毛利氏 家訓

毛利氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/31 18:28 UTC 版)

家訓

毛利元就が三人の息子に宛て団結の精神を説いた「十四カ条の教訓状」は、三本の矢という逸話が生まれたことで有名である[68]。その団結の精神は家臣にも広げられ[68]、家臣を大切にというのが毛利家の基本方針であり、家臣もまた「殿様」を大切にした。その絆の強さが長州藩の特色だった[66]。萩の菩提寺である大照院と東光寺の藩主たちの墓の前に立ち並ぶ燈篭は、家臣の殉死をやめさせるために殉死の代わりに燈篭を収めさせたのが始まりであったという[66]。藩主と家臣、本家と分家の絆と団結力を支えたのは関ヶ原の戦いで中国地方八カ国120万石支配権の保証の密約が反故にされて防長二カ国36万石に削減された痛恨の歴史からくる「反幕府」の想いがあった[69]。この毛利家と家臣たちの絆の強さが長州藩を薩摩藩と並ぶ近代日本の夜明けをもたらす原動力に押し上げた[70]

通字と元服時の名前

毛利元就軍幟

毛利家では、元服時に通字である「」(もと)のついた名()を名乗るのが慣例となっていた(家祖である大江広元にちなむ)。家督継承者(当主となる嫡子)は山名氏大内氏豊臣家・将軍家(足利徳川)など有力者の偏諱を受け「○元」(山名時熙の偏諱を受けた熙元山名是豊の偏諱を受けた豊元大内政弘の偏諱を受けた弘元大内義興の偏諱を受けた興元大内義隆の偏諱を受けた隆元室町幕府第13代将軍足利義輝の偏諱を受けた輝元)と名乗り、次男以降は当主となった兄から偏諱(元の1字)を受ける形で「元○」(兄興元の偏諱を受けた元就、兄隆元の偏諱を受けた吉川元春など)と名乗った。輝元の従弟にあたる毛利秀元も一時期輝元の養嗣子であったため「○元」の名乗り方で元服し、豊臣秀吉の偏諱を受けた。その後、輝元には秀元に代わって世子となる実子の秀就が生まれ、豊臣秀頼の偏諱を受けたが、秀元と名乗りの重複を避けるため元就の1字を取っている。また、豊臣政権時代は豊臣の氏羽柴の名字をともに賜った。

秀就の子・綱広以降の江戸時代には偏諱を受ける相手は徳川将軍となり(称松平・賜偏諱の家格とされた)、世子は元服時に将軍の偏諱(○)を受け、「○元」などと名乗る習わしとなったが、秀就をきっかけに「○元」と名乗る慣例は崩れ、他に「○広」「○就」「○房」「○親」「○熙」など祖先にちなむ字を使用するケースもみられるようになった。ところが幕末には、13代長州藩主・慶親(67代)と世子・定広(68代)が、禁門の変の処分としてそれぞれ慶・定の字(徳川家慶家定からの偏諱)を剥奪の上、敬親・広封と改名させられた(広封は明治維新後に元徳と改名)。

大政奉還後、華族最高位の公爵を授爵された毛利氏は、身分的に徳川氏の風下に立つことはなくなり、誰からも偏諱を受けることはなくなった。また、明治5年太政官布告149号(通称実名併称禁止)により毛利家においては諱を名乗ることとなり、同年太政官布告235号(改称禁止令)により出生時の命名が基本となり、元服時に新たに名を付けることは禁止された。以後歴代、出生時に(元)を頭に据え「元○」の形で名づけることとなった。

家紋

毛利家の家紋は、定紋を「一文字に三つ星(一文字三星)」、替紋を「長門沢瀉」(ながとおもだか)とする[1]。下賜された紋としては、十六菊(正親町天皇から)と五七桐(足利義昭から)がある。具体的な使用は不明であるが、『見聞諸家紋』で安芸毛利として掲載されている紋は「吉文字に三つ星」である。同史料では一文字に三つ星も長井・竹藤・萩とともに連名で掲載されている。

