太田氏とは? わかりやすく解説

太田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/19 13:28 UTC 版)

太田氏(おおたし、おおたうじ、おおだし、おおだうじ)は日本の氏族。主なものとして下記の流れがある。

  1. 清和源氏頼光流太田氏[1]
  2. 清和源氏頼親流太田氏[2]
  3. 清和源氏里見氏流太田氏[3]
  4. 桓武平氏大掾氏一門東條氏流太田氏[4]
  5. 三善氏の一族[5]。鎌倉幕府問注所執事三善康信の子康連に始まる[5]
  6. 藤原北家秀郷流太田氏[6]

清和源氏頼光流太田氏

太田氏
本姓 清和源氏頼光流
家祖 太田資国[1]
種別 武家
華族子爵
出身地 丹波国桑田郡太田[7]
主な根拠地 武蔵国
東京市本郷区駒込千駄木町
著名な人物 太田道灌
太田資正
凡例 / Category:日本の氏族

太田氏(おおたし)は、清和源氏頼光流の武家華族だった日本氏族。戦国時代に上杉氏に仕えた一族で太田道灌が著名[8]。一族と称する近世大名だった家は、維新後華族の子爵家に列している。

歴史

摂津源氏の流れをくみ、源頼光の玄孫頼政(源三位頼政)の末子である源広綱を祖とする。広綱の子孫の源資国が丹波国桑田郡太田(現在の京都府亀岡市薭田野町太田[注釈 1])を拠点として、太田氏を称したという[7]。ただし、この系譜は伝説の域を出ず、史料上では、永享12年(1440年)、太田資光(太田資清のことか?)の名が『鎌倉大草紙』に現れるのが初めてである。

通字は「資(すけ)」。

静勝軒銘詩并序」内の文言によれば、太田道灌1432年 - 1468年)の5 - 6代前の人物が丹波国から相模国へ移住したとされるが、その人物の名前は不明である。道灌の父・太田資清扇谷上杉氏に仕えて家宰となった。資清から家督および家宰職を継いだ道灌は武蔵国豊島郡江戸城東京都千代田区)を築き活躍したが、主君の上杉定正によって暗殺された。道灌の死後、太田家の系譜は分裂した。

江戸太田氏

道灌の嫡男・資康は父が暗殺されると山内上杉氏に仕えた。その子・資高は扇谷上杉氏の重臣として江戸城代となり、この系譜が江戸太田氏と称された。資高は永正15年(1518年)に北条氏に内応し、江戸城代としての地位や所領を安堵された。しかし、資高の子・康資は北条氏から離反。第二次国府台合戦で北条氏に敗北し、自身は里見氏の庇護を受けて上総国へ逃れた。康資の息子とされる重正の家系は近世大名として明治維新まで存続した(掛川太田氏の項参照)。

岩付(岩槻)太田氏

太田道灌は嫡男・資康の誕生まで実子に恵まれずに養子を迎えており、その一人が資家であった。血縁上では道灌の甥にあたったと考えられている。資家の子・資頼は扇谷上杉氏の重臣であったが、大永4年(1524年)に北条氏へと内応し、渋江氏から岩付城を奪取して居城とした。岩付太田氏の始まりである。

しかし、上杉氏と北条氏の抗争の最前線に立つ岩付太田氏の立場は苦しかった。資頼は扇谷上杉氏の反攻を受けると降伏し帰参したが、家督を継いだ嫡男・資顕は北条氏と内通し、河越夜戦にも参加しなかった。この戦いで扇谷上杉氏は滅亡し、太田氏は再び北条氏に属した。

資顕が死去すると、家督は資顕の弟・資正が実力で獲得した。資正は当初北条氏に従属したものの、永禄3年(1560年)に上杉謙信が関東へ出兵(小田原城の戦い)するとこれに同調して北条氏から離反。謙信が越後へ帰還したのちも北条氏と戦い続けたが、永禄7年(1564年)7月、北条氏と通じた嫡子・氏資によって岩付城を追放されてしまった。その後、資正は佐竹義重の客将として常陸国片野城主となる。資正の家督を継いだ三男・資武結城秀康に仕えて福井藩士となったが、曾孫・尹資の代で断絶した。

