藤原秀郷流太田氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 19:35 UTC 版)
藤原秀郷の後裔で、武蔵国埼玉郡太田荘(現在の久喜市・加須市・羽生市・さいたま市岩槻区)を本拠とした一族。小山氏・下河辺氏・大河戸氏を出した。 祖は太田大夫・太田別当と呼ばれた太田行尊(行隆)。太田荘を開発したとみられ、行政━行光━行広━行朝と続いた。行朝は源頼朝に従い、野木宮合戦に参加し、これにより太田荘を安堵されたと考えられる。しかし建久5年(1194年)6月に、行朝は久伊豆神社の神人を殺傷したとみられ、神人側が抗議して頼朝が二階堂行光を派遣し仲裁する事態となり、行朝は太田荘の荘司職を没収された。以後小山氏など庶家は活躍するが、惣領たる秀郷流太田氏は没落してしまった(『久喜市史』、『鷺宮町史』)。
※この「藤原秀郷流太田氏」の解説は、「太田氏」の解説の一部です。
「藤原秀郷流太田氏」を含む「太田氏」の記事については、「太田氏」の概要を参照ください。
- 藤原秀郷流太田氏のページへのリンク