順徳天皇
母は藤原範季の娘重子。
順徳天皇は父後鳥羽上皇の意向もあって鎌倉幕府に対しては終始強気の姿勢で臨んだ。
順徳天皇の治政は、二十一ヶ条からなる建暦の新制が制定されるなどしたが、平氏追討に続く鎌倉幕府との軋轢があり、目覚しい政治は行われなかった。
1221年に懐成仁親王に譲位した。
同年後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発したときは、共に幕府打倒を図ったが失敗した(承久の乱)。
乱の後、後鳥羽上皇と共に佐渡に配流された。
有職故実、和歌などに通じていたといわれ、「禁秘抄」「順徳院御集」がある。
第84代天皇 | |
天皇名 | 順徳天皇 |
読み方 | じゅんとくてんのう |
名・諱等 | 守成親王 |
読み方 | もりひらしんのう |
時代区分 | 中世 |
天皇在位 | 1210年から1221年 |
生年 | 1197 |
没年 | 1242 |
父 | 後鳥羽天皇 |
母 | 藤原重子 |
兄弟 | 為仁親王 |
配偶者 | 九条立子 |
皇子女 | 懐成仁親王 |
即位宮 | 平安京 |
天皇陵 | 大原陵 |
所在地 | 京都市左京区大原勝林院町 |
順徳天皇
(守成親王 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/11 05:00 UTC 版)
順徳天皇(じゅんとくてんのう、旧字体: 順德天皇、1197年10月22日〈建久8年9月10日〉- 1242年10月7日〈仁治3年9月12日〉は、日本の第84代天皇(在位:1210年12月12日〈承元4年11月25日〉- 1221年5月13日〈承久3年4月20日〉)[1][2][3]。諱は守成(もりなり)[1][2][3]。
- ^ a b c d ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - コトバンク
- ^ a b c d e f g h i j k l m 朝日日本歴史人物事典 - コトバンク 『秋山喜代子』
- ^ a b c d e f g h i 日本大百科全書(ニッポニカ) - コトバンク 『山本博也』
- ^ 栗山圭子「准母立后制にみる中世前期の王家」(初出:『日本史研究』465号(2001年)/所収:栗山『中世王家の成立と院政』吉川弘文館、2012年 ISBN 978-4-642-02910-0)
- ^ 藤川功和「『平戸記』の順徳院-仁治三年十月十日条から読む-」『明月記研究』七(2002年)
- ^ 新間水緒「仲恭天皇」志村有弘 編『天皇皇族歴史伝説大事典』(勉誠出版、2008年) ISBN 978-4-585-06063-5 P546.
- ^ 谷山俊英「順徳天皇」志村有弘 編『天皇皇族歴史伝説大事典』(勉誠出版、2008年) ISBN 978-4-585-06063-5 P541.
- ^ 都司嘉宣 佐渡沖地震(1762年) 島北端を襲った大津波 - 産経新聞
- ^ 山形新聞社 2003, p. 27.
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