34]
1902年(明治35年)6月4日 大清帝国 頭等第三双竜宝星[10][35]
1907年(明治40年)11月26日 ローマ法王庁 ピーヌーフ第一等勲章[10]
1909年(明治42年)11月2日 オーストリア=ハンガリー帝国 レオポルド大綬章英語版[10]
1913年(大正2年)2月17日 フランス共和国 レジオンドヌール勲章グランクロア[10][36]
1914年(大正3年)4月21日 イタリア王国 聖マウリッツィオ・ラザロ第一等勲章[10][37]
1919年(大正8年)10月18日 ギリシャ王国 ソーヴール第一等勲章フランス語版[10]

記念碑

故郷の熊本県八代郡氷川町には『内田康哉先生生誕の地』という記念碑が建立されている。

著作

演説録

共著

伝記

資料集成

脚注

注釈

  1. ^ 震災から6日後の9月7日には治安維持法の前身となる勅令治安維持の為にする罰則に関する件』が下された。

出典

  1. ^ 熊本教育振興会『肥後の人物ものがたり』熊本教育振興会事務局、1988、152-153頁。
  2. ^ 『官報』号外、大正12年8月25日
  3. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、38頁。
  4. ^ 大杉一雄『日中十五年戦争史』(中公新書、1996年)95頁
  5. ^ 『内田康哉』内田康哉伝記編纂委員会、鹿島研究所出版会、1969年。 
  6. ^ 内田康哉”. www6.plala.or.jp. 2024年12月6日閲覧。
  7. ^ 岡崎久彦「重光・東郷とその時代」PHP文庫、2003年、P63
  8. ^ a b Who's Who - 同志社女子大学ウェブサイト
  9. ^ Bryn Mawr College Calendar, 1914 Bryn Mawr, PA: Bryn Mawr College、1914
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 内田康哉」 アジア歴史資料センター Ref.A06051177000 
  11. ^ 『官報』第2127号「叙任及辞令」1890年8月1日。
  12. ^ 『官報』第2776号「叙任及辞令」1892年9月27日。
  13. ^ 『官報』第3737号「叙任及辞令」1895年12月11日。
  14. ^ 『官報』第4343号「叙任及辞令」1897年12月21日。
  15. ^ 『官報』第5272号「叙任及辞令」1901年2月1日。
  16. ^ 『官報』第6815号「叙任及辞令」1906年3月22日。
  17. ^ 『官報』第7752号「叙任及辞令」1909年5月1日。
  18. ^ 『官報』第8666号「叙任及辞令」1912年5月11日。
  19. ^ 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
  20. ^ 『官報』第1670号「叙任及辞令」1932年7月25日。
  21. ^ 『官報』第2759号「叙任及辞令」1936年3月16日。
  22. ^ 『官報』第7307号「授爵・叙任及辞令」1907年11月5日。
  23. ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
  24. ^ a b 『官報』第2431号「叙任及辞令」1920年9月8日。
  25. ^ 『官報』第3354号「叙任及辞令」1894年9月1日。
  26. ^ 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。
  27. ^ 『官報』第5598号「叙任及辞令」1902年3月6日。
  28. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
  29. ^ 『官報』第199号・付録「辞令」1913年4月1日。
  30. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  31. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
  32. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  33. ^ 『官報』第4051号「叙任及辞令」1896年12月28日。
  34. ^ 『官報』第5488号「叙任及辞令」1901年10月16日。
  35. ^ 『官報』第5718号「叙任及辞令」1902年7月26日。
  36. ^ 『官報』第165号「叙任及辞令」1913年2月19日。
  37. ^ 『官報』第519号「叙任及辞令」1914年4月24日。

関係文献

関連項目

外部リンク

公職
先代
小村壽太郎
後藤新平
斎藤実
外務大臣
第24代:1911年8月30日 - 1912年12月21日
第34代:1918年9月29日 - 1923年9月2日
第44代:1932年7月6日 - 1933年9月14日
次代
桂太郎
山本権兵衛
廣田弘毅
日本の爵位
先代
陞爵
伯爵
内田(康哉)家初代
1920年 - 1936年
次代
内田寛治
先代
陞爵
子爵
内田(康哉)家初代
1911年 - 1920年
次代
陞爵
先代
叙爵
男爵
内田(康哉)家初代
1907年 - 1911年
次代
陞爵
官職
先代
高田早苗
外務省通商局長
第6代:1897年4月7日 - 1898年11月5日
次代
重岡薫五郎

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