藤原秀雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/20 07:50 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動藤原 秀雄(ふじわら の ひでお、生没年不詳)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。藤原南家、筑後守・藤原清岳の孫。従五位下・藤原八釣の子。官位は従五位下・典薬頭。
経歴
仁明朝の承和13年(846年)従五位下に叙爵し、承和15年(848年)大監物に任官する。のち、仁寿3年(853年)河内守に任ぜられると、貞観3年(861年)にも再任されるなど、文徳朝から清和朝初期にかけて河内守を務めた。
貞観5年(863年)典薬頭に遷り、貞観10年(868年)従五位上に至る。また、時期は不明ながら紀伊守を務めた。
官歴
『六国史』による。
- 時期不詳:正六位上
- 承和13年(846年) 正月7日:従五位下
- 承和15年(848年) 7月5日:大監物
- 仁寿3年(853年) 正月16日:河内守
- 貞観3年(861年) 正月13日:河内守
- 貞観5年(863年) 4月21日:典薬頭
- 貞観10年(868年) 正月7日:従五位上
- 時期不詳:紀伊守[1]
脚注
- ^ 『尊卑分脈』
参考文献
藤原秀雄(ふじわら の ひでお)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 18:37 UTC 版)
「応天の門」の記事における「藤原秀雄(ふじわら の ひでお)」の解説
医薬については門外漢だが、藤原家からの目付役として典薬寮へ配されている。
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