一方、資正を追放して岩付太田氏を継いだ長男・氏資は、永禄10年(1567年)の三船山合戦で戦死した。氏資には男子がいなかったため、家督は婿養子となった北条氏政の息子が継ぎ、太田源五郎を名乗った。しかしこの源五郎も早逝し、家督はその弟・北条氏房が継いだ。この氏房の代で小田原征伐を迎え、岩付太田氏は終焉を迎えた。

太田道灌嫡流

道灌の死後、その後継者は太田六郎右衛門尉という人物であったとされる。『太田家記』などの記述から従来はこの人物が資康とされてきたが、没年との不整合性などから、現在では別人物であったと考えられている。

六郎右衛門尉は永正2年(1505年)に主君・上杉朝良によって中野陣で誅殺される。家督は六郎右衛門尉の実子ではないと考えられる太田永厳が継ぎ、扇谷上杉氏の家宰も務めたという。しかし、大永4年(1524年)に永厳およびその息子・源六が相次いで死去した。これにより道灌の嫡流であったこの系統が没落し、江戸・岩槻太田氏が台頭したとする見方もある[9]

掛川太田氏

太田康資の娘とされる家康側室の英勝院は兄太田重正の子資宗を養子とし、譜代格として徳川秀忠に出仕させている。資宗は順調に出世し、徳川家光からの覚えも良く、六人衆(のちの若年寄)となり、さらには下野国山川藩1万5千石の藩主となる。奏者番などを歴任し、最終的には遠江国浜松藩3万5千石まで登りつめ、子孫は幕府の要職を歴任し、老中も輩出。江戸中期からは遠江国掛川藩主となり、明治維新を迎えた。

明治元年(1868年)、徳川宗家を藩主とする静岡藩が立藩されるのに伴い、掛川藩主資美は、上総国柴山藩に移封された。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で藩知事に任じられ、明治4年(1871年)1月に陣屋を松尾に移し、松尾藩に改称。7月の廃藩置県まで同藩知事を務めた[10]

明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家大名家が統合されて華族制度が誕生すると太田家も大名家として華族に列した[11][12]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事[注釈 2]として子爵に列せられた[14]

太田資業の代に太田子爵家の邸宅は東京市本郷区駒込千駄木町にあった[8]

現在は18代目を名乗る太田資暁が「江戸城天守閣を再建する会」の会長を務めている。

太田鍋島氏

また、資高の孫といわれる資元は佐賀の龍造寺家兼に従い、後に佐賀藩鍋島氏の縁戚となり家老格太田鍋島氏として廃藩置県まで続いている。

清和源氏頼親流太田氏

大和源氏の祖である源頼親の後裔で、摂津国島下郡太田(現在の大阪府茨木市)を本拠とした。平安時代末期に登場する太田頼基が知られ、代々太田城を居城とした。

桓武平氏繁盛流大掾氏一門東條氏系

桓武平氏繁盛流大掾氏一門の東條氏の庶家常陸国久慈郡太田郷(現在の茨城県常陸太田市)を居城とした。

三善流太田氏

鎌倉幕府問注所執事・三善康信の子康連が、鎌倉時代中期に備後国世羅郡太田(現在の広島県世羅郡世羅町)を与えられ、名字を太田とした。同族の町野康持の失脚後に問注所執事に任ぜられて、子孫は代々、問注所執事を世襲し、康連の孫・太田時連は『吾妻鏡』の主要な編纂者の1人と目されている。

時連は建武政権でも重用されたが後に足利尊氏に従い活躍して室町幕府の初代問注所執事となり、時連の同族の太田顕連(康連の玄孫・時連の従兄弟の孫)も建武式目の制定に関与した。

