源通親とは? わかりやすく解説

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源通親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/21 03:00 UTC 版)

源 通親(みなもと の みちちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿村上源氏久我流内大臣源雅通の子。官位正二位内大臣右大将従一位久我家4代。


注釈

  1. ^ 範子所生の三男・通光は文治3年(1187年)生まれなので、通親と範子の婚姻は文治2年(1186年)頃と見られる。範子の前夫・能円は壇ノ浦で捕らえられて配流となったが、通親は流罪宣下の上卿を務めている(『玉葉』元暦2年5月21日条)。
  2. ^ 文治2年(1186年)6月、祈雨奉幣の八幡使勤仕を通親に要請して快諾を得た兼実は、「凡そ件の卿、奉公の至り、肩を比ぶる人なし。卒璽の催し、又以て領状す。かたがた忠士と謂うべし」と評し、通親に使者を遣わして感悦の旨を伝えている(『玉葉』文治2年6月1条)。
  3. ^ この人事については、頼朝が在京武力掌握のために検非違使庁を幕府の管理下に置く構想を抱き、2月に検非違使別当となった一条能保を補佐するため、広元が検非違使庁の法曹部門を担当する明法博士に就任したのではないかとする見解がある(佐伯智広「一条能保と鎌倉初期公武関係」『古代文化』564、2006年)。
  4. ^ 「桑門(僧侶)の外孫、かつて例なし」「幼主甘心せざる由、東方頻りに申さしむ」(『玉葉』建久9年正月7日条)
  5. ^ 「博陸」は関白の唐名武帝が重臣・霍光を博陸侯に封じた故事に由来する。

出典

  1. ^ a b 吾妻鏡宝治元年(1247年)6月14日条
  2. ^ 玉葉』寿永2年8月19日条
  3. ^ 吉記』寿永2年11月19日条
  4. ^ 明月記』建久9年正月11日条
  5. ^ 『玉葉』建久9年正月7日条
  6. ^ 『明月記』正治元年正月22日条
  7. ^ 『明月記』正治元年6月19日条


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