毛利氏 逸話

毛利氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/31 18:28 UTC 版)

逸話

  • 河内に隠棲した時親は楠木正成に兵法を教えたという伝承が残っている。
  • 江戸時代を通じて長州藩では倒幕が国是であるとの噂があった。昭和2年(1927年)、歴史学者の井野辺茂雄が『幕末史の研究』において、毛利家の家史編纂者である中原邦平から聞いた話として紹介する話では、毎月元日[73]、諸藩士が登城する前に藩主が「もうよかろうか」と言い、近臣が「まだお早う御座います」と返すという慣例的な儀式があったという[74]。ただしこれは古老による伝承であると断っており、「後世にはなかった」としている[74]。この俗話について、平成12年(2000年)当時の毛利家当主・毛利元敬は「あれは俗説」であると答え、「明治維新の頃まではあったのではないか」という問いには「あったのかもしれないが、少なくとも自分が帝王学を勉強した時にはその話は出なかった」と答えている[75]

家臣団

以下、主に戦国期(元就・隆元・輝元期)の家臣団を取り上げている。

一門衆

庶家衆

国衆

国衆

安芸国


備後国


石見国


周防国
長門国
筑前国
豊前国
肥前国
肥後国
紀伊国
  • 根来氏
    • 根来勢祐

家臣

家臣

安芸毛利氏以外の毛利家

越後毛利氏

安芸毛利氏とは経光を共通の先祖に分かれた同族。経光から越後国佐橋荘を継承した嫡男の基親に始まる。その孫・毛利経高の子孫(佐橋毛利氏)は代々、上杉氏に仕え越後(城主としては上野国沼田など)・会津(城主としては白河小峰)・米沢(城主としては荒砥)と移転した(北条毛利氏・安田毛利氏。江戸後半から安田が毛利を名乗り[注釈 4]宗家となる)。幕末の家老・毛利安積は上杉茂憲米沢県(のち置賜県)知藩事となると、大参事(知藩事に次ぐ副官。現在の副知事に当たる)に就任した[76][注釈 5][77]

佐伯毛利家

豊臣秀吉子飼の戦国武将毛利高政を祖とする佐伯毛利氏はもとは「森」という家名であり、安芸毛利氏と同族ではないが、同家の「毛利」の家名は毛利家の人質になっていた高政が毛利輝元から苗字をもらって森から改めたものである[78]

江戸時代には2万石の豊後国佐伯藩主として続き、毛利高謙の代の明治2年(1869年)に佐伯知藩事に転じたを経て、1871年(明治4年)の廃藩置県を迎えた[79]毛利高範の代の1884年(明治17年)7月8日に子爵に列した[9]。佐伯毛利子爵家の邸宅は東京市淀橋区柏木にあった[80]


注釈

  1. ^ 毛利庄とも。神奈川県愛川町から厚木市小鮎-村飯山飯山荻野-村; 上荻野中荻野下荻野南毛利南毛利村毛利台森の里などの地名が残る)にかけて。神奈川県厚木市下古沢三島神社に、「毛利季光屋敷跡 毛利氏發祥の地」の碑がある。
  2. ^ 広島県吉田町吉田
  3. ^ 毛利氏に内応した筑前秋月文種筑紫惟門原田隆種等であるが、文種は大友氏に攻め滅ぼされている。
  4. ^ 桓武平氏の安田氏(知行は1000石で大江姓安田より少ない)も米沢藩におり、区別する意味合いもある。
  5. ^ 上杉家中では甲斐武田が序列一位、能登畠山が序列二位であるが、毛利安積は千坂高雅らとともに京都藩邸で長州・土佐・薩摩など西国雄藩との交流があった。

