太田資武 (掛川藩嫡子)
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 宝暦13年7月2日(1763年8月10日) |
死没 | 天明4年8月25日(1784年10月9日) |
改名 | 伴之助、新六郎(幼名)、資武 |
戒名 | 道因日縁徳浄院 |
官位 | 従五位下大和守、采女正 |
藩 | 遠江掛川藩世嗣 |
氏族 | 太田氏 |
父母 | 太田資愛 |
兄弟 | 資武、資順、資言、正子、木下俊懋正室ら |
妻 | 松平定静娘 |
太田 資武(おおた すけたけ)は、江戸時代中期の遠江国掛川藩の世嗣。官位は従五位下・大和守、采女正。
略歴
宝暦13年(1763年)、2代藩主・太田資愛の長男として誕生(『寛政重修諸家譜』では宝暦11年(1761年))。幼名は伴之助、新六郎。正室は松平定静の娘。
安永6年(1777年)に徳川家治に拝謁し叙任する。しかし、家督相続前の天明4年(1784年)に死去した。法名は道因日縁徳浄院。
代わって次弟・資順が嫡子となった。
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