定紋の「一文字に三つ星」は別名、長門三つ星ともいうが、同図案の家紋は長門毛利氏に限らず長井氏などの大江氏の氏族によって使用されている[1]。分家筋の徳山藩、府中藩の毛利家も同様の構図で一文字の図案を少し変えた一文字に三つ星を使用している。「一文字に三つ星」を分解すると、一文字は「かたきなし」(無敵)の意味を持ち、三つ星は軍神として信仰のあった将軍星(オリオンのベルト)を表している。全体的な形は、律令制における最高位を意味する「一品」(いっぽん)という文字を表している[71]

替紋の「長門沢瀉」は沢瀉紋の抱き沢瀉であり、中央の花序を抱くように2つの沢瀉の葉が描かれている。毛利元就が戦の前に勝虫であるトンボが勝戦草であるオモダカに止ったことを見て戦勝したことに因んで、家紋として使われたものである。関ヶ原の戦い以降は、定紋の一文字三つ星に替って徐々に使用頻度を増やした[72]


注釈

  1. ^ 毛利庄とも。神奈川県愛川町から厚木市小鮎-村飯山飯山荻野-村; 上荻野中荻野下荻野南毛利南毛利村毛利台森の里などの地名が残る)にかけて。神奈川県厚木市下古沢三島神社に、「毛利季光屋敷跡 毛利氏發祥の地」の碑がある。
  2. ^ 広島県吉田町吉田
  3. ^ 毛利氏に内応した筑前秋月文種筑紫惟門原田隆種等であるが、文種は大友氏に攻め滅ぼされている。
  4. ^ 桓武平氏の安田氏(知行は1000石で大江姓安田より少ない)も米沢藩におり、区別する意味合いもある。
  5. ^ 上杉家中では甲斐武田が序列一位、能登畠山が序列二位であるが、毛利安積は千坂高雅らとともに京都藩邸で長州・土佐・薩摩など西国雄藩との交流があった。

出典

  1. ^ a b c d 沼田頼輔 1926, p. 324.
  2. ^ a b c d e f g h 日本大百科全書(ニッポニカ)『毛利氏』 - コトバンク
  3. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『小早川氏』 - コトバンク
  4. ^ 旺文社日本史事典 三訂版『吉川氏』 - コトバンク
  5. ^ 領知朱印状・領知目録「安芸 周防 長門 石見 出雲 備後 隠岐 伯耆三郡 備中国之内、右国々検地、任帳面、百拾二万石之事」(「毛利家文書」)
  6. ^ a b c d ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『毛利氏』 - コトバンク
  7. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『吉川氏』 - コトバンク
  8. ^ 小田部雄次 2006, p. 322.
  9. ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 338.
  10. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 345.
  11. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 351/353.
  12. ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 340.
  13. ^ 小田部雄次 2006, p. 62/65.
  14. ^ 『大日本史料』6編2冊849頁。建武2年12月26日条。「毛利文書」
  15. ^ 『大日本史料』6編37冊221頁。応安年6年4月8日2条。「毛利家文書」「入江文書」
  16. ^ 『史料総覧』9編909冊574頁。「萩藩閥閲録」「新裁軍記」
  17. ^ 『史料総覧』9編910冊412頁。「毛利家文書」「吉川家文書」
  18. ^ 『史料総覧』9編910冊437頁。 弘治3年4月2日条。「新裁軍記」
  19. ^ 『史料総覧』9編910冊442頁。弘治3年7月18日条「秋月高鍋家譜」「佐田文書」「大友家文書録」
  20. ^ 『史料総覧』9編910冊492頁。永祿3年2月21日条。「毛利家文書」・「新裁軍記」
  21. ^ 『史料総覧』9編910冊572頁。永祿6年8月4日条。「新裁軍記」
  22. ^ 『史料総覧』9編910冊646頁。永祿9年11月19日条。「佐々木文書」「毛利家文書」
  23. ^ a b c d 石川松太郎 et al. 1996, p. 292.
  24. ^ 『大日本史料』11編2冊77頁。天正10年7月17日条。「毛利家文書」。輝元は豊臣秀吉に信長死去に伴う弔意を伝えている。
  25. ^ 『大日本史料』11編2冊100頁。天正10年7月18日。「蜂須賀文書」。輝元は蜂須賀正勝に物を贈り、山崎の戦いの戦勝を祝った。
  26. ^ 『毛利家文書』天正19年(1591年)旧暦3月13日付(『大日本古文書 家わけ文書第8 毛利家文書之三』所収)
  27. ^ 『当代記』慶長元年「伏見普請之帳」安芸中納言の項
  28. ^ 『史料総覧』11編912冊329頁。天正19年4月是月条。「江系譜」「毛利家譜」
  29. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 16/294.
  30. ^ 光成 2016, p. 252.
  31. ^ a b c d e f g 石川松太郎 et al. 1996, p. 16.
  32. ^ a b 笠谷和比古『論争 関ヶ原合戦』〈新潮選書〉2022年、232-233頁。 
  33. ^ 光成 2016, p. 271.
  34. ^ 光成 2016, p. 275.
  35. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 16-17.
  36. ^ a b 石川松太郎 et al. 1996, p. 17.
  37. ^ 『史料総覧』11編913冊277頁。慶長5年10月10日条。「毛利家文書」
  38. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 294.
  39. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 295.
  40. ^ a b c 大久保利謙 1990, p. 26.
  41. ^ a b 石川松太郎 et al. 1996, p. 296.
  42. ^ a b c d e 日本大百科全書(ニッポニカ)『長州藩』 - コトバンク
  43. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 30.
  44. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 27-28.
  45. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 20.
  46. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『戸籍』 - コトバンク
  47. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 71.
  48. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 213.
  49. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 215-216・336.
  50. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 219.
  51. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 88.
  52. ^ 浅見雅男 1994, p. 102.
  53. ^ 小田部雄次 2006, p. 60/92.
  54. ^ 小田部雄次 2006, p. 95.
  55. ^ 浅見雅男 1994, p. 92.
  56. ^ 小田部雄次 2006, p. 57-58.
  57. ^ 松田敬之 2015, p. 731-732.
  58. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 356.
  59. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 3.
  60. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 254/409.
  61. ^ 小田部雄次 2006, p. 64.
  62. ^ 田尻 1927, p. 584.
  63. ^ 小田部雄次 2006, p. 212.
  64. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 22.
  65. ^ 毛利博物館(毛利邸)の歴史”. 毛利博物館. 2021年9月12日閲覧。
  66. ^ a b c d e 大久保利謙 1990, p. 21.
  67. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 202.
  68. ^ a b 大久保利謙 1990, p. 23.
  69. ^ 大久保利謙 1990, p. 24.
  70. ^ 大久保利謙 1990, p. 24/26.
  71. ^ 高澤 2008年、p. 190
  72. ^ 大野 2009年、p. 210
  73. ^ 原文ママ。『幕末史の研究』の記述においては、この儀式の後に「年賀の儀式に移る」とされている
  74. ^ a b 井野辺茂雄『幕末史の研究』(雄山閣、1927年)283-284頁
  75. ^ 「関ヶ原四〇〇年の恩讐を越えて」『文藝春秋』2000年10月号(毛利家71代当主毛利元敬、島津家32代当主島津修久、黒田家16代当主黒田長久、山内家18代当主山内豊秋、司会半藤一利)※毛利家では慣習上、天穂日命を初代として数えるため現当主は71代と公称している。
  76. ^ 「米沢藩戊辰文書」日本史籍協会編(東京大学出版会)
  77. ^ 上杉家文書『米沢藩家老 毛利上総 書簡巻物』
  78. ^ 新田完三 1984, p. 345.
  79. ^ 新田完三 1984, p. 347-348.
  80. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 166.






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