倒幕運動
倒幕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)
元弘元年(1331年)に後醍醐天皇が討幕運動を起こし、京を脱出して笠置山に拠った元弘の乱では幕府が編成した鎮圧軍に従軍。捕らえられた後醍醐天皇は廃され、元弘2年(1332年)3月、供奉する阿野廉子・千種忠顕らと共に隠岐島へ配流された際には導誉が道中警護などを務めた(『太平記』)。 後醍醐帝を隠岐に送り出し帰京したのち、後醍醐の寵臣で前権中納言の北畠具行を鎌倉へ護送する任にあたる。しかし道中の近江国柏原(米原市柏原)で幕府より処刑せよとの命をうけ、同年6月19日に具行を処刑する。 後醍醐配流後も河内の楠木正成らは反幕府活動を続けて幕府軍と戦い、後醍醐も隠岐を脱出して伯耆国船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)に立て籠った。元弘3年(1333年)3月、幕府北条氏は下野の足利高氏(後の尊氏)らを船上山討伐に派遣した。しかし高氏は幕府に反旗を翻し、丹波国篠村(京都府亀岡市)で反転して京都の六波羅探題を攻略した。 この時期の導誉自身の動向については一次史料がなく、『太平記』や『梅松論』にもまったく記述がないため良く解っていない。これについて森茂暁は『佐々木京極家記録』の「讃岐丸亀京極家譜」に掲載された記事に、(後世の史料であり信憑性に注意が必要と前置きしたうえで)鎌倉北条氏への反逆を決意した足利高氏と導誉が密約して連携行動を取ったことを示す逸話や、近江国番場宿(滋賀県米原市番場)が導誉の所領であると記されていることから、高氏に六波羅探題を落とされ鎌倉へ退却する北条仲時の軍勢が、元弘3年(1333年)5月9日に近江番場宿で「山立・強盗・溢者ども2000-3000人」に阻まれ、蓮華寺で一族432人と共に自刃した出来事(『太平記』)の背後には、導誉が主導的に関わっていた可能性が想定されるとしている。なおこの時、光厳天皇や花園上皇は捕らえられ、同族の佐々木清高は仲時と共に殉じ、佐々木氏嫡流の六角時信は『太平記』(天正本)によると導誉を介して尊氏に降伏している。 足利尊氏、上野の新田義貞らの活躍で鎌倉幕府は滅亡し、入京した後醍醐天皇により建武の新政が開始されると、時信や塩冶高貞ら他の一族と共に雑訴決断所の奉行人となる。
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