源博陸とは? わかりやすく解説

源博陸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:00 UTC 版)

源通親」の記事における「源博陸」の解説

建久9年1198年正月、通親は先例幕府反対押し切り土御門天皇践祚強行した親王宣下がなかったのは光仁天皇の例によるとされたが、藤原定家は「光仁の例によるなら弓削法皇道鏡)は誰なのか」(兼実を道鏡なぞらえるつもりか)と憤慨している。これ以降、通親は「外祖の号を借りて天下独歩するの体なり」と権勢極め、「源博陸」と称されることになる。 正治元年1199年正月、通親は自らの右近衛大将就任にあたり頼朝嫡子源頼家左近衛中将昇進させることで幕府反発和らげようとしたが、18日になって頼朝重病危急の報が舞い込んできた。頼朝死去公表され後で頼家昇進延引せざるを得なくなるため、通親は臨時除目急遽行い、自らの右大将就任頼家昇進の手続き取った定家は、頼朝の死を知りながら見存の由を称して除目強行し、その翌日弔意表して閉門したことを「奇謀至り」と非難している。頼朝の死は政局動揺巻き起こし京都では一条能保郎等が通親の襲撃企て、通親が院御所立て籠もるという事件が発生した三左衛門事件)。大江広元中心とする幕府首脳部は通親支持決定し、通親排斥動き抑えられ京都平静に帰した。 通親は土御門邸において、寝殿造り直し四足門立てるなど準備整え6月22日内大臣任じられた。一方で成人した後鳥羽上皇意向にも配慮して九条良経左大臣近衛家実右大臣据えることで近衛九条両家融和図っている。良経と家実は共に若年であり、通親が実質的に太政官取りまとめるとなったこの頃に、通親は松殿基房の娘・伊子を妻としている。 正治2年1200年4月後鳥羽上皇第三皇子守成親王(後の順徳天皇)が立太子すると通親は東宮傅となり、義弟藤原範光春宮亮嫡子源通光春宮権亮任じて春宮坊村上源氏高倉家固めた建仁2年1202年になっても通親は、養女・在子の院号宣下承明門院の上卿を務め盟友葉室宗頼造営した院御所京極殿に参入して上皇迎えるなど精力的に活動していたが、10月21日54歳急死した突然の訃報聞いた近衛家実は「院中諸事申し行うの人なり」と日記記し(『猪隈関白記』)、朝廷土御門天皇外祖父として従一位追贈した。後鳥羽上皇御歌合を止めて哀悼の意表したという。通親の死後後鳥羽上皇諫止できる者はいなくなり後鳥羽院政が本格的に始まることになる。 通親は和歌才能にも優れ和歌所寄人にも任じられて後の『新古今和歌集編纂通じ新し勅撰和歌集計画主導した。しかし、新古今集完成を見ることなく死去享年54。『新古今和歌集』など多く和歌集に通親の和歌採用されている。

※この「源博陸」の解説は、「源通親」の解説の一部です。
「源博陸」を含む「源通親」の記事については、「源通親」の概要を参照ください。

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