太田氏と大宮潮田氏とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 太田氏と大宮潮田氏の意味・解説 

太田氏と大宮潮田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 04:44 UTC 版)

潮田氏」の記事における「太田氏と大宮潮田氏」の解説

1477年4月 太田道灌豊島氏討ち豊島氏旧領豊島足立(潮田氏領地含む)・新座・多東の四郡五万七千余石を所領とした。 1560年 太田家末裔太田資正は、大宮在地領主であった潮田常陸介に娘しかいなかったことから、4男の太田資忠婿入りさせ同時に側室紅花姫を潮田常陸介に娶らせた。太田資忠太田家より足立郡大宮浦和木崎潮田家領地の橘樹郡潮田合わせて十万石を拝領潮田出羽守資忠として寿能城築城し城となった同年太田新六郎康資の武蔵国橘樹郡潮田知行の時、東潮田杉山社、西潮田御嶽社太田氏領地神社として、社殿改築し社頭整備した。この事から1200年以降1560年まで潮田郷が潮田氏領地であったことがうかがえる1567年 潮田資忠実兄である太田氏資嫡男無く討死したため後北条氏4代当主 北条氏政三男 北条増丸が氏資の娘を娶り、太田家代々名乗りである源五郎襲名し太田氏継いだ。その源五郎死亡後 1585年 源五郎実弟北条氏房が兄の未亡人(氏資の娘)を娶って太田氏家督継いだ。これらにより太田氏後北条一族となる。 1590年 太田(北条)氏房と潮田(太田)資忠は後北条方として小田原城籠城潮田資忠長男 潮田資勝は小田原城にて蓮池門の警護外郭井細田口の守備担当し討死する。太田氏房は隣の久野口を担当した同年 浅野長政本多忠勝豊臣軍率い岩槻城寿能城落城潮田資忠の娘の能姫は見沼入水次男潮田資政は寿能城より脱出し伯父太田資武の元で元服までの間庇護を受け、1602年 土井利勝仕え古河藩家老となる。潮田資政は現 鷹見泉石記念館に居住した潮田家家加藤大学はやがて潮田家の信仰し武蔵一宮氷川神社宮司となり、主君資忠、資勝、能を弔った1738年 資忠没後150年命日にあたる元文3年4月18日古河藩家老潮田勘右衛門資方(資忠6世嫡)は城内物見塚跡に墓碑建立(さいたま市寿能公園内現存墓碑家紋実父太田道灌と同じ丸に桔梗)した。古河潮田家として今に続く。

※この「太田氏と大宮潮田氏」の解説は、「潮田氏」の解説の一部です。
「太田氏と大宮潮田氏」を含む「潮田氏」の記事については、「潮田氏」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「太田氏と大宮潮田氏」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「太田氏と大宮潮田氏」の関連用語

1
16% |||||

太田氏と大宮潮田氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



太田氏と大宮潮田氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの潮田氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS