コミューン―選挙宣言と成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:10 UTC 版)
「パリ・コミューン」の記事における「コミューン―選挙宣言と成立」の解説
政治シリーズ記事からの派生 社会民主主義 先駆 ヒューマニズム啓蒙時代フランス革命空想的社会主義チャーティズム1848年革命パリ・コミューンキリスト教社会主義(宗教社会主義)労働組合進歩主義マルクス主義(正統派マルクス主義)フェビアン協会第二インターナショナル 発展 修正主義 · 社会改良主義倫理社会主義(英語版)労働社会主義インターナショナル民主社会主義社会自由主義ネオ・コーポラティズム社会的市場経済第三の道ケインズ経済学 理念・政策 間接民主制 · 複数政党制労働基本権 · 自由権福祉国家論 · 混合経済富の再分配 · フェア・トレード環境保護 · 世俗主義協同組合 · 社会正義フランクフルト宣言 人物 アトリー · アウォロウォ · ベルンシュタインベタンクール · ブットー · ブラント · ブランティングカーティン · ダシンスキ · デブス · ダグラスエジェヴィト · ゴンサーレス · ヒルファディングジョレス · 張君勱 · 片山哲ラッサール · レイトン · レベックマクドナルド · マンデラ · ネーダー · ネルーバッジェ・イ・オルドーニェス · パルメプレハーノフ · サヴェジ · トマスウィリアムズ 組織 社会民主党社会主義インターナショナル国際社会主義青年同盟欧州社会党国際労働組合総連合 Portal:政治学 表 話 編 歴 この間オルレアン家の王子が軍事司令官に任命されるとの噂が伝わり、王政復古に反発するパリの反政府への姿勢が頂点に達する。これがきっかけとなり、一時的に国家機構が停止し無政府状態が生じた。その空白を国民衛兵が革命軍として埋めることとなった。やがてパリでティエール政府に代わるコミューン政府の選挙がおこなわれることになった。 3月23日、IWAフランス連合評議会のパリ支部は、次のように宣言した。 「長い一連の敗北、わが国の完全な崩壊をもたらすことになるかもしれない破局、これがフランスを支配してきた政府がフランスのためにつくり出した状況の帳尻である。……。いまや権威の原理は街頭に秩序を再建し、職場に労働を復活させるうえに無力である。そしてその無力は権威の否認を意味する。利害の非連帯性が全般的な破滅を生み出し、社会戦争をもたらした。自由、平等、連帯によって、新しい基礎の上に秩序を確立すること、その第一の条件である労働を再組織することを要求しなければならない。労働者諸君、コミューン革命はこれらの原理を確認し、未来における葛藤のあらゆる原因を取り除くものである。……。信用と交換の組織、労働者の結社、無償の世俗的な完全教育、集会と結社の権利、言論の絶対的な自由、市民の自由、警察、軍隊、衛生、統計、その他の業務を自治体の観点でなす組織。……。パリの人民は、自らの都市の主人としてとどまり、……自らの自治体の代表を確保するという至上の権利を、議会の選挙投票において確認するであろう。 3月26日の日曜日、パリの人民は誇りをもってコミューンのために投票に赴くであろう。」 3月26日、コミューン評議会の選挙(フランス語版)が実施され、内乱中の混乱でありながら成人男子からなる有権者48万5千人中22万5千人が投票に参加した。開票の結果、84名の候補者が当選を果たす。衛兵中央からは12名が当選した他、ブランキ派からはオーギュスト・ブランキ(投獄中)、ギュスターヴ・フルーランス(英語版)(まもなく戦死)、エミール・ウード(英語版)、ギュスターヴ・トリドン(英語版)、テオドール・フェレ(英語版)、ロワール・リゴー(フランス語版)、エミール・ヴィクトル・デュヴァール(フランス語版)(まもなく戦死)、レオ・ミラー(フランス語版)ら10名、親ブランキ派が15-16名当選した。また、ウジェーヌ・ヴァルラン(英語版)、ブノア・マロン(英語版)、アルベール・テイス(フランス語版)、エドワール・ヴァイアン(フランス語版)、ジャン・ルイ・パンディ(フランス語版)、シャルル・ベレー(フランス語版)、アドルフ・アシ(フランス語版)、レオ・フランケル(英語版)、ギュスターヴ・ルフランセ(フランス語版)、ジュール・ヴァレス(英語版)などの15-16名のインター派も当選した。さらに、ブルジョア急進派が20名ほど当選したほか、シャルル・ドレクリューズ(英語版)、パスカル・グルーセ(フランス語版)、アルヌール、ウジェーヌ・プロトー(英語版)、フェリックス・ピア(英語版)をはじめとするジャコバン革命派が当選した。この選挙の結果、パリ・コミューン政府が成立した。 コミューン政府は投獄中の者や上記のインター派、ブランキ派、ジャコバン派が大半を占めていたが、ヴァルランやマロンのような熟練職人もいたものの労働者ばかりではなく法律家や医師、事務員をはじめとする小市民、そして教員や学者、芸術家、あるいはヴァレスといったジャーナリストなど無数の知識人が含まれ、職業も思想も様々な人びとが構成する民主連合政権であった。2万人の国民衛兵と市民の祝賀を前に、金色の総飾りに飾られた巨大な赤旗が翻る市庁舎の広場でコミューン政府成立の盛大な式典が開催された。赤い帯飾りをかけたコミューン議員と国民衛兵将校は演台の上に立って、群衆の割れんばかりの拍手喝采を受けた。当選者の名が読み上げられ衛兵中央を代表してランヴィエが自由の女神像の前にて挨拶と祝辞を読み上げた。そして、『ラ・マルセイエーズ』が合唱されて、老シャルル・ベレー(フランス語版)が演説を行ってコミューン政府の成立を宣言、「人民の名において、コミューンが宣言された!コミューン万歳!」の大斉唱が続いた。こうして式典会場はついには革命的民主共和主義の精神を鼓舞する赤旗と自由を祝福する白いハンカチの花畑となった。 パリ・コミューンの政権は72日間という短命で終わったが、教会と国家の政教分離、無償の義務教育に関してはコミューン崩壊後の第三共和政に受けつがれた。世界に先がけて実現した女性参政権が、国家レベルで実現するのは1893年のニュージーランドを待たなければならなかった。 かくして、1871年3月28日、パリ市庁舎前でパリ・コミューンが宣言され、以後5月20日まで二か月ほどの期間パリを統治することとなる。老シャルル・ベレー(フランス語版)を議長に、コミューン執行委員会を頂点として執行部、財務、軍事、司法、保安、食糧供給、労働・工業・交換、外務、公共事業、教育の10の各部実務機関が組織された。フランスという国家機構から放棄されたパリ市民は、衛兵中央の補佐を受けつつ各執行部を通じ、自発的に行政組織を再稼動させ、このときからコミューンは「代議体ではなく、執行権であって同時に立法権を兼ねた行動体」として活動をはじめた革命政府となった。 その間、教育改革、行政の民主化、集会の自由、労働組合をはじめとする結社の自由、婦人参政権、言論の自由、信教の自由、政教分離、常備軍の廃止、失業や破産などによる生活困難者を対象とした生活保護、各種の社会保障など民主的な政策が打ち出され、暦も共和暦が用いられた。 「自由権」、「社会権」、および「婦人参政権」も参照 4月2日、普仏戦争での敗北の将という汚名返上に燃えるパトリス・ド・マクマオン元帥率いるヴェルサイユ政府軍による攻撃が開始された(パリの東部と北部はプロイセン軍により封鎖)。衛兵中央は声明を発表し、最終決戦の決意を示している。 「労働者諸君、思い違いをしてはならない。これは偉大な闘争である。寄生と労働、搾取と生産とが戦っているのだ。もし無知の中にむなしく日を暮らし窮乏の中に埋没することに飽きたのならば、……、もし諸君の子供たちが自分の労働の利益を手に入れ……自らの汗で搾取者の財産を富ませたり、自らの血を専制君主のために流したりするような動物のごときものでなくなるのを願うならば、……、もし諸君の娘たちが貴族の腕の中で快楽の道具となることを望まないのならば、放蕩と貧困が男子を警察に、女子を売春に追いやることを欲しないのならば、もし諸君が正義の支配を欲するのならば、労働者諸君、賢明であれ、決起せよ! そうすれば諸君の力強い手は汚らわしい反動を諸君の足元に投げ倒すであろう!働いて、善意をもって社会問題の解決を求めるすべての諸君に、進歩に向かって団結することを要請する。祖国とその普遍的精神の運命から霊感を得られんことを!」 かかる決起に見られる勇敢はヴァンドーム広場での帝国円柱の解体要請にも見られた。芸術家ギュスターヴ・クールベは、「ヴァンドーム広場のコラムは記念碑であって芸術的価値に欠けること、過去の王朝の戦争と征服の認識を表現することが恒常化してゆくこと、そしてそれは共和国の感情として許容しがたいこと、これらをかんがみ市民クールベは、国防政府がこのコラムの分解を許可するよう希望する」と上申し、コラムをばらばらに解体するよう提案している。4月12日、第二帝政期の帝権の表象たる円柱は「野蛮の記念碑であり、暴力と虚栄の象徴であり、軍国主義の肯定であり、国際法の否定であり、敗者に対する勝者の永年の凌辱であり、フランス共和国の三大原則の一つである友愛に対する永遠の侵害であることに鑑み」、これを分解することが決議された。図版にも見られるように、5月8日コミューン政府の名の下に円柱は倒された。 「ギュスターヴ・クールベ」および「ヴァンドーム広場」も参照
※この「コミューン―選挙宣言と成立」の解説は、「パリ・コミューン」の解説の一部です。
「コミューン―選挙宣言と成立」を含む「パリ・コミューン」の記事については、「パリ・コミューン」の概要を参照ください。
- コミューン―選挙宣言と成立のページへのリンク