出典

  1. ^ a b c d 沼田頼輔 1926, p. 324.
  2. ^ a b c d e f g h 日本大百科全書(ニッポニカ)『毛利氏』 - コトバンク
  3. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『小早川氏』 - コトバンク
  4. ^ 旺文社日本史事典 三訂版『吉川氏』 - コトバンク
  5. ^ 領知朱印状・領知目録「安芸 周防 長門 石見 出雲 備後 隠岐 伯耆三郡 備中国之内、右国々検地、任帳面、百拾二万石之事」(「毛利家文書」)
  6. ^ a b c d ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『毛利氏』 - コトバンク
  7. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『吉川氏』 - コトバンク
  8. ^ 小田部雄次 2006, p. 322.
  9. ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 338.
  10. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 345.
  11. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 351/353.
  12. ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 340.
  13. ^ 小田部雄次 2006, p. 62/65.
  14. ^ 『大日本史料』6編2冊849頁。建武2年12月26日条。「毛利文書」
  15. ^ 『大日本史料』6編37冊221頁。応安年6年4月8日2条。「毛利家文書」「入江文書」
  16. ^ 『史料総覧』9編909冊574頁。「萩藩閥閲録」「新裁軍記」
  17. ^ 『史料総覧』9編910冊412頁。「毛利家文書」「吉川家文書」
  18. ^ 『史料総覧』9編910冊437頁。 弘治3年4月2日条。「新裁軍記」
  19. ^ 『史料総覧』9編910冊442頁。弘治3年7月18日条「秋月高鍋家譜」「佐田文書」「大友家文書録」
  20. ^ 『史料総覧』9編910冊492頁。永祿3年2月21日条。「毛利家文書」・「新裁軍記」
  21. ^ 『史料総覧』9編910冊572頁。永祿6年8月4日条。「新裁軍記」
  22. ^ 『史料総覧』9編910冊646頁。永祿9年11月19日条。「佐々木文書」「毛利家文書」
  23. ^ a b c d 石川松太郎 et al. 1996, p. 292.
  24. ^ 『大日本史料』11編2冊77頁。天正10年7月17日条。「毛利家文書」。輝元は豊臣秀吉に信長死去に伴う弔意を伝えている。
  25. ^ 『大日本史料』11編2冊100頁。天正10年7月18日。「蜂須賀文書」。輝元は蜂須賀正勝に物を贈り、山崎の戦いの戦勝を祝った。
  26. ^ 『毛利家文書』天正19年(1591年)旧暦3月13日付(『大日本古文書 家わけ文書第8 毛利家文書之三』所収)
  27. ^ 『当代記』慶長元年「伏見普請之帳」安芸中納言の項
  28. ^ 『史料総覧』11編912冊329頁。天正19年4月是月条。「江系譜」「毛利家譜」
  29. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 16/294.
  30. ^ 光成 2016, p. 252.
  31. ^ a b c d e f g 石川松太郎 et al. 1996, p. 16.
  32. ^ a b 笠谷和比古『論争 関ヶ原合戦』〈新潮選書〉2022年、232-233頁。 
  33. ^ 光成 2016, p. 271.
  34. ^ 光成 2016, p. 275.
  35. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 16-17.
  36. ^ a b 石川松太郎 et al. 1996, p. 17.
  37. ^ 『史料総覧』11編913冊277頁。慶長5年10月10日条。「毛利家文書」
  38. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 294.
  39. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 295.
  40. ^ a b c 大久保利謙 1990, p. 26.
  41. ^ a b 石川松太郎 et al. 1996, p. 296.
  42. ^ a b c d e 日本大百科全書(ニッポニカ)『長州藩』 - コトバンク
  43. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 30.
  44. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 27-28.
  45. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 20.
  46. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『戸籍』 - コトバンク
  47. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 71.
  48. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 213.
  49. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 215-216・336.
  50. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 219.
  51. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 88.
  52. ^ 浅見雅男 1994, p. 102.
  53. ^ 小田部雄次 2006, p. 60/92.
  54. ^ 小田部雄次 2006, p. 95.
  55. ^ 浅見雅男 1994, p. 92.
  56. ^ 小田部雄次 2006, p. 57-58.
  57. ^ 松田敬之 2015, p. 731-732.
  58. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 356.
  59. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 3.
  60. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 254/409.
  61. ^ 小田部雄次 2006, p. 64.
  62. ^ 田尻 1927, p. 584.
  63. ^ 小田部雄次 2006, p. 212.
  64. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 22.
  65. ^ 毛利博物館(毛利邸)の歴史”. 毛利博物館. 2021年9月12日閲覧。
  66. ^ a b c d e 大久保利謙 1990, p. 21.
  67. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 202.
  68. ^ a b 大久保利謙 1990, p. 23.
  69. ^ 大久保利謙 1990, p. 24.
  70. ^ 大久保利謙 1990, p. 24/26.
  71. ^ 高澤 2008年、p. 190
  72. ^ 大野 2009年、p. 210
  73. ^ 原文ママ。『幕末史の研究』の記述においては、この儀式の後に「年賀の儀式に移る」とされている
  74. ^ a b 井野辺茂雄『幕末史の研究』(雄山閣、1927年)283-284頁
  75. ^ 「関ヶ原四〇〇年の恩讐を越えて」『文藝春秋』2000年10月号(毛利家71代当主毛利元敬、島津家32代当主島津修久、黒田家16代当主黒田長久、山内家18代当主山内豊秋、司会半藤一利)※毛利家では慣習上、天穂日命を初代として数えるため現当主は71代と公称している。
  76. ^ 「米沢藩戊辰文書」日本史籍協会編(東京大学出版会)
  77. ^ 上杉家文書『米沢藩家老 毛利上総 書簡巻物』
  78. ^ 新田完三 1984, p. 345.
  79. ^ 新田完三 1984, p. 347-348.
  80. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 166.






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