毛利氏 毛利氏の概要

毛利氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/31 18:28 UTC 版)

毛利氏
一文字三星(長門星)[1]
本姓 大江氏季光流
家祖 毛利季光
種別 武家
華族公爵
出身地 相模国愛甲郡毛利莊[注釈 1]
主な根拠地 越後国佐橋荘南条
安芸国高田郡吉田荘[注釈 2]
安芸国広島城
長門国
周防国山口
東京府東京市
山口県防府市
著名な人物 毛利元就
毛利隆元
毛利輝元
毛利敬親
毛利元徳
支流、分家 徳山毛利家(武家・子爵)
長府毛利家(武家・子爵)
清末毛利家(武家・子爵)
右田毛利家(武家・男爵)
吉敷毛利家(武家・男爵)
厚狭毛利家(武家・士族)
阿川毛利家(武家・士族)
大野毛利家(武家・士族)
桂氏(武家・公爵)
福原氏(武家・男爵)
越後北条氏(武家)など
凡例 / Category:日本の氏族

安芸毛利氏は戦国時代西国の覇者と呼ばれた戦国大名毛利元就を出して安芸を中心に中国地方山陽道山陰道)10カ国を領し、江戸時代には長州藩主として長門国周防国を領し、維新後は華族の公爵家に列した[2]。本稿では安芸毛利氏を中心に解説する。

概要

鎌倉幕府政所別当大江広元の四男で御家人の毛利季光を祖とする一族であり、名字の「毛利」は、季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利荘(もりのしょう、現在の神奈川県厚木市毛利台の周辺)を本貫としたことによる。中世を通して「毛利」は「もり」と読まれたが、後に「もうり」と読まれるようになった。

季光は宝治元年(1247年)の宝治合戦に際して三浦泰村に与して3人の子息とともに敗死。しかし、越後国佐橋荘(現在の新潟県柏崎市)と安芸国吉田荘(現在の広島県安芸高田市)を所領とした季光の四男・毛利経光は、この乱に関与しなかったため、その子孫が越後毛利氏(経光の嫡子・基親の系統)と安芸毛利氏(経光の四男・時親の系統)に分かれて存続した[2]

安芸毛利氏は、経光から吉田荘を譲与された四男・時親が、南北朝時代の初期に吉田郡山に移住して居城を構えたのに始まる[2]。吉田荘に移った安芸毛利氏は、室町時代に安芸の有力な国人領主として成長し、山名氏および大内氏の家臣として栄えた。

戦国時代毛利元就が出ると一代で大内氏や尼子氏を滅ぼしてその所領を獲得し、最盛期には山陽道山陰道10か国と九州北部の一部を領国に置く最大級の戦国大名に成長した[2]。元就の息子たちが養子に入った吉川氏小早川氏は戦国期に毛利本家の重臣として活躍し「毛利の両川(りょうせん)」と呼ばれた[3][4]

元就の死後、毛利輝元は将軍・足利義昭を庇護し、織田信長と激しく争った。だが、信長の死後、豊臣秀吉に従属して、安芸ほか8か国で112万石[5]朱印状で安堵された[2]。また、本拠を吉田郡山城から広島城に移す[2]。輝元はその後、五大老に就任する[6]

しかし、慶長5年(1600年)、輝元が関ヶ原の戦いで西軍の総大将となったことで、敗戦後に毛利氏は周防国長門国の2か国36万9000石に減封された[6]。慶長9年(1604年)に輝元は長門国阿武郡萩城に入城した[6]。以降江戸時代を通じてここを居城とした(ただし幕末に毛利敬親が藩庁を周防国の山口に移している[2])。国主(国持ち)の外様大名として雄藩の一つに数えられた。支藩として長府藩徳山藩清末藩があった[6]。吉川家の岩国藩は実質的には他の支藩と同様領地の自治が認められていたが、公的には長州藩主毛利家の家臣として扱われていたため、その領地は「岩国領」と称されていた[7]

江戸時代末期には、藩主・毛利敬親の改革が功奏し長州藩から数々の志士が現れ、明治維新を成就させる原動力となった。維新後に華族となり、長州藩の毛利宗家は公爵[8]、支藩の毛利家3家は子爵に列し[9]、毛利宗家の分家の毛利五郎[10]および一門家臣だった右田毛利家吉敷毛利家男爵に列した[11]。また、江戸時代初期に無嗣で改易されていた小早川家が毛利元徳の余子を当主にして再興され、この家も男爵に叙されている[12]。明治期には毛利公爵家は島津公爵家前田侯爵家に次ぐ富豪華族だった[13]

歴史

鎌倉時代から室町時代まで

毛利季光の墓

毛利季光大江広元の四男で相模国毛利荘を父から相続したため、毛利氏を称するようになった。したがって、毛利家・毛利氏としては季光を初代とするのが相当であるが、毛利家の慣習上、天穂日命を初代とするため、季光は39代とされている。

だが、季光は北条時頼の義父であったにもかかわらず、三浦泰村と結んで北条氏に反旗を翻したため、敗北して一族の大半が果ててしまった(宝治合戦)。越後にいた季光の四男・経光は合戦に関わらず、その家系が残った。同族の長井氏の尽力により越後・安芸の守護職を安堵された経光は、嫡男・毛利基親越後国刈羽郡佐橋荘南条を譲り、四男・時親に安芸国吉田荘を譲った。

毛利時親は鎌倉時代後期、京都の六波羅探題の評定衆を勤めたが、姻戚関係(義兄)のあった内管領長崎円喜執権北条高時に代わり、幕府で政権を握っているのを嫌って隠居し、料所の河内国へ隠棲する。

元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こり、足利尊氏らが鎌倉幕府を滅亡させるが、毛利時親は合戦に参加せず、後醍醐天皇により開始された建武の新政からも距離を置いたため、鎌倉幕府与党として一時領土を没収された[14]

南北朝時代には足利方に従い、時親の曾孫にあたる毛利元春が、室町幕府より九州の南朝勢力であった懐良親王の征西府を討伐するために派遣された今川貞世(了俊)の指揮下に入り活躍している[15]。元春は安芸に下向し、吉田郡山城にて吉田荘の統治を始め、隠居していた曽祖父の時親が元春を後見した。

戦国時代

毛利元就

安芸国国人として土着した毛利氏は一族庶家を輩出し、室町時代中期には庶家同士の争いが起きたものの、安芸国内では屈指の勢力になった。しかし、毛利煕元毛利豊元毛利弘元の時代には山名氏大内氏という大勢力の守護に挟まれ去就に苦労することになる。毛利興元毛利幸松丸の代には、大内氏と尼子氏とが安芸を巡って争い、安芸国内の国人同士の争いも頻発した。

毛利氏は当主の早死にが続いたこともあり勢力は一時衰えたが、興元の弟である毛利元就が当主となると、元就はその知略を尽くして一族の反乱や家臣団最大派閥の井上氏の粛清、石見国高橋氏など敵対勢力を滅ぼし[16]、さらに有力国人である安芸国の吉川氏に次男である元春を、小早川氏に三男の隆景を養子に入れて家を乗っ取るなど勢力を拡大する。元就は長男の毛利隆元に家督を譲ったのちも戦国大名として陣頭指揮を続け、大内義隆謀反し、大内氏を事実上乗っ取った陶晴賢を弘治元年(1555年)の厳島の戦いで破った[17]

弘治3年(1557年)、晴賢の傀儡であった大内義長を攻め滅ぼし[18]、大内氏の旧領をほぼ手中にする。その後は北部九州に侵入し、筑前国豊前国秋月氏や高橋氏を味方につけ[19][注釈 3]大友氏とも争った。同3年、吉川・小早川が安芸毛利当主家運営への参画、補佐することを条件に隆元(元就の長男)が毛利家の家督を継いだ。こうして、毛利当主家を吉川家と小早川家で支える体制が成立し領国支配を盤石なものとし、これを後世毛利両川体制と呼ばれることになった。永禄3年(1560年)には隆元が幕府から安芸守護に任じられている[20]

永禄6年(1563年)、隆元が早世し[21]、長男の毛利輝元が若くして家督を継ぐと、元就・元春・隆景が後見した。永禄9年(1566年)に輝元は元就とともに仇敵の尼子氏を滅ぼして[22]、中国路(安芸・周防長門備中備後因幡伯耆出雲隠岐石見)を領有し、西国随一の大名となった。さらに旧主家の残党である大内輝弘を退け(大内輝弘の乱)、尼子氏の残党にも勝利した。

さらに、輝元は織田信長に追放された将軍・足利義昭を庇護し、天下統一を目指す信長の西国侵攻に対する最大の抵抗勢力となり、覇を争った。だが、天正10年(1582年)に信長が本能寺の変により自害し、中国攻めの織田軍の指揮を執る羽柴秀吉中国大返しのために毛利家と和睦を結んだ[23][24][25]

桃山時代

毛利輝元

毛利輝元は秀吉に臣従し、天正13年(1585年)に安芸国備後国周防国長門国石見国出雲国隠岐国に加え、備中伯耆両国のそれぞれ西部を安堵された[23]朱印状における毛利家の総石高は112万石であり[23]、ほかに四国と九州で安国寺小早川が輝元とは別に所領を得た。

  • 天正19年(1591年)に豊臣秀吉から発給された領知朱印状・領知目録

「安芸 周防 長門 石見 出雲 備後 隠岐 伯耆三郡 備中国之内、右国々検地、任帳面、百拾二万石之事」[26]

内訳は

  • 2万石 寺社領
  • 7千石 京進方(太閤蔵入地)
  • 6万6千石 羽柴小早川侍従(隆景)、内1万石無役
  • 11万石 羽柴吉川侍従(広家)、内1万石無役
  • 隠岐国 羽柴吉川侍従
  • 10万石 輝元国之台所入
  • 8万3千石 京都台所入
  • 73万4千石 軍役  都合112万石[27]

豊臣秀吉の天下統一後、輝元は吉田郡山城から地の利の良い瀬戸内海に面した広島城を築城し、本拠を移した[28]。また、文禄4年(1595年)の秀次事件ののち、輝元は豊臣政権五大老の一人となった[23]

慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、政権内で台頭する徳川家康五奉行石田三成の対立が深まった[29]。翌慶長4年(1599年)に三成が失脚すると権力を増大させた家康が毛利氏の所領問題に介入したため、毛利氏と家康の対立関係が生じた[30]

福島正則黒田長政豊臣恩顧の有力大名が家康の味方に付く中で毛利輝元の政権内の立場も微妙なものとなっていった[31]。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにあたって輝元は西軍の総大将に推されて1万の兵を率いて大阪城に入り、西国大名に回状を送り、徳川方の大名と戦うことを求めた[32][33]。また養子の毛利秀元と一族の吉川広家を出陣させた。しかし広家は黒田長政を通じて決戦への不参加を条件に毛利家の所領の安堵の密約を家康との間に結び、9月15日の関ヶ原の戦いでは動かずに逆に友軍の長宗我部軍や長束軍を牽制して東軍の勝利に貢献した[31]。この密約を輝元や秀元が知らされたのは戦いが終わってのことだった[31]

関ヶ原の合戦は東軍の勝利に終わるが、大阪城にはその後も豊臣秀頼を擁する毛利輝元が残っており、毛利秀元や立花宗茂らはこの城に籠城して最後の決戦を挑むことを主張した[31]。これを恐れた家康は福島正則や黒田長政、井伊直政本多忠勝らを通じ、毛利家の本領安堵を条件に輝元の大阪城退去を広家に要求し、広家は輝元を説得。9月25日に約束を信じた輝元は大阪城を退去し、代って9月27日に家康が大阪城に入城し天下に号令する体制を整えた[31]。途端に家康の態度は一変して本領安堵の条件を反故にし[31]、輝元の西軍の総大将としての積極的な活動が明らかになったとして[34][32]、毛利家の所領全域を没収してそのうち一カ国か二カ国を広家に与えると通告してきた[31]。これに驚いた広家は改めて毛利家の所領の安堵を懇願し、受け入れられない場合は自害する決意を示した。結局、家康は毛利家の領国のうち防長二国のみを輝元に保証する誓書を与えた[35]

家康の欺瞞によって、最盛期には中国地方全域を支配し、120万石を領した毛利家は、四分の一でしかない周防国・長門国(長州藩)2か国29万8千石に領地を削られた[36][37]。輝元はこれと同時に家督を長男の秀就に譲り、仏門に入って法号を宗瑞と名乗ったが、このことは家康への怒りと先祖に詫びる気持ちがあったからだと考えられている[38]。後に西南の雄藩として幕末維新の政局を主導することになる長州藩の実力と気骨の底流には、この苦難の立藩を強いられて以来培われた負けん気と反徳川の精神風土があったといわれる[36]

江戸時代

江戸時代初期に毛利家が築城し、幕末まで毛利家の居城・長州藩庁として使用された萩城

1603年(慶長8年)10月に輝元が周防国山口の覚王寺に入った後(まだ城がなかったので)、毛利家は幕府に対して、新しい居城地として防府・山口・萩の3か所を候補地として伺いを出したところ、萩への築城を幕府に命じられた。瀬戸内海に面した便利なところは望ましくないということから萩への築城が命じられたものと思われる[39]。萩は交通に不便な地であった[40]萩城の工事は埋め立てから始めなければならず難航したが、慶長13年(1608年)に完成した[40]。以降萩城は毛利家の居城・長州藩庁となるが、幕末には多難な国事に対応するため地の利がいい山口に藩庁が移された[40]

萩城築城と同時に1607年(慶長12年)から1608年(慶長13年)にかけて領内の再検地をおこない、その結果53万9286石余と算出された。しかし幕府は敗軍の毛利家に高い表高は認めず、1613年(慶長18年)に公認したのは30パーセント減の36万9411石余だった[41][42]。以降この表高は明治維新まで変わることはなかったが[41]、その後の新田開発などにより、実高(裏高)は1625年寛永2年)の第二回検地では本藩と支藩を合わせて66万石[42][43]1686年(貞享3年)の本藩領だけの検地で63万石[42]1761年(宝暦11年)には本藩領検地だけで約71万石を検出[42]。この後には検地は実施されていないが、幕末期の内検高は100万石以上だったと推定されている[42]

1600年(慶長5年)に毛利秀元が長府藩、吉川広家が岩国藩、1617年(元和3年)には輝元の次男・毛利就隆が下松藩(後に徳山藩)、1652年(承応2年)には毛利秀元の三男・元知清末藩を立藩しており、長州藩の4支藩が成立した[44]

1719年(享保4年)には毛利吉元により藩校の明倫館が開かれ、長州藩の文教政策の中心的役割を果たすようになった[45]江戸時代中期、毛利重就が藩主になると、宝暦の改革とばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行われた。

江戸時代後期の1825年(文政8年)には長州藩で戸籍制度が創設された。この制度が明治政府により受け継がれ、京都に始まり、やがて全国民を対象とした戸籍制度が創設されることになる[46]文政12年(1829年)には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行っている。

毛利敬親1867年

毛利敬親(慶親)が藩主となった後の天保8年(1840年)以降、村田清風を登用した天保の改革を行われ、倹約による財政立て直しが図られるとともに下関港に「下関物産総会所」という大阪北海道日本海沿岸各地を行き来する他藩の船の積み荷を保管したり、販売を代行したり、資金を融通する公営の公益企業局を設置することで交易を盛んにして長州藩は大きな財力を付けた[47]。すでにこの時期産業革命を達成した西洋列強が日本近海にも勢力を伸ばし始めていたが、本州の西端にあって三方を海に囲まれている長州藩はこうした国際情勢に敏感であり、早くから洋学を積極的に取り入れて西洋医学を教える医学所などを次々と設立した[48]ペリー来航後には周布政之助が登用されて財政再建とともに西洋列強の外圧に対抗するため西洋の近代的軍制を模範とした軍制改革が実施された(安政の改革、安政の軍制改革)[49]。さらに1865年(慶応元年)には高杉晋作ら討幕派の政権が成立したことで幕府の再征に備えて大村益次郎を登用しての更なる軍制改革が進められた。特に士官教育システムの構築に力を入れ、短期間で優秀な士官を続々と輩出し、この後の対幕府戦でその力を大いに発揮した[50]

こうした一連の藩政改革が功を奏し、長州藩毛利家は幕末最大の雄藩の一つとなり、吉田松陰高杉晋作桂小五郎伊藤博文などの人材を輩出した。幕府から長州征討などによって圧迫を受けたものの、これを退けることに成功し、幕府は醜態をさらし続ける中で滅亡して明治維新が成就した[51]

明治以降

山口県防府市多々良の毛利博物館。1916年大正5年)に毛利公爵邸として建設された。

維新後、毛利元徳が山口藩知事に就任し、廃藩置県まで務めた[2]。毛利家の維新への多大な功績により、明治2年1869年)には毛利敬親毛利元徳がそれぞれ最高受領高の10万石の賞典禄を下賜された。他に10万石を下賜されたのは薩摩藩主の島津忠義とその父・島津久光だけであり、この4人のみに許された最大恩賞だった[52]。廃藩置県後に旧来の俸禄に代わり政府から支給された家禄は2万3276石であり、これに敬親と元徳の賞典禄のうち2万5000石分が加えられ、明治9年(1876年)に家禄と賞典禄に代えて発行された金禄公債の額は110万7755円に及んだ。この額は島津家(132万2845円)、前田家(119万4077円)に次ぐ第3位の高額だった[53]

明治10年(1877年)に華族たちによって第十五国立銀行が創設された際も毛利元徳は6425株を保有して島津忠義(7673株)、前田利嗣(6926株)に次ぐ大株主になっている[54]

明治17年(1884年)制定の華族令により華族が五爵制になった。叙爵内規上毛利宗家の家格のみでの爵位は旧大藩知事(現米15万石以上)として侯爵だったが[55]、維新への多大な功績が加味されて宗家は最上位の公爵に列せられた[56]。長州藩の支藩三藩(旧徳山藩、旧長府藩、旧清末藩)の藩主だった毛利家3家は旧小藩知事(現米5万石未満)として子爵に叙せられた[9]。旧岩国藩の吉川家ははじめ陪臣系諸侯と見做されて男爵だったが、維新の功により子爵に陞爵している[12]。毛利宗家の分家の毛利五郎[10]および長州藩の万石以上の一門家臣だった右田毛利家吉敷毛利家男爵に列した[11]。ただし一門家臣でも万石未満だった大野毛利家厚狭毛利家阿川毛利家の3家には叙爵はなかった[57]

また、江戸時代初期に無嗣で改易されていた小早川家毛利元徳の余子を当主にして再興され、この家も男爵に叙されている[12]。毛利家の旧臣である大村益次郎の孫・大村寛人子爵の養子に元徳の六男・徳敏が入ったため、これ以降大村益次郎家は実質的に毛利分家になっている[58]西園寺公望公爵の養子に元徳の八男・八郎が入っており、以降西園寺家も実質的に毛利分家となった[59]。他に秋元興朝子爵の養子に徳山毛利家の毛利元功子爵の三男・春朝、大岡忠量子爵の養子に元功の末息子の忠礼が養子に入っているので旧館林藩主・秋元家と旧岩槻藩主・大岡家は実質的に徳山毛利家の分家として続いている[60]

明治31年(1898年)の日本国内の高額所得者ランキングによれば毛利公爵家の年間所得は18万5069円に及び、7位にランクインしている(華族でこれより上位なのは前田侯爵家の3位26万6442円と、島津公爵家の5位21万7504円の2家のみ)[61]

明治41年(1908年)、戦国時代に皇室の様々な儀式が金欠で廃絶してしまっていたことを嘆いた毛利元就が朝廷に多額の寄付を行ったことについて勤王の功を称されて、元就に正一位が追贈された[62]

1920年代以降、毛利公爵家は所有する土地を世襲財産(華族は政府の一定の管理下のもとに差押を受けない世襲財産を設定することができた)から解除して国債有価証券に変更することで収入基盤を地代から配当収入へと変えていったが、これにより1930年代後半の経済恐慌で収入が縮小した[63]

毛利公爵家の邸宅山口県防府市三田尻町(三田尻御茶屋)と東京府東京市芝区高輪にあったが[64]、大正5年(1916年)には防府市多々良に新たな本邸として多々良邸が建設された。同邸は完成直後に大正天皇行幸、大正11年(1922年)には貞明皇后の行啓を賜った。昭和22年(1947年)にも全国巡幸中の昭和天皇、ついで昭和31年(1956年)にも昭和天皇と香淳皇后の御宿泊があった。1966年(昭和41年)に明治百年を記念して毛利家から土地・邸宅、伝来の国宝重要文化財などの家宝の寄付を受けて財団法人防府毛利報公会が発足し、毛利博物館として一般公開されるようになった[65]


注釈

  1. ^ 毛利庄とも。神奈川県愛川町から厚木市小鮎-村飯山飯山荻野-村; 上荻野中荻野下荻野南毛利南毛利村毛利台森の里などの地名が残る)にかけて。神奈川県厚木市下古沢三島神社に、「毛利季光屋敷跡 毛利氏發祥の地」の碑がある。
  2. ^ 広島県吉田町吉田
  3. ^ 毛利氏に内応した筑前秋月文種筑紫惟門原田隆種等であるが、文種は大友氏に攻め滅ぼされている。
  4. ^ 桓武平氏の安田氏(知行は1000石で大江姓安田より少ない)も米沢藩におり、区別する意味合いもある。
  5. ^ 上杉家中では甲斐武田が序列一位、能登畠山が序列二位であるが、毛利安積は千坂高雅らとともに京都藩邸で長州・土佐・薩摩など西国雄藩との交流があった。

出典

  1. ^ a b c d 沼田頼輔 1926, p. 324.
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  3. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『小早川氏』 - コトバンク
  4. ^ 旺文社日本史事典 三訂版『吉川氏』 - コトバンク
  5. ^ 領知朱印状・領知目録「安芸 周防 長門 石見 出雲 備後 隠岐 伯耆三郡 備中国之内、右国々検地、任帳面、百拾二万石之事」(「毛利家文書」)
  6. ^ a b c d ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『毛利氏』 - コトバンク
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  15. ^ 『大日本史料』6編37冊221頁。応安年6年4月8日2条。「毛利家文書」「入江文書」
  16. ^ 『史料総覧』9編909冊574頁。「萩藩閥閲録」「新裁軍記」
  17. ^ 『史料総覧』9編910冊412頁。「毛利家文書」「吉川家文書」
  18. ^ 『史料総覧』9編910冊437頁。 弘治3年4月2日条。「新裁軍記」
  19. ^ 『史料総覧』9編910冊442頁。弘治3年7月18日条「秋月高鍋家譜」「佐田文書」「大友家文書録」
  20. ^ 『史料総覧』9編910冊492頁。永祿3年2月21日条。「毛利家文書」・「新裁軍記」
  21. ^ 『史料総覧』9編910冊572頁。永祿6年8月4日条。「新裁軍記」
  22. ^ 『史料総覧』9編910冊646頁。永祿9年11月19日条。「佐々木文書」「毛利家文書」
  23. ^ a b c d 石川松太郎 et al. 1996, p. 292.
  24. ^ 『大日本史料』11編2冊77頁。天正10年7月17日条。「毛利家文書」。輝元は豊臣秀吉に信長死去に伴う弔意を伝えている。
  25. ^ 『大日本史料』11編2冊100頁。天正10年7月18日。「蜂須賀文書」。輝元は蜂須賀正勝に物を贈り、山崎の戦いの戦勝を祝った。
  26. ^ 『毛利家文書』天正19年(1591年)旧暦3月13日付(『大日本古文書 家わけ文書第8 毛利家文書之三』所収)
  27. ^ 『当代記』慶長元年「伏見普請之帳」安芸中納言の項
  28. ^ 『史料総覧』11編912冊329頁。天正19年4月是月条。「江系譜」「毛利家譜」
  29. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 16/294.
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  68. ^ a b 大久保利謙 1990, p. 23.
  69. ^ 大久保利謙 1990, p. 24.
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  71. ^ 高澤 2008年、p. 190
  72. ^ 大野 2009年、p. 210
  73. ^ 原文ママ。『幕末史の研究』の記述においては、この儀式の後に「年賀の儀式に移る」とされている
  74. ^ a b 井野辺茂雄『幕末史の研究』(雄山閣、1927年)283-284頁
  75. ^ 「関ヶ原四〇〇年の恩讐を越えて」『文藝春秋』2000年10月号(毛利家71代当主毛利元敬、島津家32代当主島津修久、黒田家16代当主黒田長久、山内家18代当主山内豊秋、司会半藤一利)※毛利家では慣習上、天穂日命を初代として数えるため現当主は71代と公称している。
  76. ^ 「米沢藩戊辰文書」日本史籍協会編(東京大学出版会)
  77. ^ 上杉家文書『米沢藩家老 毛利上総 書簡巻物』
  78. ^ 新田完三 1984, p. 345.
  79. ^ 新田完三 1984, p. 347-348.
  80. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 166.


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