源博陸
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建久9年(1198年)正月、通親は先例や幕府の反対を押し切り、土御門天皇の践祚を強行した。親王宣下がなかったのは光仁天皇の例によるとされたが、藤原定家は「光仁の例によるなら弓削法皇(道鏡)は誰なのか」(兼実を道鏡になぞらえるつもりか)と憤慨している。これ以降、通親は「外祖の号を借りて天下を独歩するの体なり」と権勢を極め、「源博陸」と称されることになる。 正治元年(1199年)正月、通親は自らの右近衛大将就任にあたり、頼朝の嫡子・源頼家を左近衛中将に昇進させることで幕府の反発を和らげようとしたが、18日になって頼朝の重病危急の報が舞い込んできた。頼朝の死去が公表された後では頼家昇進は延引せざるを得なくなるため、通親は臨時除目を急遽行い、自らの右大将就任と頼家の昇進の手続きを取った。定家は、頼朝の死を知りながら見存の由を称して除目を強行し、その翌日に弔意を表して閉門したことを「奇謀の至り」と非難している。頼朝の死は政局の動揺を巻き起こし、京都では一条能保の郎等が通親の襲撃を企て、通親が院御所に立て籠もるという事件が発生した(三左衛門事件)。大江広元を中心とする幕府首脳部は通親支持を決定し、通親排斥の動きは抑えられて京都は平静に帰した。 通親は土御門邸において、寝殿を造り直し四足門を立てるなど準備を整え、6月22日に内大臣に任じられた。一方で成人した後鳥羽上皇の意向にも配慮して、九条良経を左大臣、近衛家実を右大臣に据えることで近衛・九条両家の融和を図っている。良経と家実は共に若年であり、通親が実質的に太政官を取りまとめる形となった。この頃に、通親は松殿基房の娘・伊子を妻としている。 正治2年(1200年)4月、後鳥羽上皇の第三皇子・守成親王(後の順徳天皇)が立太子すると通親は東宮傅となり、義弟の藤原範光を春宮亮、嫡子の源通光を春宮権亮に任じて、春宮坊を村上源氏と高倉家で固めた。建仁2年(1202年)になっても通親は、養女・在子の院号宣下(承明門院)の上卿を務め、盟友の葉室宗頼が造営した院御所・京極殿に参入して上皇を迎えるなど精力的に活動していたが、10月21日に54歳で急死した。突然の訃報を聞いた近衛家実は「院中諸事を申し行うの人なり」と日記に記し(『猪隈関白記』)、朝廷は土御門天皇の外祖父として従一位を追贈した。後鳥羽上皇も御歌合を止めて哀悼の意を表したという。通親の死後、後鳥羽上皇を諫止できる者はいなくなり、後鳥羽院政が本格的に始まることになる。 通親は和歌の才能にも優れ、和歌所寄人にも任じられて後の『新古今和歌集』編纂に通じる新しい勅撰和歌集の計画を主導した。しかし、新古今集の完成を見ることなく死去。享年54。『新古今和歌集』など多くの和歌集に通親の和歌が採用されている。
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