通親の子孫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:00 UTC 版)
長男・源通宗は参議正四位下左中将になったものの建久9年(1198年)に31歳の若さで卒去した。だが、その娘・通子と土御門天皇の間から後嵯峨天皇が誕生し、通親の一族は土御門・後嵯峨の2代の天皇の外戚になった。 その後、新たに台頭してきた西園寺家に押されて通親時代の繁栄を取り戻す事はなかったが、それでも通親の子供達―通具・通光(嫡子)・定通・通方はそれぞれ堀川家・久我家・土御門家・中院家の四家に分かれ、堀川家と土御門家は断絶したが、久我家と中院家は明治維新にいたるまで家名を存続させ華族に列せられた。なお、北畠家は中院家の、岩倉家は久我家の庶流である。 最も歴史に名を残したのは、通親と藤原伊子との間に生まれた六男である。幼くして両親の死に遭遇したその少年は出家して道元と名乗る。彼が南宋から帰国して「曹洞宗」を開くのは通親の死から24年後の事である。ただし、道元の両親が誰であるかについては諸説あり、通親と伊子を両親とする面山瑞方による訂補本『建撕記』の記載の信用性には疑義が呈されている。 養子の証空は法然に弟子入りし、浄土宗西山三派の初祖となった。
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