太田駒千代とは? わかりやすく解説

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太田駒千代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/12 14:54 UTC 版)

 
太田 駒千代
時代 戦国時代室町時代)後期
生誕 天文22年(1553年
死没 永禄7年8月28日1564年10月3日
戒名 花渓宗春大禅定門
墓所 静岡県熱海市医王寺
幕府 室町幕府
氏族 太田氏
父母 父:太田康資
母:太田下野守の娘?
兄弟 重正、御向井様、英勝院
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太田 駒千代(おおた こまちよ)は、戦国時代室町時代後期)の人物。太田康資長男

経歴

天文22年(1553年)、江戸城代・太田康資の長男として生まれる。母は不明だが、康資の正室・法性院が天文11年(1542年)生まれであることを考えると、彼女の子であるとは考え難い。黒田基樹は、駒千代の母は康資の側室・太田下野守の娘であった可能性が高いと指摘している[1]

永禄6年(1563年)末、駒千代の父・康資は北条氏から離反し里見氏の下へ走る。これがきっかけとなり、翌7年1月に国府台(千葉県市川市)で太田・里見連合軍と北条軍が激突(第二次国府台合戦)。結果、太田・里見方は大敗し、康資は里見氏に従って上総へ落ち延びた。

この時、駒千代は親元を離れ伊豆国熱海の医王寺に滞在していた。学問を修めるためであったとされるが、実際には北条氏への人質であったと考えられる[1]。国府台合戦の結果を受け、駒千代は同年8月28日に北条氏からの討ち手によって自決させられた。享年12歳。

脚注

出典

  1. ^ a b 黒田基樹『扇谷上杉氏と太田道灌』岩田書院、2004年、169頁。 



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