忘却
『オデュッセイア』第9巻 トロイアから故国イタケへ帰るオデュッセウスの船は、漂流の後、ロトパゴイ人の国に着く。様子をさぐるため3人の部下を送ると、ロトパゴイ人は彼らを歓待し、蓮の実を食べさせる。この実を食べた者は帰国の望みも何もかもすべてを忘れ、ロトパゴイ人のもとにとどまりたいという気になるのだった。オデュッセウスは3人を無理やり船に乗せ、航行を続けた。
*精神科の病棟で目覚めた「わたし」は、自分の名前をはじめとして、すべての記憶を失っていた→〔アイデンティティ〕1aの『ドグラ・マグラ』(夢野久作)。
『古今著聞集』巻8「好色」第11・322話 後白河院の御前で、公卿や女房たちが過去の秘事を順次語る。小侍従が、生涯忘れられぬ思い出として、ある肌寒い月の夜の、高貴な人との逢瀬を語る。後白河院は「その相手の名を明かせ」と命じ、小侍従は「院が御在位の折のことです。お忘れですか」と笑う。一座はどよめき、後白河院はその場を逃げ出した。
『大和物語』第150段 美しい采女が、奈良の帝を深く慕っていた。帝はただ1度だけ采女を寝所に召したが、以後は召すことがなかった。采女は悲しんで、ある夜、猿沢の池に身を投げた。後にこれを知った帝は、池のほとりに行き、歌を詠んで采女を慰霊した。
『ヴォルスンガ・サガ』21・28 シグルズは眠りのイバラにさされたブリュンヒルドを目覚めさせ、2人は結婚を誓う。ところがグズルーンの母からすすめられた忘却の飲物を口にして、シグルズはブリュンヒルドを忘れる。彼はグズルーンと結婚する。
『ニーベルングの指環』(ワーグナー)「神々の黄昏」 ジークフリートは、ハーゲンの奸計によって忘れ薬を飲まされ、妻ブリュンヒルデを忘れ、別の女と婚約する。怒ったブリュンヒルデは、ジークフリートの弱点が背中であることをハーゲンに教え、ハーゲンは槍でジークフリートを突き殺す。
『しぐれ』(御伽草子) 中将さねあきらは故三条中納言の姫君と契りを結んだが、彼はその後、親どうしの決めた縁談で、右大臣家の婿になる。右大臣の北の方たちが、呪詛の人形を中将の衣服につけたため、中将は姫君のことをすっかり忘れてしまう。後、中将が正気に戻った時には、姫君はすでに帝の女御になっており、中将は悲嘆して出家する。
『シャクンタラー』(カーリダーサ)第4幕 ドゥフシャンタ王は狩りに出て、ヴィシュヴァーミトラ仙人と天女メーナカーの間に生まれた娘シャクンタラーに出会う。2人は愛し合い、シャクンタラーは身ごもるが、呪いによって(*→〔呪い〕8)、ドゥフシャンタ王はシャクンタラーを忘れる。後、シャクンタラーに与えた指輪を見て王は記憶を取り戻し、修行者の苦行林へ行って、シャクンタラーと息子を見出す。
*王が妃を忘れるのとは逆に、妃が王の愛を忘れる→〔指輪〕1dの『ゲスタ・ノマノルム』10。
★2e.男が、年月の経過につれて、しだいに恋人のことを忘れる。
『ゆく雲』(樋口一葉) 東京へ遊学中の野沢桂次は、寄宿先の娘お縫を恋する。しかし桂次は、故郷山梨へ帰って許婚お作と結婚せねばならなくなり、お縫に別れを告げる。桂次は「生涯絶えることなく手紙を送るから、10通に1度、返事を与え給え」と請う。はじめのうちは長い手紙が何度も来たが、しだいに手紙は短く、また間遠になり、ついには年始と暑中見舞いの葉書だけになった。
『多忙な仲買人のロマンス(忙しい株式仲買人のロマンス)』(O・ヘンリー) 株式仲買人マックスウェルは、多忙なために、仕事以外のことはすべて忘れてしまった。ある日、彼は昼食前に僅かな空き時間を得て、事務所内の速記者レズリーに急いで求婚する。レズリーは驚き、「私たちは昨晩、教会で結婚したのよ」と言った。
★2g.王子が恋人を忘れるが、恋人が王子に自分を思い出させる。
『ペンタメローネ』(バジーレ)第3日第9話 フォンテキアーロの王子パオルッチオはトルコ大王に捕らえられるが、大王の娘ロゼッラと恋仲になり、脱出して祖国へ戻る。しかし大王妃の呪いにより、王子はロゼッラを忘れてしまう。ロゼッラが指輪を飛ばすと王子の指にはまり、王子はロゼッラを思い出す。
『ほんとうのおよめさん』(グリム)KHM186 美しい娘と結婚を約束した王子が、「父に承諾を得てくる」と言って家へ帰ったまま、娘を忘れる。娘は王子をたずねて旅をし、宮殿の舞踏会へ行って王子と3度踊り接吻をして、ようやく自分を思い出させる。
★3a.自分のした行動を忘れ、それを誰か他の人間のやったことだと思う。
『天才バカボン』(赤塚不二夫)「ゆうかい犯人はオカシなのだ」 行方不明のバカボンを、パパとママが心配して捜す。パパが、空き地の土管の中に縛られているバカボンを発見して、助け出す。バカボンは「今朝パパと泥棒ごっこをして、パパが縛ったんじゃないか」と怒る。パパは「おしっこに帰って、そのまま忘れたのだ」と言う。
★3b.自分の考えたアイデアを忘れ、それを他人に教えてもらおうとする。
『穴のあいた記憶』(ペロウン) 劇作家が密室殺人ミステリーの素晴らしいアイデアを思いつき、嬉しさのあまり、酒場で出会った小男にアイデアを話す。直後に劇作家は自動車にはねられ頭を打って、アイデアを忘れてしまう。劇作家が死んだと思った小男は、その夜早速、劇作家のアイデアを使って密室殺人を行なう。そうとは知らぬ劇作家は小男を捜し出し、「私が話したアイデアを覚えているだろう。それを教えてくれ」と請う。小男は劇作家を殺す。
『イスラーム神秘主義聖者列伝』「ハサン・バスリー」 コーラン朗唱の権威アブー・アムルの所へ、美少年が朗唱を習いにやって来た。アブー・アムルは、背信の眼差しで美少年を見つめると、コーランの始めの句「アル・ハムド」のアから、最後の句の終わりの言葉までを、すっかり全部忘れてしまった〔*アブー・アムルはメッカ近郊のムスクへ行き、老師に願って、記憶を取り戻すことができた〕。
『千一夜物語』「アリババと四十人の盗賊の物語」マルドリュス版第854夜 アリババから「開け胡麻」の呪文を教えられた兄カシムは、洞穴へ入り財宝の山を見て心を奪われ、呪文を忘れる。「麦」「豆」「粟」などと叫んでいるうちに、40人の盗賊が戻って来る。
『茗荷宿』(落語) 茗荷を食べると物忘れする、と言われる。安宿に泊まった客が、大金を帳場に預けた。宿の主人はこの金に目がくらみ、「預けた金を忘れて行くように」と、茗荷をたくさん客に食べさせる。しかし客は、預けた金は忘れなかった。その代わり、宿賃の支払いを忘れて行ってしまった。
*「忠度」=「只乗り」の駄洒落を忘れる→〔乗客〕9aの『薩摩守』(狂言)。
★5.長期間に渡る習慣ゆえに、その習慣が期限つきであることを忘れる。
『サザエさん』(長谷川町子)朝日文庫版第27巻139ページ サザエが訪問した家で、皆が楽しく談笑する中、受験生の息子は腕時計を見て「じゃ、僕は失礼」と言い、今夜もまた1人勉強部屋にこもる。しかし机の前に座った時、彼は叫ぶ。「ア!そうだ。俺合格したんだった」。
『放心家組合』(バー) 詐欺師たちが、忘れっぽい顧客を選んで、家具や貴重本など高価な商品を分割払いで売る。顧客たちは毎週いくばくかの金額を集金人に払うが、数年して代金を払い終わった後も、そのことを忘れ、余分な金を払い続ける。それが詐欺師たちの収入になるのだった〔*『吾輩は猫である』(夏目漱石)11で、迷亭が「この間ある雑誌を読んだら、こういう詐欺師の小説があった」と言って、この話をする〕。
『疑惑』(江戸川乱歩) 「おれ」は庭の松の枯れ枝を切るために、斧を持って木に登る。真下の石には、父親が腰をかけて休む習慣があったので、「おれ」は、ふと「ここから斧が落ちれば父親に当るだろう」と考え、あわててその思いを打ち消す。そして「おれ」は、斧を木の股に置き忘れる→〔落下〕1b。
『精神分析入門』(フロイト)「間違い」第4章 技師が、弾性に関する実験を始めようとした時、同僚のF君は、家の用事のため早く帰りたがった。技師は「機械が壊れればね」と冗談を言ったが、実験最中、F君のちょっとしたミスで連結管が破裂し、実験は中止になった。後日この出来事を話し合った時、F君は、技師が言った冗談をまったく覚えていなかった。
★7.忘却の国。
『愛人ジュリエット』(カルネ) 獄中の青年ミシェルは愛人ジュリエットを捜して、夢の世界へ行く。そこは「忘却の国」で、住民たちは記憶というものを持たず、誰もが自分の過去を知りたがり、自分の思い出を持ちたがっていた。ジュリエットも、ミシェルのことを思い出せぬまま、貴族の「青ひげ」(*→ペロー『青ひげ』)と結婚式をあげる。ミシェルは目覚め、釈放されるが、現実の世界でもジュリエットが「青ひげ」そっくりの初老の男と結婚することを知る。
『竹取物語』 月の世界から迎えに来た天人が、かぐや姫に天の羽衣を着せる。すると、かぐや姫の心から「翁をいとおし、かなし」と思う気持ちが消え失せてしまった。天の羽衣を着た人は、すべての物思いがなくなるのであった〔*→〔記憶〕8の『時をかける少女』(大林宣彦)では、未来から来た少年は、彼に関わった人々の記憶を消し、彼自身の記憶も消して、帰って行く〕。
★9.死後の世界へ行った人は、現世に生きていた時の心を忘れてしまう。
『今昔物語集』巻4-41 7歳の子供を亡くした父親が、閻魔王の宮殿まで旅をして、死んだ子供に会わせてもらう。子供は宮殿の裏庭で、同じような童子たちに交じって遊んでいる。父は泣きながら、「お前が恋しくてならず、会いに来た。お前も同じ気持ちではないのか?」と子供に語りかける。しかし子供は嘆く様子もなく、父を無視して遊び続け、物も言わない。父はせっかく来た甲斐もなく、悲しんで帰って行った。
『私は霊界を見て来た』(スウェーデンボルグ)第1章の6 人間は死ぬと、まず精霊界に入り、続いて霊界へ進む。精霊界に来てしばらくたった人間(=精霊)が、「生きていた時に得たさまざまな知識が憶い出せない」と、嘆いていた。霊界の霊が現れ、「憶い出せないのは、人間だった時の外面的知識に過ぎない。たとえば学者の知識のようなもので、これから行く霊界では、必要がないものだ」と教える。それを聞いた精霊は、知識を忘れるのと裏腹に、友人を思えばその霊が現前するなど、新たな能力が備わりつつあることに気づく。
*精霊界から霊界でなく、地獄界へ向かう者もいる→〔地獄〕9。
*現世の忘却の川→〔川〕9。
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