太田氏と大宮潮田氏
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1477年4月 太田道灌は豊島氏を討ち、豊島氏旧領豊島・足立(潮田氏領地含む)・新座・多東の四郡五万七千余石を所領とした。 1560年 太田家の末裔太田資正は、大宮の在地領主であった潮田常陸介に娘しかいなかったことから、4男の太田資忠を婿入りさせ同時に側室の紅花姫を潮田常陸介に娶らせた。太田資忠は太田家より足立郡大宮、浦和、木崎、潮田家領地の橘樹郡潮田郷合わせて十万石を拝領、潮田出羽守資忠として寿能城を築城し城主となった。 同年、太田新六郎康資の武蔵国橘樹郡潮田郷知行の時、東潮田村の杉山社、西潮田村の御嶽社を太田氏の領地神社として、社殿を改築し社頭を整備した。この事から1200年以降1560年まで潮田郷が潮田氏の領地であったことがうかがえる。 1567年 潮田資忠の実兄である太田氏資が嫡男無く討死したため、後北条氏第4代当主 北条氏政の三男 北条国増丸が氏資の娘を娶り、太田家代々の名乗りである源五郎を襲名し太田氏を継いだ。その源五郎の死亡後 1585年 源五郎の実弟・北条氏房が兄の未亡人(氏資の娘)を娶って太田氏の家督を継いだ。これらにより太田氏は後北条の一族となる。 1590年 太田(北条)氏房と潮田(太田)資忠は後北条方として小田原城に籠城。 潮田資忠・長男 潮田資勝は小田原城にて蓮池門の警護、外郭の井細田口の守備を担当し討死する。太田氏房は隣の久野口を担当した。 同年 浅野長政と本多忠勝が豊臣軍二万を率い岩槻城と寿能城を落城。潮田資忠の娘の能姫は見沼に入水。次男の潮田資政は寿能城より脱出し、伯父の太田資武の元で元服までの間庇護を受け、1602年 土井利勝に仕え古河藩家老となる。潮田資政は現 鷹見泉石記念館に居住した。潮田家家臣加藤大学はやがて潮田家の信仰した武蔵一宮氷川神社の宮司となり、主君資忠、資勝、能を弔った。 1738年 資忠没後150年の命日にあたる元文3年4月18日、古河藩家老潮田勘右衛門資方(資忠6世嫡)は城内物見塚跡に墓碑を建立(さいたま市寿能公園内に現存。墓碑の家紋は実父太田道灌と同じ丸に細桔梗)した。古河潮田家として今に続く。
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