高倉天皇の側近とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 高倉天皇の側近の意味・解説 

高倉天皇の側近

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:00 UTC 版)

源通親」の記事における「高倉天皇の側近」の解説

久安5年1149年)に村上源氏嫡流生まれ保元3年1158年)、10歳氏爵により従五位下叙された。村上源氏堀河天皇治世では外戚として隆盛極めたが、その後閑院流押され勢力後退させていた。通親の父・雅通は鳥羽院政期美福門院近侍していたが、後白河院政が開始される立場転換し仁安3年1168年)、後白河上皇の妃・平滋子立后に際して皇太后宮大夫となった。通親も高倉天皇践祚同時に昇殿許され側近として奉仕した。通親の最初の室は花山院忠雅の娘だったが、やがて平教盛の娘(または通盛の娘)を二人目の室とし、天皇背後にいる平氏との関係を深めている。 治承3年1179年正月蔵人頭となり、治承4年1180年正月には参議左近衛権中将となって公卿列した治承三年の政変によって心ならずも政務執ることになった高倉天皇2月譲位し院政開始するが、通親は院庁別当として政務未熟な上皇補佐した。通親は3月厳島御幸6月福原遷都にも付き従ったが、5月起こった以仁王の挙兵機に全国各地動乱態となり、11月には平安京還都となった高倉上皇体調悪化して病の床に伏し、通親は「惜しからぬ 命をかへて 類ひなき 君が御世をも 千代になさはや」と歌を詠んで快癒祈ったが、治承5年1181年正月21歳若さ崩御した。通親は上皇近臣として素服賜った長年上皇仕えた通親は崩御悼み高倉院記』に哀切の情を綴っている。

※この「高倉天皇の側近」の解説は、「源通親」の解説の一部です。
「高倉天皇の側近」を含む「源通親」の記事については、「源通親」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「高倉天皇の側近」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「高倉天皇の側近」の関連用語

1
50% |||||

2
4% |||||

3
2% |||||

高倉天皇の側近のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



高倉天皇の側近のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの源通親 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS