林芙美子 林芙美子の概要

林芙美子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/02 04:32 UTC 版)

林 芙美子
(はやし ふみこ)
『花のいのち 小説・林芙美子』(1958年)より
誕生 林フミ子
1903年12月31日
日本山口県下関市福岡県門司市
死没 (1951-06-28) 1951年6月28日(47歳没)
日本東京都新宿区下落合
墓地 萬昌院功運寺
職業 小説家
言語 日本語
国籍 日本
最終学歴 尾道市立高等女学校
活動期間 1928年 - 1951年
ジャンル 小説随筆
代表作 『蒼馬を見たり』(1929年、詩集)
放浪記』(1928年 - 1930年)
『風琴と魚の町』(1931年)
『清貧の書』(1933年)
『晩菊』(1948年)
浮雲』(1951年)
めし』(1951年)
主な受賞歴 女流文学者賞(1948年)
デビュー作放浪記
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幼少期からの不遇の半生を綴った『放浪記』(1928年)が好評を博す。詩情豊かな文体で、暗い現実をリアルに描写する作風。作品に『風琴と魚の町』(1931年)、『晩菊』(1948年)、『浮雲』(1951年)などがある。

人物

山口県生まれ。尾道市立高等女学校卒。複雑な生い立ち、様々な職業を経験した後、『放浪記』がベストセラーとなり、詩集『蒼馬を見たり』や、『風琴と魚の町』『清貧の書』などの自伝的作品で文名を高めた。その後、『牡蠣』などの客観小説に転じ、戦中は大陸や南方に従軍して短編を書き継いだ。戦後、新聞小説で成功を収め、短編『晩菊』や長編『浮雲』『めし』(絶筆)などを旺盛に発表。貧しい現実を描写しながらも、夢や明るさを失わない独特の作風で人気を得たが、心臓麻痺により急逝。

その生涯は、「文壇に登場したころは『貧乏を売り物にする素人小説家』、その次は『たった半年間のパリ滞在を売り物にする成り上がり小説家』、そして、日中戦争から太平洋戦争にかけては『軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家』など、いつも批判の的になってきました。しかし、戦後の六年間はちがいました。それは、戦さに打ちのめされた、わたしたち普通の日本人の悲しみを、ただひたすらに書きつづけた六年間でした」[1]と言われるように波瀾万丈だった。

生涯

当人は、生まれは下関と言い、生年は明治37年、誕生日は5月5日などとも書いて語っていたが、没後20年余り経って、誕生の地は門司市小森江(現、北九州市門司区)との説が発表された[2][3]。(ただし出生届は叔父の家の現・鹿児島市に明治36年12月31日誕生として翌1月に出ている[4][5]。)

実父は宮田麻太郎、母はキク。麻太郎が認知しなかったので、娘は『林フミ子』として、母方の叔父の戸籍に入った。麻太郎は下関で競り売りやテキ屋をやって当て、1907年若松市(現・北九州市若松区)へ移って繁盛したが、浮気して、母子は1910年、番頭の沢井喜三郎と家を出た。 養父と母は北九州の炭坑町を行商して回り、芙美子の小学校は長崎佐世保・下関と変わった。 喜三郎は下関で古着屋を営んで小康を得たが1914年倒産し、11歳の芙美子は本籍地の鹿児島に預けられたのち、旅商いの両親に付いて山陽地方木賃宿を転々した。

1914(大正3年)年10月(11歳)、石炭産業で栄えていた現在の福岡県直方市に移り住む。 「放浪記」の冒頭で、直方での日々を赤裸々に記している。 <砂で漉した鉄分の多い水で舌がよれるような町であった> <門司のように活気あふれる街でもない。> <長崎のように美しい街でもない。> <佐世保のように女のひとが美しい町でもなかった>

1916年(大正5年)(13歳)、尾道市にしばらく落ち着き、1918年市立尾道小学校(現・尾道市立土堂小学校)を2年遅れで卒業した。

林芙美子文学碑。放浪記の一節が刻まれ、揮毫は尾道小の恩師・小林正雄。尾道を代表する風景である。

1918年(大正7年)(15歳)、文才を認めた訓導の勧めで尾道市立高等女学校(現・広島県立尾道東高等学校)へ進学した。図書室の本を読み耽り、夜や休日は働いた。女学校の教諭も文才を育んだ。18歳のときから『秋沼陽子』の筆名で、地方新聞に詩や短歌を載せた。尾道では親友たちに恵まれ、後年もしばしば「帰郷」した。

1922年(19歳)、女学校卒業直後、遊学中の恋人を頼って上京し、下足番、女工、事務員・女給などで自活し、義父・実母も東京に来てからは、その露天商を手伝った。翌1923年、卒業した恋人は帰郷して婚約を取り消した。9月の関東大震災を、3人はしばらく尾道や四国に避けた。この頃から筆名に『芙美子』を用い、つけ始めた日記が『放浪記』の原型になった。

1924年、親を残して東京に戻り、再び3人の生計を稼いだ。壺井繁治岡本潤高橋新吉小野十三郎辻潤平林たい子らを知った。同棲しては別れることを繰り返した。詩のパンフレット『二人』を、友谷静栄と3号まで出した。原稿を雑誌社・出版社に売り込んで回り、ときに拾われた。

1926年(23歳)、画学生の手塚緑敏(まさはる、通称りょくびん)[6]と内縁の結婚をし、落ち着いた。緑敏は実直で、妻の執筆を助ける人であった。

1928年(昭和3年)2月、長谷川時雨主宰の女人芸術誌が芙美子の詩『黍畑』を載せ、10月から翌々年10月まで20回、自伝的小説『放浪記』を連載した。その間の1929年6月には友人の寄金を受けて、初の単行本の、詩集『蒼馬を見たり』を自費出版した。『放浪記』は好評で、1930年改造社刊行の『放浪記』と『続放浪記』とは、昭和恐慌の世相の中で売れに売れ、芙美子は流行作家になった。印税で中国へ一人旅した。講演会などの国内旅行も増えた。

1931年11月、朝鮮シベリヤ経由でパリへ一人旅した。既に満州事変は始まっていた。金銭の余裕があれば旅に出て、向こう見ずな単独行を怖じなかった。ロンドンにも住み、1932年6月に帰国した。旅先から紀行文を雑誌社に送り続けた。「共産党にカンパを約した」との嫌疑で、1933年中野警察署に留置された。

1935年(昭和10年)(32歳)の短編『牡蠣』は、私小説的な作風を離れた本格的な小説として、評価された。

1937年(昭和12年)の南京攻略戦には、毎日新聞特派員として現地に赴いた。1938年(昭和13年)の武漢作戦には、内閣情報部の『ペン部隊』役員に選出(女性作家は林と吉屋信子の2人のみ)、同年9月11日、陸軍班第一陣の13人とともに大陸に向かった。出発時、東京駅で行われたセレモニーを避け、途中の横浜駅から乗車する気配りを見せたが[7]、 戦地では同年10月28日、男性陣を尻目に陥落後の漢口へ一番乗りを果たした。漢口への従軍記は同年10月31日の東京朝日新聞に「美しい街・漢口に入るの記」として掲載された[8]ほか、後日、『戦線』、『北岸部隊』として出版された。

おもな文業」の項からうかがえる活発な文筆活動を続けながら、1940年(昭和15年)5月からは、全国各地をめぐる「文芸銃後運動大講演会」に参加。久米正雄横光利一らとともに時局に応じた熱弁をふるった[9]。さらに同年には北満州朝鮮半島にも出かけた。

1941年(昭和16年)には、「ついのすみか」となった自宅を下落合に新築し、飛行機で満州国境を慰問した。 同年8月には情報局により風俗壊乱の恐れのある小説として『放浪記』『泣虫小僧』などが発売禁止処分(当時は対象小説の題名は秘匿されていた)を受けた[10]

太平洋戦争前期の1942年10月から翌年5月まで、陸軍報道部報道班員としてシンガポールジャワボルネオに滞在した。戦局が押し詰まって出版界も逼塞し、1944年4月から、綠敏の故郷に近い長野県上林温泉、次いで角間温泉に疎開した。疎開の間二階を借りた民家(長野県下高井郡山ノ内町角間)が、林芙美子文学館 になっている。

下落合の自宅は空襲を免れ、1945年(昭和20年)10月に帰京した。自由に書ける時代を喜んだ。用紙事情は厳しかったものの、人は活字に飢えていて、翌1946年から新旧の出版社が動き始めた。

かって原稿の売り込みに苦労したが故に、人気作家になってからも執筆依頼を断らなかった芙美子は、ジャーナリズムに便利だった。書きに書いた。その中に『晩菊』や『浮雲』などの名品もあった。1948年の女流文学者賞は『晩菊』で受賞した。私用や講演や取材の旅も繁くした。1949年から1951年に掛けては、9本の中長編を並行に、新聞・雑誌に連載した。

1951年6月26日に撮影。この夜、容態が急変して急逝した。

1951年(昭和26年)、6月27日の夜分、『主婦の友』の連載記事のため料亭を2軒回り、帰宅後に苦しみ、翌28日払暁心臓麻痺で急逝した。47歳没。『ジャーナリズムに殺された』と、世間は言った。

なお、急逝の直前、6月24日には、NHKラジオの生放送「若い女性-会ってみたい人の頁」にゲスト出演し、女子大生数人に対し質疑応答をおこなっている。この中で芙美子本人が「すでに晩年であると思い、むだな球は投げない」とも語っていた。この放送時の一部が当時の番組広報用として映像保存されており、NHKアーカイブスのサイト「NHK放送史-若い女性」で動画公開されている。(外部リンク参照)放送音声は録音保存され、直近では2016年1月26日にNHK第1ラジオ、2023年12月3日にはNHK-FM伊集院光の百年ラヂオ』の中で当時の録音が放送された。

7月1日、自宅で告別式が執り行われた。近在の市民が大勢参列した。葬儀委員長の川端康成[注 1]は、『故人は、文学的生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのでありますが、しかし、後二、三時間もすれば、故人は灰となってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許して貰いたいと思います』と弔辞の中で述べたという[11]

戒名は『純徳院芙蓉清美大姉』。萬昌院功運寺に埋葬された。生前、色紙などに好んで、『花の命は短くて苦しきことのみ多かりき』と書いた。

1943年に新生児を貰い受けて養子にした泰は、1959年、事故死した。芙美子を支え続けた夫緑敏は、彼女の文業の整理に長く協力して、1989年物故した。

旧宅が新宿区立林芙美子記念館になっている。

2010年2月、桐野夏生が評伝小説『ナニカアル』を上梓している[12]

エピソード

1948年昭和23年)の『主婦と生活』6月号に「林芙美子のトマトすき焼き」が紹介されている。「6ミリくらいの輪切りにしたもぎたてトマトをバターラードを溶かしたフライパンで焼き、煮えたところで牛肉を乗せ、火が通ったら醤油甘味料を入れる」としており、戦後3年しか経っていない当時は配給制砂糖は貴重品であり、ズルチンサッカリンなどの人工甘味料を代用したと思われる。品種改良した現代のトマトと違い、当時のトマトは甘味を加えた方が美味だったものか「初夏には格べつおいしいものです」と載せている。

急逝した翌日の朝、担当編集者が原稿を取りに邸宅を訪れた。お手伝いは逝去を伝えたが、編集者は締め切りを誤魔化す嘘だと思い、林の部屋に踏み込んだ。林の遺体は布団に寝かされて面布がかけられていたが、編集者は声をかけて面布を剥がし、ようやく林の死を知ると思わず合掌したという[13]


注釈

  1. ^ 芙美子は戦後間もなく1945年9月8日に康成宛に手紙を出していて「これから嘘を云はない/いゝものがかけるのハ/うれしいです それだけです/それだけでも 生きていたいです」と書いていた。
  2. ^ たとえば、「文泉堂版『林芙美子全集16巻』巻末の、今川英子編:『著書目録』

出典

  1. ^ 井上ひさし『太鼓たたいて笛ふいて』p.174(新潮社、2002年)没後に行われた『私の本棚』で男子アナが語る前説。
  2. ^ 井上貞邦:『林芙美子と北九州』、北九州市医報(1972年 - 1973年)
  3. ^ 井上隆晴『二人の生涯』、光風社書店(1974年)
  4. ^ 佐藤公平 「林芙美子実父への手紙」 KTC中央出版 (2001/10)
  5. ^ 日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室 林芙美子の年齢
  6. ^ 林芙美子の年齢
  7. ^ 陸軍班の第一陣十三人が出発『中外商業新聞』(昭和13年9月12日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p662 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  8. ^ 美しい街・漢口に入るの記『東京朝日新聞』(昭和13年8月25日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p663
  9. ^ 浜松公会堂で第一声『東京日日新聞』(昭和15年5月7日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p705
  10. ^ 著名作家の作品など大量に発禁『東京日日新聞』(昭和16年8月28日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p551
  11. ^ 新潮日本文学アルバム34、(1986)p.73
  12. ^ 桐野夏生『ナニカアル』新潮社、2010年2月、ISBN 978-4104667031 新潮社のキャッチフレーズは「林芙美子の秘められた愛を描いた」。
  13. ^ 『文豪たちの噓つき本』、2023年4月発行、彩図社文芸部、彩図社、P148~149
  14. ^ 新潮日本文学アルバム34、(1986)p.17
  15. ^ 新潮日本文学アルバム34、(1986)p.25
  16. ^ 新潮日本文学アルバム34、(1986)p.27
  17. ^ 新潮日本文学アルバム34、(1986)p.86
  18. ^ 文泉堂版『林芙美子全集 第16巻』巻末(今川英子編)
  19. ^ 尾道のまちづくりに勢いを 登録有形文化財に林芙美子旧居・旧村井醫院診療棟 喜ぶ関係者”. 中国新聞. 2023年3月18日閲覧。
  20. ^ けやき No.319”. 公益社団法人世田谷法人会. 2023年3月18日閲覧。


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