太田玄達惟長子孫
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太田惟能(これよし)岩の助、玄達。玄達惟長の子、元文 3年(1738)生まれる。安永9年(1780)12月1日、初めて10代将軍徳川家治に拝謁。寛政4年(1792)7月15日、11代将軍徳川家斉の子供、竹千代を診療し、11月19日召されて御番医師に列し、扶持米200俵を賜う(55歳)。同5年2月18日寄合医師となり、大奥に仕し、5月21日奥詰医師に進み、22日竹千代に附属し、のち竹千代の逝去により7月16日に奥詰医師に復し、8月8日先に竹千代診療の時に日夜勤労せしにより、白銀10枚を賜う。9月15日若君家慶に附属せられ,12月16日法眼に叙せられる。同8年4月28日、先に家斉子供敦之助君生誕の時、勤めにより、白銀30枚を賜う。文化2年(1805)1月28日に没す。68歳。 太田惟刻(これまず)蔓(しげる)、元達、元禮、惟巌。 惟能の子、安永元年(1772)生まれる。寛政8年(1796)3月15日、25歳の時、11代将軍徳川家斉に拝謁す。天保2年(1831)4月19日職を解かる。同8年(1837)11月寄合医師太田玄達致仕して養子元禧に家督をゆずる。天保8年(1837)12月12日没す。 太田元禧(げんき)通称 惟隆 文化14年(1817)生まれる。天保8年(1837)11月16日太田惟刻の養子となる。実父鹿倉以仙、寄合医師。石高200俵。小児科。天保8年(1837)11月16日父惟刻(これまず)致仕して家を継ぐ。同14年寄合医師から奥詰医師。安政7年(1856)7月19日没す。44歳。 太田元禮道精 万延元年(1860)12月15日部屋住から召しだされ奥詰を仰せ付けられる。文久元年(1861)5月6日父の家督を継ぐ。元治元年(1864)12月2日、慶応4年(1868)奥詰医師。明治14年(1881)3月24日没す。 太田和太郎 生年不詳。大正4年(1915)6月朝鮮にて没す。妻ます 昭和20年11月没す。63歳。長女しのぶ(坂本家に嫁す)、長男精作。 太田精作 和太郎の子。大正3年(1914)生まれ。平成8年(1996)9月27日没す。82歳。長男和紀、長女昌子、次女ふじ子。 太田和紀 精作の子。昭和15年(1940)11月生まれ。 平成25年(2013)10月28日 没す。73歳。長女賀子、次女陽子、三女晶子
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