ところが、時連の孫・太田顕行は観応の擾乱の際に足利直義を支持した影響で足利義詮が将軍になると問注所執事の地位を失い、鎌倉に移って鎌倉府に出仕した。しかし、顕行の子・太田長康の時代になって再び京都に召し出された(長康の一族の中にはそのまま鎌倉府・後北条氏に仕えた者もいたが、源姓太田氏に圧倒されていく)。長康は室町幕府の評定衆・神宮方頭人に起用されているが、長康の後を継いだ嫡男の太田康雄は不祥事を重ねて将軍・足利義教に処分されるとそのまま鎌倉の足利持氏を頼って出奔し、室町幕府と鎌倉府の対立の一因となった。嘉吉の変で義教が殺害された後、義教に処分された者の多くが赦されたが、康雄とその子孫は以前の不祥事の影響で赦免が得られず[15]、義教が任じた同族の町野氏が引き続き評定衆を務めることになり、太田氏の嫡流は没落したとされる[16]

顕行の弟の太田時直は周防国玖珂郡椙杜郷を与えられて移住してその一族は、椙杜氏を名乗り、大内氏毛利氏に仕え、後に長府藩筆頭家老となった。

藤原秀郷流太田氏

藤原秀郷の後裔で、武蔵国埼玉郡太田荘(現在の久喜市加須市羽生市さいたま市岩槻区)を本拠とした一族。小山氏・下河辺氏・大河戸氏を出した。

祖は太田大夫・太田別当と呼ばれた太田行尊(行隆)。太田荘を開発したとみられ、行政━行光━行広━行朝と続いた。行朝は源頼朝に従い、野木宮合戦に参加し、これにより太田荘を安堵されたと考えられる。しかし建久5年(1194年)6月に、行朝は久伊豆神社の神人を殺傷したとみられ、神人側が抗議して頼朝が二階堂行光を派遣し仲裁する事態となり、行朝は太田荘の荘司職を没収された。以後小山氏など庶家は活躍するが、惣領たる秀郷流太田氏は没落してしまった(『久喜市史』、『鷺宮町史』)。

系譜

太字は当主、実線は実子、点線は養子。

清和源氏頼光流

清和源氏頼親流

三善流

藤原北家秀郷流

脚注

  1. ^ 南桑田郡太田村、薭田野村太田。亀岡市立南桑中学校の所在地。
  2. ^ 旧松尾藩は現米1万9540石(表高5万37石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[13]
  1. ^ a b 太田 1934, p. 1189.
  2. ^ 太田 1934, p. 1188.
  3. ^ 太田 1934, p. 1193.
  4. ^ 太田 1934, p. 1195.
  5. ^ a b 太田 1934, p. 1199.
  6. ^ 太田 1934, pp. 1194–1195.
  7. ^ a b 太田 1934, pp. 1189–1190.
  8. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 245.
  9. ^ 黒田基樹「江戸太田氏と岩付太田氏」(初出:『北区史研究』1号(1992年)/所収:黒田 編『論集戦国大名と国衆12 岩付太田氏』(2013年、岩田書院))
  10. ^ 新田完三 1984, p. 761.
  11. ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
  12. ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
  13. ^ 浅見雅男 1994, p. 152.
  14. ^ 小田部雄次 2006, p. 329.
  15. ^ 嘉吉の乱後、畠山持国らによって足利義教に処罰された人々の赦免が進められたが、太田康雄の場合は息子が六角氏の関係者と喧嘩して死亡したり、他の息子が陰謀を企てたとして逮捕されたりした経緯があったため、赦免の対象から外されて町野氏や摂津氏が太田氏の役割を務めることになった(木下、2018年、P319-321)。
  16. ^ 木下聡「室町幕府下の大田氏」義堂の会編『空華日用工夫略集の周辺』2017年、義堂の会/改題所収:木下「太田氏」『室町幕府の外様衆と奉公衆』同成社、2018年。 ISBN 978-4-88621-790-5 2018年、P313-326.
  17. ^ 資高の孫。肥前国の龍造寺家兼に仕える。真偽不詳。肥前田中城跡に「太田美濃守藤原資元公」の石像あり。
  18. ^ 家豊?
  19. ^ 室は鍋島直茂養女。
  20. ^ 以降、鍋島姓の名乗りを許される。他の竜造寺旧家臣家同様に、佐賀藩による旧竜造寺家臣の完全家臣化政策の一環。
  21. ^ 秀郷の曾孫・兼光から小山政光までの系譜(秀郷流太田氏の系譜)は諸書で異同が多い。

