道鏡
(弓削法皇 から転送)
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道鏡 | |
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生年不詳 - 宝亀3年4月6日(772年5月12日) | |
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生地 | 河内国若江郡 |
没地 | 下野国 |
宗派 | 法相宗 |
師 | 義淵、良弁 |
道鏡(どうきょう、生年不詳 - 宝亀3年4月6日[1][2]〈772年5月12日〉[注釈 1])は、奈良時代の僧侶。俗姓は弓削氏(弓削連)。俗姓から、弓削 道鏡(ゆげ の どうきょう)とも呼ばれる。称徳天皇(孝謙天皇の重祚)に重用されて太政大臣禅師、さらに法王という例のない地位に就いて並ぶ者のない権勢を誇ったが、称徳天皇の崩御により失脚し、下野薬師寺に左遷されて同地で死去した。
僧侶の身にありながら政治において専権を振るい、宇佐八幡宮神託事件を起こして皇位を狙ったとみなされたために、平将門、足利尊氏とともに日本三悪人と称された[4]。しかし近年ではどの程度政治的権力を行使していたのかについては疑問が呈されており、さらに宇佐八幡宮神託事件についても道鏡以外の首謀者を想定する説も提唱されていることにより、従来の悪人・怪僧・妖僧といったイメージは見直されつつある。
出自
道鏡の生年や両親の名は不明[5][6]。『続日本紀』には俗姓・弓削連[注釈 2]、河内国若江郡の人[注釈 3]とある[7][8][6]。弓削氏は弓を製作する弓削部を統率した氏族で[9][8][6]、本拠地とした若江郡弓削郷は現在の大阪府八尾市の弓削神社周辺と考えられる[10][6]。
弓削氏には複数の系統があるが、天武天皇13年(685年)に弓削宿禰を賜った系統が存在することから、弓削連を名乗っていた道鏡は弓削氏の本宗家ではなかったとみられる[9][6]。
弓削氏は『新撰姓氏録』によれば物部氏と同祖とされており、物部氏は若江郡に隣接する渋川郡を本拠地とし、物部守屋が弓削大連を称したとされる(『日本書紀』『先代旧事本紀』)など、両氏には密接な繋がりがあった[11][6]。孝謙上皇が天平宝字8年(764年)に出した宣命では、道鏡が先祖の「大臣」の地位を継ごうとしているから退けよとの藤原仲麻呂からの奏上があったと語られるが[注釈 4]、この「大臣」は大連の地位にあった物部守屋を指すと考えられる[11][8][6]。ただし上述のように道鏡は弓削氏の本流ではなく、道鏡が物部氏を誇称したのか、仲麻呂が批判のためにことさら守屋との関係を強調したものかははっきりしない[6]。

道鏡の出自については、『僧綱補任』『七大寺年表』が皇胤説を記録している[12][13]ほか、『本朝皇胤紹運録』が天智天皇の皇子である志貴皇子の子としている[13]。戦前には平出鏗二郎や吉田東伍、喜田貞吉などが皇胤説を支持した[12]。しかし横田健一は志貴皇子の他の皇子女と比較した場合に、道鏡の弟・浄人が従八位上という低い位階から立身を遂げていることは不自然としている[14]。また後述する宇佐八幡宮神託事件で道鏡が皇位を断念したのは、天皇家の血をひいていないことこそが障害となったためであることからすれば、道鏡皇胤説は成り立たないとされている[13]。『続日本紀』が皇胤との記述をしていないこともあって、現在では道鏡皇胤説はほとんど支持されていない[15][16]。
このような伝説が生まれた原因としては、若江郡弓削郷に志紀郡が隣接しており、弓削神社が存在するように同地も弓削氏の勢力圏だったと考えられていることが挙げられる[17][13]。瀧川政次郎は、平清盛や豊臣秀吉に皇胤説があるのと同様、法王にまで出世した道鏡が卑しい生まれのはずがないという思想に起因するものと説明している[12]。また天武天皇の第六皇子・弓削皇子との関連も想定されている[13]。
生涯
前半生
前述のように生年も両親も不明であり、どのような幼少期を過ごしたかは一切分かっていない[18][19]。若い頃の師としては路真人豊永と義淵が挙げられる[18][19]。路豊永は僧侶ではない官人であることから、道鏡が当初は大学寮で学んでいた可能性も指摘されている[19]。『僧綱補任』裏書によれば道鏡は法相宗の高僧・義淵僧正の弟子となり、大和葛城山に籠もって苦行に励んだという[19][20]。義淵は神亀5年(728年)に死去していることから、その晩年の弟子であるとみられる[19]。ただし義淵の弟子という点には疑問の余地もある[8]。
