太田重正とは? わかりやすく解説

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太田重正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/03 18:43 UTC 版)

 
太田 重正
時代 戦国時代江戸時代
生誕 永禄4年(1561年
死没 慶長15年8月2日1610年9月18日
戒名 覚林院
墓所 静岡県三島市妙法華寺
主君 徳川家康
氏族 太田氏
父母 父:太田康資
高祖父:太田道灌
兄弟 妹:英勝院
都築秀綱娘(太田資宗母)
正重[注釈 1]井上政重室、資宗、橋本資宣、遠山資為[注釈 2]、荒尾久成室
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太田 重正(おおた しげまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将

一族

父は江戸太田氏の太田康資とされる。また、妹に徳川家康の側室の英勝院がいる。子に正重、資宗がいる。

経歴

重正の父とされる太田康資は、はじめ後北条氏に仕えたが、恩賞の不満から離反(諸説ある)し、第二次国府台合戦で大敗すると安房国里見氏の下に逃亡。のちに里見氏の内紛に巻き込まれて自害したとされている。

重正は父の死後、佐竹義重のもとへ赴き、同地に亡命していた同族の太田資正(岩槻太田氏)を頼って落ち延びたという。「重正」の名も義重と資正から1字ずつ与えられたものという推測もされている。のちに京都に移住したともいわれる。

1590年天正18年)の北条氏滅亡後、関東に移封されてきた徳川氏の家臣となった。翌1591年天正19年)、武蔵国豊島郡蓮沼において500石を与えられた[1]。死後に子の資宗が加増を重ね、大名下野山川藩)に列した。資宗は英勝院の養子となっていたので、その引き立てがあったとも考えられる。

重正の出自の疑義

重正の父親とされる太田康資は、江戸城築城で知られる太田道灌の曾孫である。しかし、重正が康資の実子であるかどうかは確証がない、とする説がある。康資の確実な実子の太田駒千代は後北条氏の人質となっていたが、康資が後北条氏から離反した際に自害させられ、墓所とされるものが現存する。また、妹の英勝院は一般的には康資の娘とされているが、この出自もまた確証が無い。太田氏の家系図に対して、資宗の代の頃に何らかの改竄が行われたとする説がある。

一方で、黒田基樹は康資存命中の天正7年(1579年)の文書[2]に重正が仮名・六郎として登場していることを指摘している[3]。これに従えば、重正の出自の疑義は解消されることになる。

脚注

注釈

  1. ^ 水戸徳川家家臣。
  2. ^ 旗本9百石。

出典

  1. ^ 『藩史大事典 第2巻 関東編』
  2. ^ 「紀伊国古文書藩中古文書十二」第2編475号
  3. ^ 黒田基樹『扇谷上杉氏と太田道灌』岩田書院、2004年、172頁。 



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