参考文献

関連項目


太田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 19:53 UTC 版)

小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「太田氏」の解説

小諸入封後の功臣として抜擢家老に。新興家臣代表格から家老格式を持つ家柄に。ほかに大胡在城期に仕えていた先祖を持つという中・下士分の太田氏もある。太田姓の家臣士分)は計5家。 元和年間家臣団名簿大胡ヨリ長峰御引越御人数帳」に太田姓をみることができず、牧野康道分限帳史料学初見である。よって牛久保以来四天王家(加藤稲垣真木牧野)及び大胡以来木俣氏などとは異なり、太田氏は古参家臣ではない。実は、太田氏は幕藩体制確立期まで生き残れずに、禄を失った貴家出身者庶子浪人者)を、与板立藩にあたり新規採用したのである貴家趣味)。 家祖長岡家臣太田氏の家祖兄弟可能性もあるが、小諸家臣太田氏と、長岡家臣太田氏の続柄に関する確実な史料存在しない。太田氏は、小諸移封前後120であったが、正徳6年1716年用人加判となった太田甚右衛門は、享保7年1722年家老職(250石)に抜擢され元文6年1741年)に数え75歳死亡するまで、ほぼ現役であったなんらかの功臣として、象徴的存在とされ、終身官近く遇されとみられる中興の祖である太田甚右衛門亡きあとは、太田氏分家当主出奔して、同分家が改易取り潰しになり、縁坐懲戒処分受けたことがあるほかは、幕末混乱期までは、おおむね安泰であった寛政期用人加判勤めた太田次郎右衛門は、出戻った藩主康満の女子八十)を寛政5年4月29日継室として迎えたが、同年6月2日、僅か1ヶ月余り離別。後に八十は、遠江国秋葉山秋葉神社宮司に、3度目輿入れとなった小諸惣士草高成立時小諸家臣太田惣領家持高200石であり、他に3家の分家・支族と、1人部屋住み召し出しがあった可能性がある。持高67石以上(実質100石以上)の家は、この時点では惣領家のみであった幕末家老太田忠太一道異に忠太)の3代前は、文化年間家老職勤めた2代前は、用人加判まで進んだが、家老職目前にして病身称して致仕。実は天保3年12月22日、酒を飲み暴れて群衆が集まる騒動となり、失脚したといえるが、持高減石格式降格はならず済んだ。1代前は、その配下が、上級家臣成瀬氏配下争い刃傷事件(あるいは発砲事件)をおこして殺人犯した推察される記事があるほか、太田惣領家庶子非行があり、縁坐適用を受ける処罰受けた。これらの監督責任問われ用人加判まで進んでいたが家老職はならず失脚したとみられる。しかし、懲戒処分による格式降格減石は、免れることができた。太田忠太一道の1代前と2代前は養子相続であり養親子間の年齢近かった太田忠太一道異に忠太)は、幕末小諸騒動渦中藩主動かし2人家老等を失脚させた一方派閥重鎮である。すなわち家老牧野隼人成聖家老加藤六郎兵衛成美用人村井藤左衛門盛徳等は、9代藩主嫡子廃立企てたとの疑いがあるとされて、10代藩主治世になってから、罷免された。太田忠太一道は、その後任の家老職就任した一部解説によると、牧野隼人成聖太田忠太一道屋敷馬場町にあり、隣家であったとあるが、小諸城下屋敷図などを参照すると、牧野隼人成聖太田忠太一道屋敷は、近隣であったことには、疑いないが、完全な隣家であったとするには、無理があることがわかる。太田屋敷は、馬場周辺に見ることができる(但し屋敷内外にあった給人地が接してたかどうかは、史料がなく不詳)。牧野隼人成聖屋敷に、接した隣家当時牧野隼人成聖屋敷位置から見て大手門現在の信濃鉄道線路寄り)の太田氏は、別家系の太田氏であったことが確認できる太田貞夫正誉の屋敷であった)。 明治元年1868年太田忠太一道異に忠太)は、同志牧野八郎左衛門成道等の斬首刑執行されたとき、江戸藩邸にいたが出奔し笠間藩江戸藩邸逃げ込んだ。