道鏡の史料上の初見は、天平19年(747年)に東大寺の良弁僧正の使いとして「沙弥道鏡」の名が見えるものである(正倉院文書)[19][16]。沙弥は具足戒を受ける前の修行中の僧であるが、受戒の年齢には幅があるため道鏡の生年は特定できない[16]。良弁も義淵の門下であるから、道鏡は義淵の死後に良弁の弟子となったものとみられる[21][19]。『続日本紀』では道鏡は「ほぼ梵文に渉る」とあり、梵文(サンスクリット語)に長けていたとされる[注釈 2][22][8][23][24]。もっともこの記述はサンスクリット語の語句研究ではなく陀羅尼真言の暗誦を指すと推測される[20]。また禅行をもって聞こえ、内道場に入って禅師に列したという[注釈 2][25][8][23][16]。『七大寺年表』では道鏡が内道場に出仕したのは天平勝宝5年(753年)とされている[26][16]。道鏡の抜擢には良弁の口利きがあった可能性も考えられている[27][28]。
孝謙上皇に重用される

天平宝字5年(761年)平城京改修のため近江国保良宮に都が一時的に遷され、同地に行幸中の孝謙上皇(後の称徳天皇)の看病のため傍に侍したことにより、その寵を受けることとなった[注釈 2][29][30]。『宿曜占文抄』によれば道鏡が孝謙上皇に召されたのは天平宝字6年(762年)4月のことで、宿曜秘法により上皇の病を治療したという[29][28][31][注釈 5]。淳仁天皇は常にこれに対して諫言を述べたため、孝謙上皇と淳仁天皇の関係は悪化することとなった[注釈 2][29][32][30][31]。5月には孝謙上皇は法華寺に入って出家、法基尼と号した[30][33]。上皇は6月に詔して淳仁天皇を激しく非難している[34][35]。
淳仁天皇は慈訓を重用していたが、天平宝字7年(763年)9月4日、慈訓は少僧都を解任させられ、代わりに道鏡が少僧都に任じられた[34][30][36]。淳仁天皇をたきつけていたのが慈訓だったため、孝謙上皇の気に障って失脚させられたものとみられる[30]。
天平宝字8年(764年)9月、藤原仲麻呂の乱が発生し、太師(太政大臣)・藤原仲麻呂が誅される[37][38][39][40]。これにより仲麻呂の兄・豊成が右大臣に復帰するとともに[41]、仲麻呂が唐風に改めた官名も元に戻されることとなった[42]。10月9日、淳仁天皇は廃位させられて淡路に流され、翌年10月に死去した[43][44]。淳仁天皇の廃位に伴い、孝謙上皇が重祚して称徳天皇となった[43][45][46][注釈 6]。
太政大臣禅師・法王就任

道鏡は仲麻呂討伐直後の9月20日、大臣禅師に任ぜられた[43][47][48][49]。この時に称徳天皇は自身のような出家の身である天皇には出家した大臣がいてもよいと表明したが、道鏡は辞退しており、28日に「禅師を俗務で煩わすことはない」と述べて改めて任じている[47][48]。
天平神護元年(765年)10月より称徳天皇は道鏡を伴って紀伊行幸に出発し、同月末に河内国弓削に至ると弓削寺で礼拝したのち、閏10月2日に弓削行宮で道鏡に太政大臣禅師の位を授けている[50][51][52][53]。
天平神護2年(766年)、隅寺(海龍王寺)の毘沙門像から仏舎利が出現したことを称徳天皇は喜び、10月に道鏡を法王とし、大僧都・円興を法臣、基真を法参議・大律師に任じている[54][55][56]。法王の月料は供御に準ずる、すなわち天皇と同等とされた[54][57][58][56]。なおこの仏舎利出現事件は神護景雲2年(768年)に基真による詐欺であったことが発覚する[54][59][60][56]。道鏡の法王就任と同日、藤原永手が左大臣、吉備真備が右大臣に就任している[54][58]。
天平神護3年(767年)正月3日には、道鏡は西宮前殿で大臣以下の拝賀を受けている[61]。このような権威を持つようになった道鏡に貴族官人が反感を抱いた可能性は十分にある[61]。
同年3月には法王宮職が設置され、造宮卿従三位高麗福信が大夫、大外記従四位下高丘比良麻呂が亮、勅旨大丞従五位上葛井道依が大進を兼任することとなった[62][63][64][65]。法王宮職は藤原仲麻呂政権における紫微中台との関連が指摘されており、例えば高麗福信や高丘比良麻呂は紫微中台の役人経験がある[66]。法王宮職の印の使用が開始されるのは2年が経過した神護景雲3年(769年)7月からである[64]。「法王」の称号については『最勝王経』において正法をもって国を統治する国王を指す言葉として用いられていることと関係していると考えられている[67]。
神護景雲2年(768年)7月に内豎省が創設され、弟の中納言・弓削浄人がその長官となった[68][69]。
道鏡の後ろ盾を受け、弟の弓削浄人が8年間で従二位・大納言にまで昇進したほか、一門で五位以上の者は10人に達した[54][70]。
道鏡の「仏教政治」

称徳天皇の治世下で道鏡は仏教保護・奨励を中心とする仏教的政策を推し進めたとされる[71]。
天平宝字8年(764年)10月2日に放鷹司を廃止し放生司を設置したほか、11日には鷹・狗・鵜を飼って狩や漁をすることや諸国から御贄として肉魚を献上することを停止、中男作物の魚・肉・蒜の貢進を停止するなどの政策が実施された[71][42]。これらは道鏡の推進した仏教的政策の代表的なものとされるが、逆にこの程度の政策しか行われていないとの指摘もある[42]。例えば翌天平神護元年(765年)3月5日には加墾禁止令が発せられている[72][73]。この法令では墾田永年私財法に触れつつ勢力の家が百姓を使役して墾田を行う一方で、貧窮の百姓が自存できないことを問題として加墾を禁止するが、寺院には一定の限度内で開墾を許容している[72][73][42]。このことから、この法令は貴族の勢力を削いで寺院を優遇する道鏡の仏教保護政策と説明されることがあった[72]。しかし北山茂夫は同日に発せられた、王臣家が武器を私的に貯えることの禁止と、三関国(伊勢、美濃、越前)の有力者を王臣の資人とすることの禁止を定める2つの法令に着目し、王臣による再度の兵乱の防止を目的としたものであり道鏡主導による仏教保護を主眼とした政策ではないと解釈した[73][42]。
藤原仲麻呂の乱直後には、逆徒の取り締まりのために、山林寺院に僧侶を集めて読経悔過を行うことを禁じているが[74]、これはむしろ仏教振興ではなく統制政策であると解されている[75]。
またここまでに述べた政策は天平神護元年に道鏡が太政大臣禅師となる以前に行われたものであり[76]、実際に政治を主導する立場にあったのは右大臣・藤原豊成である[43]。豊成は天平神護元年に死去するが、翌年左大臣・藤原永手、右大臣・吉備真備が任命されており、政権を運営したのは彼らであって道鏡は政治的事項に関与しなかったとの見解もある[69]。北山茂夫は政治の内容の点からも実際に政治を主導していたのは右大臣・吉備真備や太政官の官人らで、律令的政治慣行が維持されていたとしている[75]。
従二位・大納言となった弓削浄人を筆頭に道鏡の親族も栄達してはいるが、公卿に列したのは浄人が唯一であり、果たして政治を主導できるほどの権力があったものかにも疑問が呈されている[77][78]。称徳天皇の政治を支えた貴族には、藤原縄麻呂・藤原雄田麻呂・藤原是公など藤原氏の人物が多く、道鏡の一族が彼らのような影響力を持っていたとは認めがたい[69]。
天平神護元年よりそれまで治部省の印が用いられていた僧尼度縁に道鏡の印が用いられるようになり、それは宝亀2年(771年)正月まで続いたとされる[79][64]。これは天平16年(744年)にそれまで僧綱の印を用いていたものから治部省が管轄するようになったものであり、道鏡が度縁に関与していたことがうかがわれるが、道鏡の権限が僧侶人事や寺院管理全体にまで及ぶものであったかについては疑問も呈されている[70]。
むしろ称徳天皇による「仏教政治」の本質は、西大寺・西隆寺の建立や、寺院へのたびたびの行幸にあるとされる[75][80]。
称徳天皇の治世では神階授与や神祇伯・中臣清麻呂の中納言起用、伊勢神宮禰宜に対する叙位などの神祇政策や、天平神護3年(767年)2月7日の釈奠への天皇臨席、神護景雲2年(768年)に孔子を文宣王と号するなどの儒教政策も頻繁に行われており、仏教のみに偏った政策が行われていたわけではないとの指摘もある[81]。
宇佐八幡宮神託事件

神護景雲3年(769年)、大宰主神・中臣習宜阿曾麻呂が宇佐八幡宮より「道鏡を天皇の位につければ天下は泰平になる」との神託があったと伝えた[82][83][84][85][86][87]。しかし、和気清麻呂が勅使として宇佐八幡宮に参向した後「天つ日嗣は必ず皇諸を立てよ」という神託を上申したため、清麻呂は処罰されたものの、道鏡が皇位に即くことはなかった[88][85][86]。当時の大宰帥は道鏡の弟の浄人であり、この事件は道鏡が皇位を狙った事件とみなされることが多い。しかし、『続日本紀』の道鏡死去記事中では阿曾麻呂による偽りの神託によって道鏡は騙され、皇位を望んだとされている。そもそも本当に道鏡が首謀者であったのか、そうでなければ誰が真の首謀者であったのかについては多くの説がある[89]。
なお前述した道鏡の師とされる路真人豊永は『日本後紀』で、宇佐に赴く清麻呂に対して「もし道鏡が皇位につくようなことがあれば、その臣でいられようか。2、3人の仲間とともに現代の伯夷となるのみだ」と述べたとされている[18][90]。また流される途次の清麻呂を道鏡が殺害しようとしたが、勅使がやって来たことで果たせなかったとも伝えている[91][90]。
同年10月、称徳天皇は道鏡を伴い、飽波宮を経て由義宮に行幸した[92][93][94]。由義宮は4年前に訪れた弓削行宮を整備し字を改めたもので、由義宮は「西京」と称され、河内国には河内職が置かれて藤原雄田麻呂(百川)が大夫となった[92][95][93][94]。称徳天皇は翌神護景雲4年(770年)2月にも由義宮に行幸している[96][97][93][98]。
左遷と死去
由義宮から平城京に帰還した称徳天皇はそのまま病臥し、神護景雲4年(770年)8月4日に崩御した[99][100][101][102]。
道鏡は称徳天皇の梓宮に奉仕し陵の下に留まっていたとされる[103][104]。しかし8月21日、坂上苅田麻呂の密告を原因として皇太子・白壁王(後の光仁天皇)の令旨により造下野薬師寺別当として左遷させられる[104][2]。同日、宇佐八幡宮神託事件の発端を作った習宜阿曾麻呂が多褹嶋守に左遷、翌日には道鏡の弟・浄人とその息子3人(広方・広田・広津)が土佐国に配流された[103][104][2]。
道鏡は左遷先の下野国で宝亀3年(772年)に死去[103][105][2][106]。庶人として葬られたという[103][100][105][2]。道鏡死去の報は4月6日に光仁天皇に言上された[105]。
龍興寺(栃木県下野市)境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある[105]。
伝説
巨根伝説
称徳天皇と道鏡が男女の関係にあったことを記した最古の記録は、平安時代初期の『日本霊異記』だが、「道鏡法師、皇后と枕を同くして交通し、天下の政相摂し、天下を治め」とあるものである[107][108]。称徳天皇と道鏡が生きた時代から遠くない時期にこのような噂が存在したことが事実であるとしても、実際の2人の関係について明らかにすることは不可能である[107][108]。
道鏡の巨根伝説については、瀧川政次郎が『史記』呂不韋伝にある、呂不韋が始皇帝の母后(趙姫)に嫪毐という巨根の人物を近づけた逸話をもとに創作されたものであるという見解を示し[109]、支持を得ている[110][111]。
道鏡巨根説の初見は、藤原明衡の『新猿楽記』であり、登場人物・右衛門尉の14番目の娘の夫・白太が、昔女帝の寵愛を受けて法王にまでなった道鏡と同様の巨根の持ち主であったと説明されているものである[112]。『水鏡』では3年間岩屋に籠もって修行した道鏡が、経文は偽りだと思って仏像に小便をかけたところ、カハチ(蚊蜂または蛙)に陰部を刺され、それによって巨根になったという逸話が伝えられている[113][112]。道鏡と称徳天皇にまつわる逸話は『古事談』にもとられている[114]。室町時代の辞典『下学集』には道鏡の一物は馬よりも大きいとの記述があり、こういったところから江戸時代には道鏡巨根説は広く大衆に知られるようになった[108]。江戸時代には「道鏡は すわると膝が 三つでき」「朕はもう 崩御崩御と みことのり」といった道鏡の巨根や称徳天皇との関係を題材とした川柳が多数詠まれている[115]。
こうした巨根説について、樋口清之は「道饗」と「道鏡」が混同され、道祖神と結びつけられたために成立したとしていた。
また、石川良輔が金剛山中で発見したオサムシの一種は、体長に比して非常に大きな交尾器を持つことから、道鏡の巨根説にちなんで「ドウキョウオサムシ」という和名で呼ばれている[116]。
猿丸大夫同一人物説

尾崎雅嘉『百人一首一夕話』によれば、宗祇による百人一首古注に「猿丸大夫を弓削道鏡と号す」とあるとされていることから、室町時代には道鏡と猿丸大夫を同一人物とする伝説が生まれていたとみられる[117]。瀧川政次郎は猿丸大夫の伝記が不詳であることが原因と解し、なぜ道鏡と結びつけられたのかについてはよく分からないとしつつ、『本朝皇胤紹運録』が弓削王(山背大兄王の子)の別名を猿丸大夫とすることなどからこれらの人物の混同が生じた可能性を指摘している[117]。
その他
熊本市にある弓削神社には「道鏡が失脚した後この地を訪れて、そこで藤子姫という妖艶華麗な女性を見初めて夫婦となり、藤子姫の献身的なもてなしと交合よろしきをもって、あの大淫蕩をもって知られる道鏡法師がよき夫として安穏な日々を過ごした」という民話がある[要出典]。
神奈川県小田原市にある勝福寺は、道鏡が下野に配流となる途中、千代(小田原市千代)に称光天皇から賜った観音像を安置したことに始まるとされる[118]。
道鏡生誕の地である大阪府八尾市で1980年に立ち上げられた市民団体「道鏡を知る会」が、道鏡は悪僧ではなく、仏教の礎を築いた人物として、その業績を見直す活動を行っている。同会は2020年に、称徳天皇が建立した奈良市の西大寺に道鏡の木像を奉納した[119]。2022年、会員数の減少を理由に「道鏡を知る会」は解散したが、顕彰は続いている[120]。
道鏡を主題とした作品
- 小説
- 坂口安吾『道鏡』(『道鏡・家康』ISBN 4829111321 所収、富士見書房時代小説文庫)
- 黒岩重吾『弓削道鏡』上巻 ISBN 4167182300 下巻 ISBN 4167182319 文藝春秋刊
- 藤巻一保『陰陽魔界伝 弓削道鏡篇』ISBN 4198505489 徳間書店刊
- 周防柳『恋する女帝』 ISBN 4120058689 中央公論新社刊
- 映画
- テレビドラマ
- 『唐招提寺1200年の謎〜天平を駆けぬけた男と女たち』(2009年、TBS、道鏡役:魔裟斗)
脚注
注釈
出典
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参考文献
- 横田健一『道鏡』吉川弘文館〈人物叢書〉、1959年3月25日。
- 新装版(1988年):ISBN 4642051384
- 瀧川政次郎『倩笑至味』青蛙房、1963年2月25日。doi:10.11501/2934962。(
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- 根本誠二『天平期の僧侶と天皇―僧道鏡試論―』岩田書院、2003年10月。 ISBN 4-87294-293-0。
- 瀧浪貞子『奈良朝の政変と道鏡』吉川弘文館〈敗者の日本史〉、2013年3月1日。 ISBN 978-4-642-06448-4。
- 勝浦令子『孝謙・称徳天皇―出家しても政を行ふに豈障らず―』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2014年10月10日。 ISBN 978-4-623-07181-4。
- 鷺森浩幸『藤原仲麻呂と道鏡 ゆらぐ奈良朝の政治体制』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2020年8月1日。 ISBN 978-4-642-05904-6。
- 八尾市公式サイト「道鏡と八尾」
- 八尾市観光データベース 道鏡
- 八尾市観光データベース 弓削道鏡 (石板の内容が文字起こしされているので便利)
関連文献
- 瀧川政次郎「弓削道鏡」『人物新日本史』《上代編》明治書院、1953年6月5日、183-294頁。doi:10.11501/2972688。(
要登録)
- 平野邦雄『和気清麻呂』吉川弘文館人物叢書 初版(1964年)新装版(1986年):ISBN 4642050302
- 樋口清之『うめぼし博士の逆・日本史 3』祥伝社(1987年):ISBN 4396500092
- 瀧川政次郎「法王と法王宮職」
- 弥永貞三「阿衡の紛議」
- 中西康裕「『続日本紀』と道鏡事件」
- 本郷真紹「道鏡は天皇位をねらったのか」
関連項目
外部リンク
- 弓削法皇のページへのリンク