この時、小諸藩江戸藩邸当直であった真木力太則徳等が、一報聞いて、太田氏を逃したためである。加藤牧野馬派失脚後明治2年9月ごろ)に帰参し、禁固刑処せられたが明治3年9月21日赦免状出された。家督は、孫にあたる養子太田盤泉道義によって相続され士分上禄列した。太田氏は廃藩後小諸銀行頭取旧藩士族会長などを勤めた士族により設立運営され部分大き小諸銀行は、やがて行き詰まり太田一道道一)は出郷して東京下町東京市深川区)で余生過ごした太田一道道一)の父の代までの墓は、小諸市古城二丁目南側隣地(同市乙・境界未確定地)に、いまなお現存しているが、太田一道道一)の墓碑銘のある墓は、同地には存在しない。 なお懐古園の額には太田一道ではなく太田道一と書かれている。 太田氏は、太田忠太一道庶子太田黄吉道教が、廃藩直前明治3年に、別家召し出し新恩給付となり、士分下禄に列した太田黄吉道教は、小諸藩明倫堂勤務(最高時明倫堂次席)を経て明治4年神祇官宣教掛として出仕のため上京神道儒教基本とした国民教導尽力した出郷にあたり若輩太田糠に一時家督譲った士分下禄格式10代藩主治世時の持高50石・給人格。士分下禄は中禄の誤り非ず)。 また太田早苗家の家祖は、はじめ太田氏の惣領であった病弱とみられ家督しなかったが、持高20石で、別家召し出し新恩給付受けている。実子がなかったものとみられ、宝永7年、故あって佐々木氏長男によって跡式相続されている(佐々木系太田氏の誕生)。 太田家中興の祖である太田甚右衛門の兄を祖とする分家太田早苗道喜は、維新期には、士分中禄に列した。この家系は、小諸惣士草高成立時持高42石・馬廻り格。9代藩主による改革後持高50石・給人格であり、持高減石される改革が行われた中で、逆行高しているため、班を進めていることがわかる。 ほかに微禄の太田氏2家が立てられ維新期に太田兵衛左門正徳と、太田貞夫正誉が士分下禄に列した。この2家系は、共に小諸惣士草高成立時持高28石(9代藩主による改革後持高20石・中小姓格)であり、代官と、料理方役職就任した者が目立つが、これらの役職就任する定番家柄というわけではない。太田兵衛左衛門家系と、太田貞夫家系は、古参ともいわれるが、佐々木系太田氏であるため、古参称しているのか、大胡以来古参足軽・卒分の太田氏が、昇格して下級士分取り立てられたものなのかは、定かではない現存する与板藩牧野氏足軽分限古参足軽家譜中には太田姓の卒分が存在しない

※この「太田氏」の解説は、「小諸藩牧野氏の家臣団」の解説の一部です。
「太田氏」を含む「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事については、「小諸藩牧野氏の家臣団」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「太田氏」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「太田氏」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「太田氏」の関連用語

太田氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



太田氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの太田氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの小諸藩牧野氏の家臣団 (改訂履歴)、浄法寺氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2025 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2025 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS